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第二話 出版社の一日は、誰かの希望と誰かの諦めで回っている
午前十時、企画会議。
文芸部、営業部、販促、時には宣伝も混ざる。新刊の方向性、増刷の可否、書店施策、作家の次作、SNSでどう見せるか。
机の上には資料が並び、数字が飛び交い、熱意より先に現実が話される。
「この作家さんは、前作の初速が弱かったので今回は帯でフックを強めたいですね」
「書店員向けの先読み見本、増やします?」
「地方書店はどうします」
「重版ラインにはまだ遠いです」
「動きが鈍いなら、次回は判型変える案もあります」
誰かが発言し、誰かが頷き、誰かが黙る。
出版は文化事業だが、慈善事業ではない。
いいものだから売れるとは限らないし、売れるものがいいとも限らない。そのあいだの薄暗い川を、編集者たちは毎日渡っている。
「新田さん担当のあの人、次どうです?」
部長が何気なく言った。
新田は一瞬だけ資料から目を上げる。
「進んでいます」
「進んでる、ね」
「今回は前作より届く形にできます」
「届く“予定”じゃなくて?」
「届かせます」
部長は少し笑った。
笑ったが、目は笑っていなかった。
「君、その作家に肩入れしすぎると危ないよ」
「していません」
「してるよ。みんなわかる」
「……」
「才能があるのは認める。でも、才能だけで枠を取り続けられるほど棚は広くない」
その言葉は、編集者である新田にはよくわかる。
棚は有限だ。
会議の時間も、予算も、印刷部数も、人の熱量も、全部有限だ。
誰かを残すということは、誰かの機会を削るということでもある。
それでも、新田は引かなかった。
「わかっています」
「ならいい。結果で見せて」
会議が終わる。
資料を片づけながら、瀬尾が小声で言った。
「やっぱり好きなんですね」
「何がです」
「あの人の原稿」
「……仕事です」
「はいはい」
新田は返事をしなかった。
昼休み、社員食堂で一人きつねうどんを食べながら、彼はいつものようにスマホを見た。例の小説家からの連絡はない。来るべき原稿も来ていない。既読もつかない。腹立たしい。だが想定内でもある。
新田は箸を止め、ふと思う。
なぜ、こんなにも苛立つのか。
原稿が遅れる作家なんて珍しくない。
約束を守らない人間も、自己肯定感と自己嫌悪を反復横跳びする人間も、この業界ではむしろ標準装備だ。
それでもあの男の停滞だけは、妙に腹が立つ。
たぶんそれは、怠慢だからではない。
むしろ逆だ。
あの男は、自分が傷つくことを先に恐れて、全力を出し切る寸前で足を止める。
そこが新田には苛立たしかった。
できない人間より、できるのに逃げる人間のほうが腹が立つ。
その感情には、たぶん過去が混ざっていた。
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