眠れない。
ベッドに入った時には掛かっていた布団は、時間の経過とともに蹴られ蹴られていき、今ではもう足首にある。どうして夏というやつは、ここまでウザったらしいのだろう。
時計の針は既に十二時をまわっている。明日も学校はあるというのに、このままではマズイ。
だが、目を閉じると、この夜に鳴る唯一の音。蝉の鳴き声が僕の孤独を際立てるようで、とてつもない不安に襲われ、僕は夢を見ることも出来なくなるのだ。
布団についたのが十時ごろだったから、もう二時間以上もこうしていたのか。それほどの時間が経っていた事を自覚すると、突然僕の喉が渇きを訴えてきた。
*
あー、美味い。生き返る。
一階の流し台から水を出し、それをコップに入れる。普段も当たり前にしている事だというのに、この静寂に包まれた時間にするだけで、非日常にいる気がする。
親も友もいない自分だけの世界。孤独ではあっても、自由ではある。それだけで、僕はここがとても好きかもしれない。
なんとなく、自分が少し大人になった気がして、どこまでもいけるように感じる。そして、それがとても楽しい。
よし、もう水だけで腹がいっぱいだ。水を止め、最後の一杯を飲む。
喉と蝉の音しかしないはずの僕の世界。
僕はコップに水を残したまま、コップを置き、そして外へ向かった。
呼んでいる。
外から聞こえた気がした。蝉以外の何かの音が。パジャマのまま靴を履き、玄関の扉を開けた。
普段の僕ならばこんな事はしない。だが、今の僕はある存在を求めていたのだと思う。僕の孤独を掻き消してくれる者を。
そして、なぜだかは知らないがこの音の主こそ、その者であると感じたのだ。
蝉が鳴いている。
その中に確かにいる。これは人の声だろうか。僕が歩くたびに、だんだんと距離が縮まっていく。
家の裏にある、ちょっとした公園。そのベンチの辺りから音を感じるが、木が邪魔で歩道からではよく見えない。 公園に入るか。
そう思った時、これ以上前に進んではいけない気がした。
僕は既に深夜に家から出るという、ちょっと悪い事をした。ここから先に行けば、もう後には引けなくなる。
額を汗が流れる。蝉は鳴いている。だがもう、喉は渇いていない。
僕は一歩を踏み出した。
「みーん、みーん、みーんっ」
純白のワンピース。細い腕、綺麗な足。流れる川のように滑らかな長い黒髪。
そんな可憐な大人の女性が、みーんみーんと蝉の鳴き声の擬音をベンチの上で呟いていた。
その目は透き通るように綺麗で繊細で、どこか遠くを見ているようで、今にも消えてしまいそうだ。
見てはいけないものを見てしまった気がするが、僕にはもう引き返すという選択肢は無い。
「何を、してるんですか?」
僕はその不思議な女性に近づき、そう聞いた。
彼女は驚いたような顔を見せてから、僕の頭から足までをじーっと順番に凝視し、最後には僕の目を見た。すると、ようやく彼女は口を開いた。
「私は、人を待っていた」
「そうですか……」
僕と彼女の間に静寂が流れ、蝉の鳴き声がよく聞こえる。
「誰を、待っているんですか?」
不安に襲われた僕は、何も考えずにそう聞いた。それに彼女が答える。
「たぶん、君を待ってたんだと思う」
この瞬間僕は奇妙な感覚を知った。彼女の目にうつる世界と、僕の世界が混ざり重なる感覚だ。
「僕は、あなたを探していたんだと思います」
気付けば僕はそう言葉を零していた。すると彼女は口元を左手で隠し、笑みを浮かべ、ベンチを右手でトントンと叩いた。
「じゃあ、ここ座りなよ」
僕はここが現実である事を疑った。まるで自分の理想を生きているようで、夢心地だ。
「君、名前は?」
「暗夜、孤城暗夜です」
「私は秋風月夜。よろしくね」
気付けばもう、蝉の音は聞こえなかった。
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