「ローザ……!?」
奥の部屋から飛び出してきたローザの姿に、ニゲラは思わず椅子から立ち上がる。
そして、そのままの勢いでこちらへ駆け寄ってこようとする様子にギョッとして、すぐさまその隣に駆け寄って体を支えた。
「っ、ニィ……! ニィ、違うの、俺っ……!」
「ローザ、一旦落ち着け。怪我してるんだから」
「ぅ……」
ぐしゅ、と泣きそうに歪むその顔は、メイクこそされていないものの、最後に見た時より幾分か血色がよくなっている。
ただ、スウェットの裾から覗く素足の左足首には相変わらずテーピングが施されていて……ニゲラはローザの肩をそっと抱いて、すぐ隣のソファにゆっくりと座らせた。
「……大丈夫か?」
「……うん、ありがと……」
「ん……よかった、もう一度会えて……」
心に浮かんだ言葉をそのまま口にする。
それを聞いたローザは再び唇を震わせてへの字に曲げると、長い袖で目元をぐしぐしと擦った。
「あーあ、起きてきちゃったんだ」
そんな二人の再会に水を差すように、穏やかな声が響く。
声の主は、当然――
「……梨琥ちゃん」
「おはよう、『兄さん』。しっかり休めた?」
兄さん。
梨琥が当然のように口にした言葉に、ニゲラは呆気にとられてしまった。
つまり、梨琥はローザの……。
「どうして、そんなひどいこと言うの……?」
「だって……兄さんが真っ青な顔で逃げてきたのに、連れ戻そうとするんだもの。俺が追い返してあげないとなー、って」
「でも、あんな言い方……!」
言い合う二人の顔を、ニゲラは交互に見比べる。
髪色や髪質、目元の雰囲気や瞳の色などを見ても分かる通り、二人の姿の間には共通点を見つけるほうが難しい。
……強いて言うなら、すっと通った鼻筋はほぼほぼ同じだけど。
「でもさ、兄さん。俺が兄さんに帰ってきてほしいって思ってるの、知ってるでしょう?」
「……そんな……」
「実家で、とまでは言わないから……逃げるくらい嫌になっちゃったんだからさ、この機会に今の仕事は辞めて、ここで俺と一緒に暮らそうよ」
「…………」
梨琥の言葉に、ローザが暗い顔をして俯く。
先ほどのように顔を歪めてはいないが、その瞳からは今にも涙が零れ落ちそうだ。
「……あの、」
その様子をすぐ隣で見ていたニゲラは――兄弟の話に口を挟むべきではないと思いつつも、思わず声を発していた。
「……何かな?」
「やめませんか、そういうの」
「…………は?」
ニゲラの言葉に、梨琥の表情が微笑みのまま固まる。
「あんま、他人がこういうこと言うべきじゃないのは分かってます。けど……」
そこまで言って、ニゲラはローザの右手をそっと手のひらで覆った。
「……あんたがそうやって露悪的にしてると、ローザが悲しむ」
手のひらの中にすっぽり収まった拳を、そっと開く。
――白磁で作られた美術品のように滑らかな肌は、赤い爪の跡がつくほどに強く握り締められていた。
「露悪的って……何を根拠にそんなこと言うのかな?」
「だってあんた、さっきから一度もローザの顔を見てないだろ」
それは、二人の会話を端から見ていて感じた違和感。
ここ最近行動を共にしている誰かさんが、大なり小なり嘘をつく時の仕草と同じだった。
「ローザよりは嘘つくの上手いけど……そういうの、よく似てる」
「…………」
「それに、ローザが自分でここに来たってことは……そういうことなんだって、俺は思う」
ひとりになるでもなく、遠くに行くでもなく。
この人のもとに来ることを選んだ時点で、梨琥がローザにとって信頼できる相手であることは明白だった。
「………………」
ローザがじっと梨琥を見つめる。
その瞳には、「どうして?」という戸惑いの色がありありと浮かんでいた。
そうして、数秒の沈黙の後。
「………………はぁ……」
貼り付けていた微笑みを崩して、梨琥が大きな溜息を吐いた。
「……これはまた、すごい鼻が利く子を引っ掛けたね」
