テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
穏やかに余生を過ごせる様にと用意されたのは、山の中に建てられた小さな小屋だった。あの魔女協会を出てからイチはそこで一人過ごし、時折、というかほぼ毎日誰かしら──あの魔女達や国の王弟だの──が来ていたが、その頻度も減っていた。理由は単純、皆、互いに歳を取ったからだ。イチもまた同じで、反世界が出会った頃よりも随分と縮んで、髪も白くなり、顔にも身体にも皺が増えた。長い間元気だった記憶はあるが、遂には寝たきりになってしまった。窓際に置かれたベッドの上で、反世界に笑い掛ける。イチは嗄れた声で言った。
「俺はもう長くない。きっとあと一週間もしないうちに死ぬだろう。もしかしたら今晩かもしれない。だから俺が死ぬその前に、お前の杖で変滅させて欲しいんだ」
「……」
「お前も一緒に死んでくれ、と言っているような、ものだから、申し訳ないが。変滅しなければ、俺の中に居る魔法が皆解放されてしまうから」
イチはそう言って苦笑した。彼が習得している魔法は皆反人類魔法ばかり。攻撃的で、理由は数あれど人間を忌み嫌い、もしくは甚振る事を楽しみとしている魔法達だ。イチのマスターシップで今は大人しくしているが、死ねば解放されてしまう。その後どうなるかなど分からない。だが反世界が自分諸共変滅すれば、それらの魔法はこの世から消える。反世界の魔法は、同族である魔法すら消す事が出来るからだ。反世界は少しの逡巡もしなかった。分かった、と、簡潔に答えた。
「お前と消える事が出来るのなら、それで良い」
皺だらけで、けれど暖かい手を握ってそう言えば、イチはありがとう、と笑った。昔と変わらない笑顔だった。その笑顔を見る事が好きだったのだと気が付いたのは、一体いつだったか。それから反世界はしばらくイチの手を握っていたが、それから己の錫杖を手に取り。イチの胸にそれを突き立てて、自分諸共、変滅をした。そうしてこの世から消えて、無くなった。
その筈だった。
「……──」
ポラリス山の辺り一帯を変滅させてからすぐの事。反世界の脳に唐突に流れ込んで来た映像があった。思わず呆然と立ち尽くしてしまうくらいには長い、そしてあまりにも重たいそれがなんなのか、直感的に分かった。これは前世の様なものだと。そう呼ぶものがこの世にあるとするなら、だが。それから反世界は深呼吸をし、思い出したそれをゆっくりと反芻した。
その世界でも、反世界がする事は今と何も変わっていなかった。世界をただ滅ぼす、それだけを目的としていた。だがその目的が、ある人間との出会いで邪魔をされ、姿を変えて行った。男の身でありながら魔力を得て、反世界の魔法を狩ると宣言した、イチという男。純粋とも狂気とも呼べる真っ直ぐな赤い瞳が、反世界を射貫いた。長い長い死闘の末に、反世界はイチに習得をされた。イチは反世界を様々な所に連れ回し、沢山の会話をした。長い長い間生きて来た中で、心の底から楽しいと思えた時間だった。そして反世界は、いつしかイチを愛していた。恋も愛も、それ以外の様々なものも混じった感情を抱いていた。世界を滅ぼす事だけを目的としていた反世界を、あんなにも真っ直ぐに見つめて来る人間など居なかった。イチは反世界にとって唯一の存在だった。愛しているのだと気が付いて──ただ、もう、その時には遅かった。
イチはどうしたって人間だ。だから魔法とは違い年を取る。老いていく。しんでしまう。その事実に、イチが皺だらけで寝たきりになるまで反世界は気付けなかった。置いて行くなと言うには今更だった。だから、共に消えてくれと言われた事自体は素直に嬉しかった。共に生きる事が出来なくとも、共に消える事が出来るのは良かった。
でも違う。違う、ちがう。
ちがう。
本当は。
ほんとうは。
永遠に、共に在りたかった。
「……イチ、」
名前を呼ぶ。何度も何度も名前を呟いて、その度にあの人間の笑顔を、表情を、声を思い出す。出会った頃の狩人の顔も、習得してから幾度も見た笑顔も、死に際に見た皺だらけの、それでも幸せそうなかおも。反世界の事を呼ぶ声も。動いている筈も無い心臓が音を立て、ゆっくりと熱を帯びて行く。反世界はそこに触れて、一人微かに口角を上げ。そして、一つの決意を固めた。
恐らくだが、この世界は前とは然程変わらない。なんなら同じ歴史を辿っている。この山一帯を変滅させた記憶も前にあった。きっと反世界が思い出していなければ、また同じ道を辿っていたのだろう。つまりはイチもこの世に存在している筈だ。今生まれていなくとも、これから先生まれる筈だ。ならば、前よりもずっと早く、あの魔女達の仲間になるよりもずっとずっと前に、自分が出会えば。イチを此方側に引き入れる事が出来る。共に永く在れる様に、準備が出来る。反世界は歩き出した。イチを探す為に。イチと出会う為に。今度こそ、永遠に、共に在る為に。
反世界は前の事を思い出しながら、一つずつ、丁寧に準備を進めた。棺や部下達に言って、拠点としている場所に小屋を建てさせた。中の家具自体は反世界が用意して、イチと過ごす為の場所を作った。それを終えた後は、山の中に捨てられている黒い髪に赤い目の子供を見つけたら反世界の所に連れて来る様に指示を出した。彼らは人間嫌いだが、反世界の指示を無視する様な事はしない。何故そんな事を、という顔はされたが、理由は聞かれなかった。
反世界がイチを見つける事が出来たのは、あの記憶を思い出してからおおよそ6年が経った、とある山の中だった。イチは反世界の記憶よりもずっと幼く、ぼろぼろで、痩せ細っていた。もう死ぬのではないか、そんな姿だった。そのイチを餌と見做しているのか、狼がゆっくりと近付いている所だった。イチはぼんやりしながら狼を見つめていた。餌となる事を受け入れている様にも見えた。反世界は、その狼に錫杖を突き立てて変滅させた。突然現れた反世界に、イチは驚いた様に瞬きをする。すぐ側に膝を付いて手を伸ばす。イチは反世界を見上げて何かを言おうとして、そこで限界が来たのか、ふっと目を閉じてしまった。口元に手を当てると息はしていたから、死んではいないのだと分かって安堵の息を吐く。やっと、やっと見つけた。やっと、会う事が出来た。反世界はイチの身体を起こそうとして──己の指が、手が、その身体をすり抜けた。どうして、と一瞬目の前を暗くするが、ああ、そうだと気付く。この時のイチはまだ魔力を得ていない。そもそも男は魔法に触れる事すら出来ない。そういう風に出来ている。逆もまた然りという事か。考えた末に恐らく魔法を経由してなら、と思い至り、反世界はその場を変滅させて腕の様な物を作ってイチを抱え上げた。やはりそうだ。魔法を経由してなら、触れられる。地面と切り離してふわりと浮かせても問題は無かった。拠点まではこの状態で運ぼうと歩き出す。ゆりかごの様に揺れる中、イチは穏やかに眠っていた。
「……イチ」
