テラーノベル
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朝の空気は少し冷たく、季節が確かに進んでいることを教えてくれていた。
環奈は駅のホームで、何度もスーツの裾を直していた。
鏡で見たときは平気だったのに、外に出た瞬間、急に自信がなくなるのはいつものことだ。
「……緊張する。」
心の中でつぶやきながら、電車に乗り込む。
車窓に映った自分の顔が、どこかよそよそしく見えた。
「こちらが本日から勤務していただく、白崎環奈さんです。」
人事担当者の紹介で、オフィスに軽い拍手が起きた。
環奈は緊張した面持ちでお辞儀をする。
「白崎環奈です。精一杯がんばります。よろしくお願いいたします。」
言いながら、自分の声が少しだけ上ずっているのが分かる。
でも誰も笑わなかった。それだけで少しホッとした。
新入社員研修が終わったあと、オフィスの下にある併設のカフェでランチを取るようにと勧められた。
「せっかくだから、うちのカフェ使ってみてね。美味しいし、雰囲気いいから。」
そう言われて、環奈はあの日のことを思い出す。
(……あのコーヒー、すごく美味しかったな。)
カフェの扉を開けると、変わらないあの香りが迎えてくれた。
そして――
「……あれ?」
目が合った。
カウンターの奥、黒いエプロンをつけた男性。
あの日、そっとコーヒーを差し出してくれた、あの人だった。
彼も環奈に気づいたようで、一瞬驚いたような顔をしたあと、すぐに柔らかい笑みを浮かべる。
「お久しぶりですね。受かりましたか?」
環奈は、びっくりしすぎて少し口を開けたまま固まってしまった。
でもすぐに、こくんと小さくうなずいた。
「はい……今日から、ここで働くことになりました。」
「それはよかった。じゃあ、改めて――」
彼は手を差し出した。
「松村優一郎です。これから、よろしくお願いします。」
――こうして再会した二人は、まだ気づいていない。
この何気ない挨拶が、これからの毎日を、どれほど特別なものに変えていくのかを。
環奈は、差し出された手を少し戸惑いながらも握り返した。
思っていたよりも温かい手だった。
「白崎環奈です。……こちらこそ、よろしくお願いします。」
松村は、にこっと笑ってからカウンターの奥に戻っていった。
(……松村さん、っていうんだ。)
たったそれだけのことなのに、胸の奥が少しだけあたたかくなる。
環奈は店内の隅の席に座り、ランチセットを注文した。
研修の疲れもあって、体がふわふわと浮いているようだったけれど、心はなぜか落ち着いていた。
そして、少しして運ばれてきたランチと一緒に、紙カップに入ったコーヒーがそっと置かれた。
「今日のブレンドは少し軽めにしてみました。疲れてるみたいだったので。」
その一言に、環奈ははっとした。
「……そんなふうに見えます?」
「ええ、少しだけ。初日って、誰でもそうなりますよ。」
松村はにっこりと笑って、それ以上は何も言わずに戻っていった。
(なんでだろう、ちゃんと見てくれてるって思った。)
それは環奈にとって、いつもなかった感覚だった。
頑張っても、空回りばかりして、誰にも気づかれない。
でも彼の一言は、まるで「ちゃんと見てるよ」と言ってくれているようだった。
コーヒーを一口飲む。
やさしくて、深い味。あの日と同じ香りが、ふわっと胸に広がった。
「……やっぱり、美味しい。」
小さくつぶやいた声は、自分だけに届けばそれでよかった。
***
午後、再び職場に戻った環奈は、まだ慣れないシステムや人の多さに少し戸惑っていた。
でも、ランチでふと笑顔になれたおかげで、ほんの少し心が軽くなっていた。
その日は特に大きな仕事はなく、書類の確認やオフィスツアーで一日が過ぎていった。
夕方、仕事を終えて帰ろうとエレベーターに乗ろうとしたとき。
「白崎さん、お疲れさま。」
背後から聞き慣れた声がして振り向くと、松村がカフェのスタッフ用通用口から出てきていた。
「初日、どうでした?」
環奈は少し照れくさそうに笑って答えた。
「正直、ぐったりです。でも……なんとか、終わりました。」
「それならよかった。無理しすぎないでくださいね。」
「……はい。」
ほんの短いやり取りだったのに、帰り道の空は少しだけ明るく見えた。
環奈はイヤホンもつけず、まっすぐな風の音を聞きながら駅まで歩いた。
(……松村さん、なんか、優しいな。)
そんな言葉が、胸の中にぽつんと浮かんだ。
彼の笑顔が、コーヒーの香りと一緒に思い出される。
これはただの職場の人間関係。
きっと、たまたま話しかけられただけ。
……そう思おうとしても、なぜかその声と手の温かさが、ずっと頭から離れなかった。
つづく
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