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#ワンナイトラブ
「羽根を伸ばすのはいいけど、まだ準備しなくていいんですか?」
常葉くんは頬杖をついて、その甘い目元で私を見下ろす。最後のひと口を一気に口の中に入れると、確かに少し気になっていた事が顔を出す。
「半に出たら良いんですよね?最寄り駅ってどこですか?」
「…さぁ。俺は電車使わないんで」
「え、じゃあいつもバスですか?それとも徒歩?」
「車ですね」
その口は思ってもいない交通手段を告げるので、ミルクティーが所謂変なところに入っては気道が驚いた。
「く、車!?え!?じゃあ」
噎びながらも声を出せば、彼はくくっと面白そうに喉を鳴らした。
「俺は半に出たら間に合いますけど、穂波さんが間に合うかは分かんないですね」
「そ、その情報、もっと早く下さい!」
美味しいものはゆっくりと食べるからこそ堪能出来るのに、それらを業務的に胃の中に流し込めば慌てて先程の部屋に戻る。
素早く着替える隙にアプリで最寄りを調べて逆算開始。アラームを設定し直していないのが幸いだったので、どうにか間に合いそうだ。
簡単に化粧を済ませて仕事用のメガネにかけ直すと、未だにカウンターキッチンでコーヒー片手の常葉くんにペこりと一礼する。
「あの、昨夜は本当にありがとうございました」
「どういたしまして」
常葉くんはこちらを見ることも無く簡易的に言葉を返した。
「……えっと不躾で申し訳ないのですが、鍵、とか……」と、かける言葉が何となく見付からずに、なけなしの時間を贅沢に使っていれば、彼は私に気付いた。
「あぁ、鍵。玄関の鍵おきの、真ん中に掛かってるの使っていいですよ」
「分かりました。いつもそこに置いてたら良いですか?」
「はい。家の場所わかんなくなった時と、一応、帰る前連絡くれるとありがたいかな」
彼女とか、若しくは好きな人とか居るのかな。
未だ素性すら知らない人に、ここまでお世話になる状況は惨めで不甲斐なさもあるけれど、私がペチャンコに潰れてしまわなかったのも、常葉くんが甘えさせてくれているからだ。
あとでちゃんと、恩返ししなきゃ。
鶴の恩返しならぬ依愛の恩返し大作戦。
「また変な妄想してるんでしょ」
「違いますよ!では……また、後で?」
「そうですね。また後で」
いまさら、一人。
少しだけむず痒くて、逃げるように玄関へと駆けた。
他人の家の玄関先には見慣れたパンプスと、見慣れない革靴が仲良さそうに並んでいた。
それは思い出してしまったあの光景とあまりにも真逆だった。
昨日の甘美な声が耳の奥で木霊しては、待った無しで心臓は嫌な音を鳴らす。
だからそのパンプスに、すぅ、と、片足を潜らせると自分のスイッチを押した。
常葉くんのマンションは住み慣れた私の家よりも会社によっぽど近かった。たった一駅なのに車通勤って、贅沢だな。
都心にほど近いマンション、一人暮らしなのに広々とした部屋、住んでいるのはただのマンションではなく高層マンションだった。
彼が女性社員の人気を博す要因は顔だけじゃないって、今更その噂を体感する。
いつもの如く空気の薄い箱にぎゅうぎゅう詰めにされる人の一部になる。
普段は約二十分程の拷問が今日はものの五分で終わるなんて。
やっぱり近いと良いな。でも近ければ近いほど家賃がなぁ……。
次の家が決まるまで、と、常葉くんはそう言ってくれた。
贅沢言わずに、遠くてもボロっちくてもいいから、安い部屋を探そう。
迷惑掛けっぱなしじゃあ申し訳が立たない。
うん、と、駅の構内で一人頷いては人混みに紛れて7センチのヒールを鳴らした。
出社時刻には充分に間に合ったのでホッと胸を撫で下ろすのも束の間。自社ビルのエントランスを潜れば忘れていた第一関門が出迎える。
何食わぬ顔で受付に立つ、緩やかにカールがかった栗色の髪の毛をハーフアップに纏めた可愛らしい女性社員。
彼女を目にしただけで、頭が掻き回されるようにガンガンと痛む。
二日酔いがまだ少し残っていて良かった。胸の痛みに気づかなくて済む。
それに、浴室から出れたんだ。どうやって抜け出したんだろう。
気にしたくもない疑問が脳裏に霞むと胃の中から朝食べたクロワッサンが逆流しそうになるので生唾を飲み込みなんとか抑える。
そうしてスっと息を吸い込み、背筋をピンと伸ばしていつものように彼女に向かう。
「おはようございます」
出した声は震えなかった。だけど、吐いた息は少しだけそうなった。
私の気も知らないのだろう、柿原さんは愛らしい笑顔を浮かべて手元を動かした。
「おはようございます、穂波さん。こちら佐藤部長から書類です。ご確認下さい」
「ありがとうございます」
手渡された書類を受け取る時に、少しだけ指先が震えた。
フローラルな香水の香りがやたらと鼻に残ったので、渡された封筒を一度だけ軽く叩くと、チン、と、音を鳴らしたエレベーターに乗り込んだ。
自分のテリトリーに入れば、既に出勤している小太りの男性が「おぅ、穂波」と出迎えるので「おはようございます」と、朝の挨拶を簡単に済ませる。
「お願いした書類、不備はありませんでしたか?」
「あぁ、午前中には目を通すな!」
いや昨日の18時までなんだけどな。その書類。
だけどこんなやり取りも無意味だと知っている。
その後しわ寄せがこちらに来るのも知っている。
だけど私はいつも通り、それらを無理に押し込める。
「なるべく早くお願いします」
「穂波に任せた書類に不備があった事は今までにないから、いっそ確認しなくても良いんじゃないか」
「不備があった時に私のせいにされないのならそれで構いません。では、言いましたからね」
「そりゃ困るなぁ!」豪快な笑い声を背中に聞いて、自分のデスクに向かうとそこはすでに書類が溜まっていた。
何センチ?まだ出勤したばっかですけど、大丈夫?
見慣れた光景。毎日うんざりするのに勝手に動く身体に呆れもする。
迷路を解き明かすように頭の中で今日の手順を構築させて、自分の退社時間に何となく予想を立てた。
その計算をし終えた頃 「おはようございます〜!穂波さん〜、聞いてくださいよ〜」 と、特有の間延びした声が私を包む。
うん、夜に合コンでもあるのかな?
決まり文句で泣き付くのは、同じ事務課の女性社員だ。
「どうしたんですか?」
分かっていても表情は一切崩さない。
「今日、すごい大事な用があって〜」
「はい。それで?」
「爪したばっかりでキーボード叩きにくいんですよぉ。私の分、少し手伝って貰えませんか?」
「分かりました、午前の進捗状況次第で伺います」
「やったー!」
何故だろう、脳内ではその言葉が『ラッキー』に変換される。だけど私は聞こえないふりをする。
彼女が私に対して、”飲み会”とか”合コン”とか、そんな単語を使うことは無い。
すぐインスタに上げるくせに、私がそのアカウントをフォローしているのを知っているくせに、絶対に使わない。
きっと、今夜未明にもハッシュタグで飾られた記事を載せるんだろう。
私は何も言わずにそのハートマークに色を付けるだけ。
くるくると表情の変わる彼女に対して、無表情を徹した脳内は再び逆算を始めた。
タイムマシンがもしもあるのなら。
私は迷わず過去へ行き、入社式の前日を指定する。
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