手を伸ばして頬に触れようとしても、その指がすり抜けてしまう。その事実にひどく胸が苦しくなる。けれど、ウロロさえ習得させれば。魔力を得れば。また、イチに触れられる。気付くのが遅かった故に前は出来なかった事を、今なら出来る。まだ時間はたっぷりあるのだから、焦る必要は無い。反世界はず、と開いた裂け目にイチを連れて足を踏み入れる。辿り着いた拠点、そこに建てた小屋に入って、イチの為に選んだベッドにそっと横たえた。イチは目が覚める様子が無い。まずは食事を用意しなければ。何も食べていない様子だった、胃に突然物を入れると良くないと確か前に言っていた気がするから、何か胃に優しい物を。そんな事を考えながら、反世界はそっと部屋を出た。
魔女達よりも早くに、イチに出会う事が出来た。イチを完全に此方側に引き入れる事が出来るという事だ。他のものなど、どうでも良かった。イチがいない事で救われないもの達が多くあるのだとしても、反世界にとっては、どうだって構わない事だった。イチと、また共に居られるなら。永遠に在る事が出来るのなら、それで良かった。反世界にとって大切なのは、それだけなのだから。
山に捨てられ、与えられた僅かな食糧も尽き。究極の時になって、与えられた短剣がひと思いに自分の喉を突くために渡されたのだと気が付いて。その時に聞こえた獣の唸り声、そこに居た大きな狼に、食われるのだと思って。ああ自分はここで喰われて死ぬのだと思った瞬間のあの魔法を、光景を、イチは今でも思い出せる。夢に見る。
ぺき、と枯れ枝が折れる様な音と共に、狼は狼だったなんて思えないくらいに形を変えていた。目の前のそれは「死」であると、はっきり分かった。そして、狼をそうしたらしい誰かが、イチの側に膝を付いた。自分も狼と同じ様になるのかと思ったが、多分、違うと思った。イチを見下ろす真っ白な誰かは、イチを心配そうに見つめていたから。きっと助けてくれたのだと、礼を言わなければと思ったが、限界をとうに超えていたイチはそこで気を失ってしまった。
次に目を覚ますと、ふかふかの、寝心地の良いベッドの上に居た。周りを見回すと、木で出来た小屋の中だった。窓の外は雪でも積もっているみたいに真っ白だったが、あの狼が変化した後の様に何処までも白く染まっているだけだと気が付いた。その光景は死であるとはっきり分かるのに、不思議と恐ろしくは無かった。イチはベッドから降りようとしたがぐぅうと腹が大きく鳴り、寝返りを打つだけでも目の前がふらふらするくらいに空腹で、限界だったから、動けなかった。寝転がったまましばらく待っているとあの、真っ白な誰かがやって来て、目を覚ましているイチを見て安堵した様に笑った。なんて綺麗なひとだろう、とイチはぼんやり思った。全体的に真っ白で、作りものみたいに整った顔をしている男は、その手にお盆を持っていた。ふわりと良い匂いが漂ってくる。
「起きれるか?」
「……わから、ない」
「そうか。……すまないな、手を貸してやれたら良かったんだが」
言葉の意味が分からずに首を傾げると、男は棒を取り出してイチに掴む様言った。なんとも変わった形のそれを掴むとゆっくり身体を引き起こされる。また目の前がくら、とした。ベッドを跨ぐみたいに板がセットされて、そこにお盆が置かれる。お盆の上に乗っていたのは、湯気が立っている何かだった。白くてとろりとしていて、良い匂いがする。
「パン粥というものだ」
「ぱんがゆ」
「見様見真似で作ったから、味の保証は無いが」
男はイチに水が入ったグラスを差し出して来る。それを受け取ろうとして、上手く力が入ってくれなかった。支えられながら飲んだ水は、泥も何も入っていなくて、美味しかった。スプーンで半口分掬われたパン粥が口元まで運ばれて、息を吹きかけて冷ましてから口にする。何かは分からないけれど優しい味がした。あたたかい食事なんていつぶりだろう、と、イチは大事に噛み締めながらそんな事を思った。甘酸っぱい木の実も、おかしな味をした草も大事な食糧だったけれど。山の中はずっと寒くて、冷たくて、孤独だった。
長い時間を掛けても、結局全てを食べ切る事は出来なかった。残してしまって申し訳ないと思ったが、「食べる量はこれから増やして行けば良い」と男は微笑んで言ってくれた。頭に伸びて来た手がすぐに引っ込められて、ゆっくり眠ると良い、と言われたから、イチは大人しく布団に倒れ込んで、また暖かい布団で眠りについた。
次の日、かどうかは分からないが目を覚ました時、男は自身の事を教えてくれた。そもそも人間では無く魔法なのだと。人間とは思えないくらいの綺麗な男だったから、不思議では無かった。反世界の魔法だと名乗った男は、それからイチに魔法の事について教えてくれた。魔法はそもそも魔力を持つ女にしか使えない、習得すら出来ない事。男は魔法に触れる事すら出来ないが、その逆もまた然りという事。
「イチにも魔力が無いから、俺から触れる事は出来ない。勿論イチからも」
だから昨日杖で起こしてくれたのか、と、イチは気が付いた。
「ただ、魔力を得る方法はある。そうすれば、触れる事が出来る」
「そうなのか?」
「あぁ。イチが魔力を得る為には、ある魔法を習得する必要がある。魔法は皆習得する為の条件を持っていて……ある魔法は、女には習得出来ない様になっている」
「じゃあ、男なら?」
「そういう事だ」
それから反世界は他にも色々な事を言っていたが、初めて聞く事ばかりで頭がいっぱいいっぱいになってしまって。イチの難しい顔に気付いた反世界が苦笑しながら「続きは明日にしよう」と言ってくれた。おやすみ、と眠る様に促される。イチは眠ってしまう前に、と、重たい頭と瞼をどうにか振り切った。
「はん、せかい」
「なんだ」
「助けてくれて、ありがとう」
正直、言われた事の半分も理解出来ていなかった。それでもとにかくお礼を言わなければと思っていた。イチは反世界に助けられた、それは間違いなく事実だからだ。反世界はそれを聞いて、ああ、と微かに笑ってイチの頰に手を伸ばす。その手がすり抜けて、反世界が少しがっかりした様な顔をしていて。本当に触れられないんだと、イチはその時知った。
それから、イチはこの部屋で過ごす様になった。イチの身体はまだ細く脆く小さいから、習得して欲しいという魔法にはまだ耐えられない。だからとにかく食事をして肉を付ける様にと言われた。毎日用意される食事はどれも暖かくて、美味しかった。反世界にも用事がある為、時折反世界以外の魔法がやって来て、イチが食事をするのを見張っていた。長く赤い髪を纏めた棺という名前の魔法に、紫色の蛸である幾という魔法。他にも色々な魔法が居たけれど、どれもイチ、というよりは人間自体が嫌いな様で。反世界の指示じゃなければこんな事してないのに、とよく言っていた。イチも彼らの事は苦手だったから、なるべく話さない様にしてはいたが、唯一棺は柔和で表向きは優しく接してくれていたから、彼にだけは比較的懐いていた。