そう言って背もたれに寄り掛かる表情には微笑みこそないものの、先ほどのような剣呑さも同時に失われている。
その様子に、ローザがひっそりと安堵の溜息を漏らした。
「ごめん、意地悪した」
「梨琥ちゃん……」
「でも、お陰で素直に話す気になったみたいだし……俺はお役御免ってことで」
言いながら梨琥は席を立つ。
「どこ行くの……?」
「課題進めてくる。終わったら呼んで」
そう言って、先ほどローザが出てきたのとは異なるほうの部屋のドアを開く。
ちらりと見えた扉の向こうには、本棚や机が設置されていて、どうやら彼の書斎になっているようだ。
「……兄さんのこと泣かせたら、許さないから」
梨琥はそれだけ言い残して、扉の向こうへと消えていった。
「課題……」
「梨琥ちゃん、大学生だから……」
「そっか……」
……この辺りに暮らしているということは十中八九、通っているのは香凛大学だろう。
学生にしては家が豪華すぎる気もするが……ローザの両親が世界中を飛び回っているということを思い出して、なんとなく察した。
「………………」
二人きりになった部屋を、静寂が満たす。
話すべきことは山ほどあるのに……こうして並んで座っているだけの時間が得難いもののように感じてしまって、沈黙を破るのが躊躇われた。
それでも、何も話さない訳にはいかない。
「…………足、もう大丈夫か?」
「……うん。もう、痛くないから……」
「そっか……」
丸一日以上は経っているが、足首のテーピングにヨレや汚れはない。
どうやら、少なくとも一度は交換しているようだ。
「……よかった、本当に……」
先に口にした言葉を、ニゲラは再び呟く。
本当は、連絡もなしに居なくなったことを咎めるべきなのだろう。
だが、ローザが行方不明になったと気付いた時、ニゲラは真っ先に「危ない目に遭っているんじゃないか」と心配になったのだ。
行く当てがあったこと、怖い思いをしていなかったこと……その安心感で脱力してしまいそうになるのを抑えるのが精一杯で、まずはそれだけを伝えられれば充分だった。
「……ニィ……」
自分が今、どんな顔をしているかは分からないが……こちらを見て少し動揺してからすぐに泣きそうな顔へと変わったローザの様子を見て、柄にもなく情けない顔をしているのだろうな、と思った。
「…………ごめんなさい……」
「……ん」
「俺……逃げちゃって……」
「……そうだな」
ローザはそこまで言うと、叱られる直前のようにぎゅっと顔を歪める。
再び小さな声で「ごめんなさい」と呟いて縮こまるその姿が痛ましくて、ニゲラはローザの頭にそっと手のひらを乗せ、ぽんぽんと撫でた。
「……なあ、ローザ」
幼い子供にそうする時と同じように、小さめの声で語り掛ける。
「俺、ローザのこと何も知らないんだ」
「…………」
「居なくなった時、どこに行きそうかとか……何を思って出て行ってしまったのかとか……」
弟が居ることも知らなかったな、と苦笑して見せてから、ニゲラは言葉を続けた。
「だから……知りたい。ローザが今までどんなものを見てきて、どう考えるようになったのか……ローザのこと、いっぱい」
「……ニィ……」
「どうして逃げたんだ、っていきなり聞くよりも……きっとそのほうが、ローザが苦しかった理由を理解できると思うから」
な? と問い掛けて、柔らかな髪の表面に指先を滑らせる。
「……いいの……?」
「ああ、俺が聞きたいんだ」
「面白く、ないよ……?」
「ローザが話したいことなら、何でも聞きたいよ」
安心させるように、意識して口角を上げてみる。
上手く微笑みを浮かべることができたかは分からないが……ニゲラのその表情を見たローザは静かに頷き――時折つっかえながら、言葉を紡ぎ始めた。
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