ぼろぼろだった服は、つるつるでさらさらの、触り心地が良い服に変わった。ワンピースという形のパジャマだと反世界は言っていた。イチは毎日それを着て、反世界が何処からか持ってくる玩具で遊んだり、本を読みながら過ごした。文字は最初読めなかったが、反世界が隣で丁寧にゆっくり教えてくれたから、読める様になった。
それから将来魔法を習得する為、身体を魔力に慣らしておいた方が良いと、反世界が作った小さな杖で少しずつ魔力を与えられた。舌にその杖を乗せて数分待っていると、じわりと体の中が暖かくなっていくあの感覚にはいつまでも慣れそうに無かった。それが終わると反世界はいつも優しく笑って、頭を撫でるフリをしてくれる。フリなのは触れられないからだ。その事実が、イチは寂しかった。
「なぁ、反世界」
「なんだ?」
「あとどれくらいしたら、俺は魔法を習得出来る?」
「……そうだな。あと七、八年くらいじゃないか」
「ながい……」
イチが言うと、反世界は苦笑する。それから寂しそうな目をして、イチの頬にそっと触れようとして来た。勿論触れなかったけれど。
「すまないな」
「反世界?」
「魔力が無いから、俺が魔法だから、お前に触れられない。撫でる事も、抱きしめる事も出来ない。……その事実が、どうしようも無く寂しいと思う」
反世界の言葉が、イチは嬉しかった。嬉しいなんて思ってはいけないのかもしれないが、同じ気持ちなのだと知って、本当に嬉しかったのだ。
「俺も、反世界に触りたい。我慢してるの、俺だけじゃないんだな」
イチはそう言うと、よし、と拳を握る。
「あとちょっと、我慢する。頑張る!」
「……ああ」
反世界は笑って、頭を撫でる動きをした。大丈夫、と、呟く声が聞こえる。
「いつまでだって、俺は待てる」
優しくて、低い声だった。
良ければこちらをどうぞ、と棺から手渡されたのは、真っ白な手袋だった。イチを見つけてこの小屋で共に過ごし始めて、早いもので一年が経った頃の事だった。皮の分厚いそれを受け取って、反世界は首を傾げる。
「なんだこれは」
「いえ、ふと思ったのですが。イチには、物体を通してなら触れる事が出来るのですよね?」
「あぁ」
だから魔力は杖を通して少しずつ送っている。ですよね、と棺は頷いて指を立てた。
「それを付けた状態でなら、手だけでも触れ合える事が出来るのではないかと思いまして」
「……なるほど」
この手袋はごく普通の、魔力なんて微塵も籠っていない物だ。反世界はそれを手に付けてみる。ごわごわとして動かし辛いが、これでイチに触れられるかもしれないと思うと気にならなかった。棺はそんな反世界の様子を見てにこにことしている。この魔法はいつも機嫌良さそうに笑っていた。
「反世界様」
「なんだ」
「正直な所、私はあの人間の子どもが苦手というか、何故反世界様が見つけ次第連れて来いと言ったのか、拾って来たのか、今でも分かってはいません」
「……」
「ですが、反世界様がとても幸せそうにしているので。なら良いか、と思う様になりました。それだけです。他の魔法達はどうだか知りませんが」
棺はそれだけ言うと小屋を出て行った。反世界は手袋をはめた己の手を見下ろして、何度か開いて閉じてを繰り返してからイチが居る部屋に向かった。イチはベッドの上で、何やら分厚い本を読んでいた。暇潰しの為にと最初は玩具や本を与えたが、イチは玩具にはあまり手を出さなかった。一人で遊ぶのは寂しいから嫌なのだそうだ。反世界はイチの隣でゆっくりと文字を教えて、イチが一人で全て読める様になってからは、黙々と本を読む様になった。他にする事も無いからだろう。その内玩具は買わなくなり、図鑑や絵本、魔導書などをイチに与える様になった。新しい物を渡す度にイチは嬉しそうにするので、今でも本の数は増えて行くばかりである。本と向き合っていたイチは反世界に気が付くと、「反世界!」とぱっと笑顔になってベッドを下りて側に駆け寄ってくる。イチは反世界の手袋に気が付いて「これなんだ?」と尋ねて来た。
「……」
「反世界?」
す、と手を上げて、イチの頭にそっと下ろす。手袋がぽすん、とイチの頭に乗る軽い感覚。イチはきょとん、として、それからじわじわと笑顔になって。
「反世界反世界!」
「なんだ」
「今反世界に触れてる!」
「そうだな」
今触っているのは反世界だが。そのまま手を右に、左にと動かして頭を撫でてやる。イチは笑いながら、しばらくされるがままになっていた。
「棺が、手袋越しでなら触れるのではないかと」
「触れたな!」
「あぁ」
「へへ」
イチが両手でぎゅっと暇を持て余していた方の手を握る。その手の平を頰に持って行って頬擦りをして、嬉しそうに顔を綻ばせた。
「手だけでも、うれしいな」
「そうか」
「反世界は?」
「そうだな。俺も、嬉しい」
愛おしいや嬉しい、それらは前は知る事がずっとずっと後になってしまった感情だった。後になってしまったが故に、手遅れになったのだ。今反世界は間違い無く嬉しかったし、嬉しいと喜ぶイチが愛おしかった。頭を撫でながら、腕の中に閉じ込めて抱きしめたい衝動をぐっと堪えた。今のままでは、抱きしめる事は出来ない。それでも、手だけだとしても触れ合えるのは進歩だ。イチはしばらくじっと反世界の顔を見つめていたが、唐突に「あ!」と声を上げると。
「反世界、実は、お願いがあって」
「どうした?」
「外に、出たいんだ。窓の外の白い景色じゃなくて、あの本の中みたいな」
と。ベッドの上で広げられていた本を指差した。反世界はそれを覗き込む。青空と花畑、緑の木々が描かれている、よくある絵本だった。
「一人で出るのは危ないかもしれないけど、反世界と一緒なら大丈夫じゃないかって、棺が」
「……」
余計な事を、とは思った。だがいつまでもこの小屋に閉じ籠もってくれはしないだろうな、と思うのも確かだった。イチの事だ、いつかきっと外に出たがる。黙って考え込む反世界に、イチは恐る恐るといった様子で続ける。
「それに、これを作ってみたくて」
イチが指さしたのは、花冠だった。シロツメクサ、という花で作る物らしい。作ってどうするんだと思ったが口にはしなかった。イチは相当な勇気を出して、外に出たいと言っている。何せ顔が強張っている。初めて見る表情だった。叱られる、断られると思っているのかもしれない。反世界はそっとイチの頬を撫でる。
「行くか」
「……え。いいのか?」
「俺が付いているし……ついでだから、お前が習得する魔法にも会っておこう」
「っ、ありがとう反世界!」
イチが勢いのまま抱き着こうとして来て、体をすり抜ける。慌てて体を支えると、イチは少し悲しそうな顔をして、すぐに笑顔になった。
反世界はイチに己の笠と羽織を着せて手を繋いだ。玄関を開けて外に出る。イチが小屋を出るのは、おおよそ一年振りになるだろう。空間に現れた裂け目に足を踏み入れて、イチも恐々と反世界の真似をして。次の瞬間には、山の中に居た。確かここはドルイドという名の山だ。この山で、今あれは眠っている筈だった。まぁ今は良い。先にイチがやりたい事だ。手を繋ぎながらイチに歩幅を合わせて歩く。イチは輝く瞳で木々を、空を、地面を見回していた。痩せていた体も今は健康的になった事だし、散歩程度ならさせても良いかもしれない。何にしろ体力は必要だ。いつでも反世界が付いていられる訳では無いから、その時は棺辺りに付き添いを頼んでおこうか。一番人間に近い見目が出来るのはあれだけだから。
やがて二人はシロツメクサが集まって咲いている場所にやって来た。幸いにも人は居なかった。イチはそれから花畑の真ん中に腰を下ろして、何やら呟きながら花と花を繋げていった。眉を寄せながら、それでも楽しそうにしているのを、反世界はじっと見つめていた。同じ動きを繰り返して花を繋げて行って、やがて端と端を繋げて輪になった。
「できた!」
「そうか」
「反世界、これ取ってくれ」
と、イチが反世界の頭の笠を指さした。反世界がそれを取ると、イチは膝を伸ばして、反世界の頭に花冠をぱさりと被せて。
「プレゼントだ!」
そう言って、イチがきらきらとした笑顔で言ったから。反世界は思わず瞬きをする。
「これを、俺に作りたかったのか」
「そう! いつもありがとう、反世界。でも何をあげたらお礼になるかわからないから、いらない、なら」
「まさか。……ありがとう」
反世界は首を振って、言い慣れる事の無い言葉を口にした。途端にイチが頬を染めて笑顔になる。その姿に、どうしようもなく抱きしめたい衝動に駆られて。その代わりに、イチの頭を撫でた。今は、これしか出来ないから。
それから花畑を離れ、あの魔法が眠っている山頂まで登る。ただあと少しという所で、イチの呼吸が少し荒くなっている事に気が付いた。は、ふ、と切れ切れになっている。
「大丈夫か」
そう尋ねると、イチは頷きはしたものの、顔色自体は良くない。そういえばこの一年外に出た事など無かったし、まともに体を動かした事も無かった。人間の体は突然の事にはすぐに対応出来ない様になっているのを思い出す。反世界は魔法でイチの体を浮かせた。イチは驚いた顔をして、大丈夫なのにと文句を言ったが、反世界は聞こえなかったフリをした。何か水でも持って来れば良かった、と後悔もする。前の事を思い出しながら今世で人間の事を学んだつもりだったが、上手くいかない事ばかりだ。
やがて辿り着いた山頂に居たそれを反世界と、地面に下ろされたイチが手を握りながらそっと見上げる。大きな羽を閉じて大木を背に眠っているそれに、反世界は「おい」と声を掛けた。ざわりと周りの木々が揺れて、ゆっくりと目が開く。睨む様に見下ろされた目が、意外な物を見たと言う様に瞬きをした。
「……あ? 反世界? なんでお前……なんだそのクソ餓鬼は」
「イチ、こいつは【王の魔法キング・ウロロ】という。お前が将来習得する魔法だ」
「これが……」
「待て待て待て何の話だ、勝手に進めんじゃねぇ」
ウロロは慌てて体を起こす。ぎろ、と睨んで、長い爪の指先でイチを指差した。
「この俺を習得だぁ? この餓鬼が?」
「今じゃなく、あと……七、八年したらの話だが」
「年数の問題じゃねぇんだよ。大体こいつ男だろうが」
「だからこそだ。お前の習得条件と、その心臓について、俺が知らないとでも?」
反世界の言葉にウロロは黙り込んで大きく舌打ちをする。それから胡座をかいて、その膝に肘を付いた。
「つっても、普通に無理だろ」
「は?」
「怖ぇって……確かに俺の試練は女じゃ突破出来ん様になってはいるがな? だからって男なら行けるって訳でもねぇんだわ。この俺の魔力と魔法を受け止めるだけの体力と精神力が必要なんだよ。そんなクソ餓鬼が将来そうなってるとも思えんし? そもそも、持ってない魔力に慣れてねぇ体じゃ、」
ウロロはそこで言葉を止めて、イチをじっと見た。そして思いきり顔を顰めて反世界を睨む。
「お前何してんの?」
「魔力に体を慣らしているだけだ」
「いやいや……えぇ……」
ウロロはうわぁ、とドン引きしている声を出している。なんなら引くわぁと声にまで出した。イチはといえば大人しく自分達の会話を聞いている。時折不安そうに反世界を見上げてくるので、大丈夫と言い聞かせる様に頭を撫でる。その光景にもウロロは引いていた。
「お前何があったんだよ……自分以外興味ありませんみたいな奴だったろ……」
「それはお前もだろう」
「そりゃそうだけどな? えぇ〜……」
「……また来る。今日はもう帰ろう、イチ」
イチにそう言うと頷いて、最後にウロロをもう一度見上げた。
「んだよ」
「将来よろしく!」
「誰がよろしくするかお前みたいなクソ餓鬼と!」
ウロロはそう叫んで、ヤケになった様にまた最初の体勢に戻って寝息を立て始めたのだった。
「なぁ、反世界」
「なんだ」
小屋に戻って水を飲んで休憩を終えてから、イチは決意した様にぐっと拳を握って反世界を見上げた。
「俺、もっと体力付ける!」
「……そうだな。あれの習得の為にも、付けておいた方が良い。これからは、一緒に散歩でもしよう」
反世界の言葉に、イチは笑って頷いた。こうして、イチの日課に散歩が加わった。笠と羽織でイチの姿を隠し、最初は山の中を歩いていたが、時折人間の街の周りを一周する様にもなった。毎日同じ光景では飽きるだろうという考えからで。街を歩くイチの目が輝いていたから、良かったと反世界は安堵した。反世界が毎日付いていられたら良かったが、どうしても無理な時には棺に付いて行かせる様にした。そろそろ一人でも構わないのでは、と言っていたが、何があるか分からない。過保護だと棺の顔には出ていたし、なんならイチもそう思っていそうではあった。
そんなイチの身体に変化が出て来たのは、イチを拾ってから二年が経ったとある日の事だ。いつもの様に魔力を少しずつ流している時に気が付いた。真っ黒だったイチの髪先に薄らと、白が混じり始めていたのだ。よく見ると、真っ赤だった目も光の当たり具合によっては青白く見える。反世界は杖を置いてその髪と目をよく見ようと、イチの頬を挟んで顔を上げさせた。
「反世界?」
イチが瞬きをする、その瞳に赤に白が混じり始めている。光の当たり具合の影響による見間違いかと思ったが、そうでは無い。髪もそうだ。自分と似た、どころか同じ色であると気が付いた。
「どうした?」
「……ほら」
と、鏡を取り出してイチに見せてやる。白くなっている髪先と目に、イチはぱちぱちと瞬きをした。目の下に触れて、髪に触れて。じわじわと笑顔になっていく。
「反世界と同じだ!」
「あぁ、そうだな」
喜びに溢れたその笑顔はひどく眩しい。反世界はイチの頭を撫でて、衝動のままに小さな体を抱きしめた。そこで、反世界は気が付いた。恐らくイチもそうだ。身を離してぺたりと反世界の頬に触れて、ぽかんとしている。
「……触れてる?」
「……触れてるな」
「なんで?」
「分からん。……魔力を流しているから、それが理由か?」
少しずつ、人としての理から外れているのかもしれない。男の身でありながら魔法に触れられる程度には。将来ウロロを習得させる為に魔力に慣れさせるのが目的だったが、これは嬉しい誤算だ。反世界は手袋を外して、素手でイチに触れる。頬に触れる素肌があたたかい。イチがくすくすと笑う。
「反世界の手、つめたいな」
「すまない」
「ううん、好きだ。冷たくて気持ちいい」
反世界の手のひらに頬擦りをして、イチはへにゃりと笑う。小さな身体を腕に閉じ込めるようにまた抱きしめて、頭を撫でた。前はこうして触れる事も無かった。愛していたと気が付くには遅かったし、触れるにはイチの身体はあまりに脆くなっていたから。ずっと、こうして彼の身体に触れたかった。
「イチ」
「?」
頬に触れて顔を上げさせて、その額に唇で触れる。イチはきょとんとして、それから目を細めた。
「反世界!」
お返しとばかりに、唇で頬に触れて来る。反世界は込み上がる何かに逆らわず、イチの額や頬、鼻に口付けて。最後にその唇に触れた。ちゅ、と音が鳴って、イチが不思議そうに首を傾げる。
「反世界?」
「嫌だったか」
「ううん、嫌じゃないぞ。でも、なんか」
唇に触れて、頬を少しだけ染めて。へへ、とはにかんだ。
「なんか、はずかしいけど、うれしいな」
「…………」
「反世界、もう一回」
「あぁ」
イチに請われるまま、ベッドにそっとイチを寝かせて、何度も口付ける。じんと脳の奥が痺れる感覚。イチの息が上がって来たのを見て一度動きを止めた。反世界はうっそりと笑ってイチの頬を撫でる。
「可愛いな」
「……かわいくない」
むっとしてしまったイチに、思わず笑ってしまう。体を抱き起こして膝の上に乗せる。これからは、こうして思う存分触れられるのだ。イチの頭を撫でながら、反世界は一人笑みを深めた。
誰かが近付いて来る気配にウロロは目を開けた。せっかくの催眠を妨げるのは誰だとそちらを睨んで、姿を見せた相手に「うわ」と思わず声が漏れた。何せやって来たのはあのクソ餓鬼、もといイチだったからだ。今から……多分二年程前に反世界が連れて来た子供。反世界から魔力を与えられており、反世界が随分と可愛がっているらしい人間の子供だ。それに気付いた時は引いた。そりゃもうドン引きである。人間の餓鬼相手に何してんの? と。イチは出会ってから時々一人でウロロが眠っているこの場所までやって来ては少し話す様にもなった。散歩ついでだと言っていたが、毎回それが鬱陶しいったら無かった。最近は無かったなと思ったらこれである。さっさと帰れクソ餓鬼と言いたかったが、イチの様子を見てとりあえず言葉を飲み込んだ。珍しく顔を顰めていて、なんなら涙目で。その手首が痛々しく変色している。絶対面倒な事あったなこれ、とウロロはげんなりした。イチはウロロの羽のそばに膝を抱えて座り込む。
「あー……なんだ、どうした」
放っておいても良いが、そうなると今度は反世界が後々面倒な事になりそうな気がして、ウロロはとりあえず声を掛けた。ここで何も答えられなければそれはそれで良いし、声を掛けたという事実は出来るし、と思っていたのだが、イチは小さい声で語り出してしまった。
「反世界と、喧嘩、して」
「何してんだお前……」
よく喧嘩なんか出来たなアレと、とウロロは尊敬にすら近い呆れを抱く。それからイチはぽつぽつと語り出した。
事の始まりは、幾という蛸の姿をした魔法だった。今日反世界は用事があるらしく、食事を用意したのは幾だった。幾は人間を嫌っているので、この役目も反世界の指示で無ければ絶対やってないと毎回言っていた。だがそうだとしても、限界というものはあったらしい。お前さ、と、食器を洗い終えたイチを睨みながら声を掛けて来た。
「なんで弱い人間の癖に、反世界様と一緒にいんの? ずっと守られてばっかでさぁ、申し訳ないなーとか思わないわけ?」
言い方こそ厳しいものだったが、それはイチもずっと思っていた事だった。イチは人間で、魔法よりもずっと弱く脆い。それはこの場所で過ごしてよく分かった事だ。だからこそ反世界はイチを守ろうとしてくれているし、故の過保護だとも知っている。それに甘んじているだけでは嫌だとイチは考えていた。けれどそれをどう伝えれば良いのか分からなくて、黙り込むしか無くて。苛ついたらしい幾の触腕がイチの手首に巻き付いて、ぎりぎりと強く締め付けられた。みし、と骨が軋む音が聞こえてくるくらいの力だった。
「い゛、っ」
「俺、全然力入れてねぇのに、もう折れそうじゃん。そんくらい弱いんだよ、お前。なのに反世界様に守られてさ。恥ずかしくねぇの? なんでお前みたいな弱い奴が、当然みたいな顔して生きてんの。
お前みたいな奴が、俺らの仲間になれるとでも思ってんの?」
いらいらする、と幾は吐き捨ててまた力を込めてくる。本当に折れてしまうかもしれないと思うと恐ろしくて、幾の言う事ももっともだったから、何も言い返せなくて。言い返して来ないイチに、幾が怪訝な顔をした時。
「何をしてる?」
と。その場が冷え切るくらいの低い声が聞こえた。幾がびくっとして触腕をイチから慌てて離す。手首が紫色に染まっていてじくじくと鈍く痛んだ。
「は、反世界様」
幾が淡い紫色の顔を青くして、何か言わなければと焦っている。反世界は冷たい目で幾を見つめていて、あ、まずい、とイチは背筋に汗が流れるのを感じた。手にしていた錫杖がとん、と地面に降ろされる、その前にイチは幾の前に立ち塞がって。
「反世界、俺が先に酷い事を言ったんだ」
「え、」
「……」
反世界はイチを見て、幾を見て。錫杖を地面に下ろしたが何かが起きる事も無く。もう良い、と幾に向かって言った。幾はオロオロしながらも慌てて小屋を出て行った。反世界はその後ろ姿を見送って溜め息を吐き、中に入って来る。膝を付いてイチの手首に触れた。少し触れられるだけでも痛かったが、多分、折れてはいない筈だ。
「何故庇った? 何を、言われた?」
「……反世界」
「なんだ」
イチは反世界の事が大好きだった。反世界の役に立てるならなんだってしたいと思った。反世界の仲間になれるならなりたかった。人間が仲間になんてなれる訳無いと、お前は弱いのだと言われた。幾の言う事は間違っていない。イチは人間で、魔法よりも弱くて脆い。今よりもっと体力も付けて、鍛えて、そうしなければ、ずっと反世界に守られたままだ。だから。
「反世界、俺は今よりもっと、強くなって、それで」
反世界の役に立ちたい。そう言おうとしたイチの言葉は、遮られた。
「そんな事しなくても良い」
という、反世界の言葉によって。
「……え」
「お前がそんな事をする必要は無い。ただここに居てくれるなら、それで良いんだ」
優しく頬を撫でられる。心の底から本気でそう思っているであろう反世界に、イチは初めて、反抗心というものを抱いた。治療をしようと手首に触れる反世界の手を振り払って、イチは駆け出していた。名前を呼ぶ声にも振り向かないで、開いた裂け目に飛び込んだ。一人で散歩がしたい時の為にと、棺が用意してくれた魔道具のお陰だった。それからイチは走って、走って走って。そうしてウロロが居るこの場所までたどり着いた。
「……俺は、反世界の役に、立ちたい、のに」
全部を語り終えたらしいイチは泣きそうな声でそう言って、膝に顔を埋めた。話を全て聞いたウロロは、ただただ面倒くせぇとだけ思った。イチもイチでこの環境に甘えていれば良いものを。反世界も反世界で、もっと甘やかしておけば良いものを。そうすればこんな事になっていないのに。溜め息を吐いて、ウロロはイチが啜り泣く声をただ聞いていた。
数分経って、何処かからしゃん、と鈴の音が聞こえた。イチがビクッとして辺りを見回す。どこかに隠れようとしているらしい。あまりに青い顔をしているから、ウロロはイチの襟ぐりを持ち上げて玉座にすとんと置いて、羽で体を覆う。それと同時に反世界が姿を現した。無表情だが圧が凄い。並大抵の魔法なら多分気絶しているのでは無かろうか。
「イチ」
「怖」
名前を呼ぶ声もめちゃくちゃ低かった。思わずイチをもう少し隠す様に羽を動かしてしまう程度には圧があった。
「帰ろう」
「待て待て」
「なんだ」
舌打ちをしてウロロを見る反世界は見るからに不機嫌だが、珍しく焦りも見える。ウロロはとりあえず頭を回転させて言葉を紡いだ。
「お前なぁ、過保護も良くねぇぞ」
「なんの話だ」
「こいつから話聞いたからな。なんでお前がそこまでこのクソ餓鬼に対して過保護かは置いとくとして、こいつの考えまで蔑ろにしたらそりゃ逃げるだろ」
そう言いながらイチの頭にぽんと手を置く。羽の中で、イチは身を固くしていた。
「……」
「将来俺を習得させたいってんなら、少し鍛えとく事も必要だぞ」
「…………」
反世界は眉を寄せ、目を伏せて何やら考え込んでいる。口を押さえ、唸り、数十分の長考の末。分かった、と言った。めちゃくちゃ小さい声だった。
「イチ」
呼んだ声と表情は先程より穏やかだった。ウロロはそっと羽を開く。イチはそっと地面に降りて、反世界の所まで歩いて行った。
「……反世界」
「すまない。お前の考えや気持ちを蔑ろにしていた。お前が傷付く事を思うと、耐えられなかったんだ」
「……俺も、急に飛び出して、ごめん」
イチの体を抱きしめて、反世界はそっと後頭部を撫でる。変色している手首に触れて、「今度こそ治療をしよう」と微笑んだ。あいつ笑うんだ、とウロロは毎回新鮮に驚く。しばらくそのままの体勢で居たが、反世界がイチを抱き上げて背を向けた。ようやく帰ってくれるらしい。
「ありがとう、ウロロ」
イチがそう言って控えめに手を振るのに「おう」とだけ返して、空間に開いた裂け目に二人が姿を消す。ようやく嵐が去ったとウロロはまた大木を枕に寝転んだ。
それにしても、と、ウロロはイチの事を考える。反世界の手によって魔力が身体に流れている事以外は、ごく普通の人間の子供だ。特に大した能力がある訳でも無い。だというのに反世界はこの子供を拾って育てている。イチの話によれば、狼に食われかけていた所を助けたそうじゃないか。
(あいつに、何かある?)
反世界がわざわざ助け、育て、過保護にし、ウロロを習得させようとする、ウロロですら気付かない何かが。一体何がと考えたが、手掛かりらしい物は無いから何も分からなかった。
俺がここに来てから何年だ、とイチが尋ねると、棺は宙を見つめて一分ほど考えた末に「9年ですかね」と答えてくれた。魔法は長命であるから、人間の短い年数なぞどうでも良いのだろう。それでも正確に答えてくれるのはありがたかった。という事は今は自分は15歳か。イチは己の身体を見下ろしてみる。
「どうしました?」
「いや。やっぱり成長止まってるよなと」
「止まってますね」
棺は他人事みたいに言う。実際他人事だしどうでも良いと思っている筈だ。イチも大して危機感を持っている訳でも無い。ただ事実確認として言っただけだ。
反世界から魔力を分けられている影響なのか、イチの体はいつの間にか成長を止めていた。完全に止まった訳では無くだいぶとゆっくりになっている、と言う方が正しいか。二年前には少し混じっているだけだった白色も、今では髪の半分を埋める程になっていたし、片目はもう反世界と同じ色になっている。その内全部お揃いになるんだろうか。その日が待ち遠しかった。
「じゃあ行ってくる」
「はい、どうぞ。なるべく早く戻って来てくださいね」
「分かってる」
ず、と空間に開いた裂け目に飛び込んで、イチは地面に降り立った。辺りを見回すと人が多く、どこかの街だと分かる。いつも適当に降り立っているから、どこの何という街なのかさっぱり分からない。まぁどうでも良いが。少しぐるりと歩くだけだし。イチは日差しを少しでも避ける為、反世界から送られた笠を被って歩き出した。6歳の頃からずっとあの場所に引きこもっていた様なもので、運動量も決して少ない方では無いのだが、どうしても日差しにだけは弱かった。
イチは二、三日に一度の頻度でこうしてあの場所から何処かの街に降り立ってゆっくりと歩く様にしている。こうして一人で散歩するのを日課にしたのは、反世界と喧嘩してからすぐの事だ。少しでも体力を付けた方が良いんじゃないかと考えて始めたこの散歩は、最初こそ反世界、もしくは棺が付いていたが、最近は一人だ。勿論反世界に相談して許可は得た。あの喧嘩をして以来、反世界の過保護は少しだけ抑えられている。気がする。そんな事を考えながら、イチはいつもの様に街をぐるりと歩いた。
「はぁ……」
しばらく経って、イチは息を吐いて木陰にあったベンチに腰を下ろした。想定よりも街が広くて、その上日差しがキツくなり始めた為、イチが思っているよりもだいぶと体力を持って行かれてしまった。もう少しだけ休んでからさっさと戻ろう、と決めて、恐らくもう30分は経つ。なんだか頭がぼうっとして身体に力が入らない。余程体力を奪われてしまったらしい。とはいえ迎えに来てもらうのは流石に目立ち過ぎる。反世界も棺も暇では無いのだし。さてどうしたものか、あまり遅くなっても反世界に心配を掛けてしまうし、なんなら過保護な面があるから今度こそ外出を禁止されかねない。イチが目を閉じて考えに耽っていると、大丈夫? と、少女の声が聞こえた。目を開けて顔を上げる。緑色の髪をした少女が、心配を浮かべてイチを見下ろしていた。
「……ぁ」
大丈夫、と、答えようとした喉が渇いて張り付いて上手く動かなかった。少女は腰に提げていた袋からグラスを取り出して、「”純水プルタッタ”」と唱えた。ペンの先から水が流れてグラスに注がれていく。魔女だ、と、イチは少女を見上げた。もしくは候補生か。どうぞ、と少女がグラスを手渡してくれる。イチはそれを受け取って喉にゆっくりと流し込んだ。
「……あり、がとう」
「どう致しまして。熱中症かな……お父さんかお母さんはいる?」
「一人で散歩に来たから……ちょっと休んだら、帰る。水、ありがとう」
「そう? 本当に大丈夫?」
こくこくと頷く。少女は心配そうな顔のまま、イチの隣に腰を下ろして、また袋の中から何かを取り出した。手渡されたそれはひんやりと冷たい、布に包まれた石の様なものだった。
「首の後ろに当てたら、少しは体も冷えると思うから」
少女の言うとおりにして、しばらく。少しふらついていた目の前や、ふわふわしていた脳が落ち着いて来た。少女に石を返してイチはベンチから降りる。
「いろいろ、ありがとう」
「ううん、こちらこそ。お家まで送ろうか?」
「いや、大丈夫だ」
着いて来られたらこの少女が殺されかねない、というか、確実に殺されてしまう。イチは最後にもう一度少女に礼を言ってから街を出た。念の為着いて来られていないか確認をして、空間に開いた裂け目に入る。小屋の中では棺が暇を持て余した様に椅子に座って足を組み、ぷらぷらとさせていたが、イチを見て「おかえりなさい」と微笑んだ。
「ただいま」
「おや、顔色が悪い。何かありました?」
「思ったより日差しが強くて」
「あぁ、なるほど。人間というのは本当に貧弱ですねぇ」
そう言いながら、棺は何処からか水の入ったグラスを渡して来る。よく冷えたそれは、とても美味しかった。ふぅと息を吐いて椅子に座る。
「食事はどうなさいます?」
「もうちょっと後にする」
「分かりました」
今のイチの日課は、毎日の食事と、反世界から与えられる魔力と散歩、それから棺や幾による手合わせだ。幾はあの一件以来仲直りして仲良くなった。人間は相変わらず嫌いらしいが。それから反世界とキスをして、おやすみを言い合って眠る。あの山の中で一人死に絶えるのだと思っていた頃には、こんなに暖かい未来が待っているなんて思えなかった。反世界には、感謝してもしきれない。だから、恩返しがしたい。それは、昔と変わらない思いだった。
ベッドに腰を下ろした反世界の膝に跨って向かい合う。額や頬、鼻先に唇が触れて、反世界の手が後頭部や頸を撫でる。くすぐったさに逃げようとした腰も掴まれているから動けない。最後に唇に触れて、何度か啄まれて、舌先が触れ合った。脳の奥が甘く痺れて、反世界に身を委ねていると、いつの間にかベッドに倒れているから不思議だった。呼吸を整えているイチの頭を撫でながら、そうだ、と反世界が告げる。
「明日、あいつを習得をしに行く」
「唐突だな?」
「早いなら早い方が良い。それに、身体も昔よりは成長した。まだ10歳の体とはいえ、魔力にも慣れて来ている。ウロロの方に調節をする様にも言うから、習得自体は問題無い筈だ。何かあっても、俺の方でどうにかする」
「……習得したら、ようやく、反世界の役に立てるな」
反世界が怪訝な顔をする。イチがこう言う事を嫌がる節が反世界にはあったが、これはイチも譲れない思いだから仕方ない。
「棺達が言ってた。反世界は魔法だけの世界を作るのが目的だと。俺がウロロを習得したら、それの手伝いが出来るって。それがきっと恩返しになるって」
「余計な事を」
はぁ、と溜め息を吐く。けれど反世界はそれ以上は何も言わないで、イチの横に寝転んだ。
「おやすみ、イチ」
「おやすみ、反世界」
その身体に抱き付いて、目を閉じる。ひんやりとしたこの体温に、イチはいつだって安心する。
次の日、イチは反世界の魔法に白い羽織と、普段彼が被っている笠を被せられて、反世界と共に外に出た。裂け目を通って、もう何度も歩いたドルイド山の山頂までの道を進んでいく。山頂まで後少しという所で、突然轟音が聞こえて来て地面が揺れた。ぐらついた身体を支えられる。
「な、なんだ?」
「さぁ」
一体何が起きたのかと警戒しながら山頂へと向かう。そこで見た光景は、ウロロが一人の魔女を捕まえている所だった。黒い髪に黒い肌、宝石の様に輝く黄色い瞳をした魔女だった。イチは首を傾げる。なんだろう。
初めて見た筈なのに、既視感がある。
「げっ」
ウロロはイチと反世界を見て「今来たのかよ……」と呟いた。
「取り込み中だったか?」
「まぁな。ったく、今日用事あるから後日つったのにこいつが構ってくるからよぉ。全く俺様の事大好きなんだから!」
こいつ、と言ってウロロは捕まえていた魔女を地面に放った。魔女はウロロを、そして反世界を睨んでいる。どこかで見た様な気がする。イチは先程からずっとその考えに囚われていた。そんなわけないのに。イチが最近見た魔女は、あの緑髪の少女だけだ。よくよく思い出すと、あの少女だって既視感があった。どこか遠く、ぼんやりとした記憶だけれど。
「イチ、これを」
名前を呼ばれてハッとする。これ、と言われた物は反世界の手にあった真っ白な短剣だった。触れるとひんやりと冷たい。短剣なんて触った事も無いのに、不思議と手に馴染んだ。
「これで、どうすればいいんだ?」
「こいつの心臓を貫けば良い」
「なるほど」
「あ〜〜〜……遂に習得されちまうのか……」
ウロロはそれはそれはもう大きな溜息を吐いた。ほら、とウロロは心臓を指し示す。真っ赤な宝石みたいだと思った。イチはそこへ、反世界から貰った短剣を思い切り突き刺した。ぴしりとヒビが入り、辺り一帯がカッと光に包まれる。そして。
「……おお?」
イチの格好が変わっていた。真っ黒で大きな魔女の帽子、もこもこした何か、鴉の羽のような靴。やけにひらひらしている。左胸には赤い宝石も付いていた。手のひらを閉じては開いてを繰り返す。違和感も無い。……これは。
「習得出来た、のか?」
「イチ、具合はどうだ」
「……うん、大丈夫だ! 気持ち悪いとかも無いし」
「なら良かった」
反世界はイチの腰を抱き寄せて頭を撫でる。そんなイチの肩ににゅっ、とスライム状の何かが現れた。
「ったく、俺がわざわざちょーっと調整してやったんだからな。感謝しろよ」
「ありがとうウロロ!」
「おう……」
「なぁ、ところでお前ってどういう魔法──」
「おい」
低い声がして、イチは其方を見た。一連の流れを見守っていた魔女が、イチと反世界を睨んでいる。向けているレイピアは、彼女の杖だろうか。
「お前、何者だ。反世界の、なんなんだ。どういう関係だ」
魔女はそう問うて来る。ぴりぴりとした圧を感じながら、イチは魔女と向き合った。
「俺はイチだ。それから、反世界とは」
そこまで言って、考える。イチにとって反世界は、命の恩人だ。喧嘩もしたし、今でも過保護ではあるけれど、それはイチの事を思ってくれているが故だ。イチだって反世界が大事で、そして大好きな魔法ひとだ。まるで、家族の様な。その単語が、腑に落ちた。かぞく、と呟く。
「うん。俺は、反世界の家族だ」
「…………」
その言葉に、反世界が驚いたみたいな顔をしている。その顔は珍しくて、思わず笑ってしまって。
「……は?」
魔女の声が聞こえた。低く、怒りと、それから他の何かが混じっている様な、そんな一音。レイピアを握り直した魔女は、瞬きをした次の瞬間には、イチのすぐ目の前に迫っていた。
「ッ、!」
ぶわりと膨らむ殺意に反応出来ず、イチは思わず目を閉じる。枯れ枝が折れる様な音に目を開けると、反世界がイチを背に庇い、変滅させた地面を盾にしていた。魔女が後ろに下がって、反世界を睨んでいる。憎しみの籠った目だった。あんな目を見るのは、初めてだった。
「イチ、帰ろう」
「あ……」
「ここに、もう用は無い。あの魔女にも」
「待て!!」
魔女の叫びを無視して、反世界は空間の裂け目にイチを引っ張った。帰って来たいつもの場所、いつもの小屋に安心してへたり込む。
「イチ」
「……反世界」
「恐ろしい思いをさせてしまったな」
すまない、と抱きしめられる。背中を摩られて、ばくばくと騒がしい心臓に気付く。反世界の背中に手を回して抱き付いて、深呼吸をして。
「大丈夫」
「だが」
「反世界の役に立ちたいんだ。魔女とも、戦わないといけない。俺は大丈夫」
「……」
「ウロロだって習得したし、これからはもっと、反世界の役に立てるし、一緒に戦うから。いつまでも守られてばかりじゃ嫌なんだ」
「……そうか」
反世界は微笑んで、頬に触れる。冷たいこの体温があるなら、なんだって頑張れる気がした。
「引くわぁ」
「何がだ」
「お前毎晩あれしてんの?」
イチが寝静まった深夜。ウロロは姿を現して、イチの隣で寝顔をじっと見つめていた反世界にそう声を掛けた。魔法心円の中から見えた、反世界がイチにキスしまくっている光景に耐え切れず、こうして出て来て文句を言いに来た次第である。反世界はイチの髪にそっと触れながら「そうだが」と当たり前の顔で言った。何が問題なのか分からない、という顔だった。何言っても駄目だな、とウロロは早々に諦めた。
「……で? どうすんだよ」
「何を」
「お前、イチが魔女共とやり合うの嫌だろ」
「あぁ。……どうすれば、イチは諦めてくれるんだろうな。俺の役に立ちたいと、その気持ち自体は嬉しいが。俺はイチを失いたくないし、傷付いて欲しくもない」
「……お前さぁ、なんでそんなこいつに執着してんの?」
どう見てもただのクソ餓鬼なのに。反世界はウロロの言葉に目を逸らし、宙を見上げて少し考えて。
「愛していたと、気付いたからだ」
「あ?」
「……俺にこの感情を教えたのが、イチだから」
「はぁ……? あぁそう」
よく分からん、とウロロは理解を諦めた。この魔法にそんな感情が芽生えた事自体も驚きなのに、愛していたって。なんで過去形なんだと思いはしたが、突っ込む気力は無かった。ウロロは穏やかに眠るイチを見る。反世界の役に立ちたいと、恐怖を抱いた癖に魔女と戦うと言った子供。
「諦めさせてぇんなら、簡単な方法があるぜ」
「なんだ」
「一度痛い目を見させりゃ良い。もうあんな目に遭いたくないってくらいに魔女にボコされた所を説得すりゃ一発だろ」
「……お前、俺の話を聞いていたか?」
「聞いてたぜ。けどそれが手っ取り早いだろ。痛みってのを体に刻ませて、もう嫌だって思わせりゃ良い。今のこいつはお前が過保護してたおかげで死対死とやらも育ってねぇみたいだし、前程鍛えてもねぇし、」
ウロロはそこで言葉を止めた。今自分は、何を言った?……前? いや、それより。しついし、とは。
「何を言ってるんだ?」
反世界が怪訝な顔をしている。いや、とウロロは口を押さえて黙り込んだ。なんだろう、今とても大きな事を思い出した様な気がするのに。反世界がイチに執着している、その理由が、分かりそうな気がしたのに。それ以上はどうしても、思い出せそうに無かった。
「……まぁ。痛みで覚えさせるのは、良いのかもしれないな」
ぽつりと反世界が呟く声にも、ウロロは反応出来なかった。
マンチネル魔女協会、魔女研究学部にて。部下が作成した似顔絵を見つめていたシラベドンナが、正面に座るデスカラスに尋ねた。
「この子供が、反世界の魔法と共に行動して、【王の魔法キング・ウロロ】を習得した。間違い無いのだな」
「あぁ。この目ではっきり見たからな」
「人間の男が魔法を習得したというだけでも前代未聞なのに、それを反世界と共に行動……それも、家族とまで言い切った子供が習得してしまった。これは、早くにどうにかしないといけない問題になってしまったね」
いつものアルカイックスマイルを潜め、真面目な顔で足を組むシラベドンナに頷く。デスカラスが思い出すのは、数時間前の事だ。
ドルイド山の山頂にて、ウロロと交戦している最中に現れた反世界の魔法と、10歳程度に見える子供。ツンとした黒と白が半々に混じり合った髪色、赤と白のオッドアイ。反世界と揃いの笠と羽織の、イチと名乗った子供は。ウロロを習得し、姿を反世界と共に消した。
なんともおかしな話だが、どこかで見た事のある子供だと思ったのだ。会った事もない筈の、反世界の魔法が連れていた子供。目の前でウロロを習得し、反世界と嬉しそうに抱き合っている子供。一体何なのか、どういう存在なのか。お前は反世界の何だというデスカラスの疑問に、子供は笑顔で言った。家族だ、と。それを聞いた瞬間に、デスカラスの目の前が赤くなった。どうしてだか分からない、もっと心の奥底を抉られた様な感覚だった。そして同時に、どうしようもなく怒りが湧いて来た。
お前は私の家族を奪ったのに。
お前は、のうのうと、その子供と家族ごっこなんてしているのか。
気付けばデスカラスは、イチに向かって杖を向けていた。怒りと、それから訳の分からない衝動に駆られていた。いつもなら、あんな事はしなかったのに。呪文を唱える寸前で、デスカラスの目の前が白く染まった。反世界の魔法が、子供を背に庇って錫杖をデスカラスに向けていた。変滅した地面が盾の様になっていた。そして反世界の後ろに現れた裂け目に、イチは手を引かれて消えてしまった。デスカラスが最後に打った魔法を反世界は弾いて、その場から消えてしまった。
「……」
デスカラスは考える。どうして反世界を家族だと言ったあの子供を見て、こんなにも腹が立ち、胸のどこかに穴が空いた様な気になるのか。理由が分からないというのは、こんなにも気持ちが悪いものなのかと溜息を吐く。だってあの子供は、イチは、前は。
(──前?)
思い浮かんだ単語に、首を傾げる。前とはなんだ。デスカラスは、イチに会った事は無い。今日が初対面だ。その筈だ。なのに、どうしてあの黒い髪と赤い目に、あの顔立ちに、既視感・・・がある?
(私は──何かを、忘れている?)
何か、とても、大きな事を。考え込む寸前、「あれ?」と少女の声が聞こえた。お茶を持って来たシラベドンナの弟子であるクムギがあげた声だった。
「どうした?」
「いえ……この子、私、見た事が」
「何処で?」
「ナタリーの、メインストリートから少し外れた所のベンチで……顔色が悪かったので、側で付いていたんですけど……この子、どうかしたんですか?」
「また後で話そう。詳しい話も聞かせてくれ」
「あ、は、はい」
「……なんにしろ」
と、デスカラスは似顔絵の描かれた紙を手に取った。イチと名乗った、反世界の家族だと言った子供。
「一度こいつとまた話をしない事には何も始まらない。反世界に洗脳されてる可能性だってある」
もう一度会って、きちんと話をしなければならない気がする。そうしなければ、大事な事をずっと見落としてしまう。そんな気がしてならなかった。