テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
まだ自分の店を持つ前、セイジが都内の有名イタリアンでセコンド・ピアット(メイン料理)を任され始めたばかりの修行時代。
その日のキッチンは、戦場のような忙しさだった。
「おいセイジ! 次のテーブル、パスタの後にメイン肉な。出すタイミング合わせろよ!」
「はい、シェフ!」
汗を拭う暇もなくフライパンを振り、肉の焼き加減に全神経を集中させる。
この店は、前菜からデザートまで隙のない完璧なコースが売りだった。しかし、それゆえに全体のボリュームが多く、特に女性客の中には、後半になると目に見えてペースが落ち、無理をして胃に詰め込んでいるような姿も少なくなかった。
(最後まで、一番美味しい状態で食べてもらいたいんだけどな……)
料理人としての贅沢な悩み、そして小さなジレンマを抱えながら、セイジは隙を見てホールの様子を伺った。
ちょうどその時、4人組の女性客のテーブルから「美味しい!」という華やかな歓声がキッチンまで届く。
見ると、そのうちのスレンダーな女性3人はすでに満腹のようで、お腹をさすりながら「もうお腹いっぱい!」とスプーンを置いていた。
やっぱりそうか、とセイジが心の中で小さくため息をつきかけた、その時だった。
「えっ、もったいない! 私食べようか?」
鈴を転がすような、弾んだ声。
声の主は――マイだった。
「食べて食べて!」
友人たちが救世主を見つけたように、次々と自分の皿をマイの前へと差し出す。
その瞬間、マイの顔にパッと大輪の花が咲いたような、嬉しそうな満面の笑みが浮かんだ。
「わぁ、嬉しい……! じゃあ、いただきまーす!」
彼女はフォークを手に取ると、少しもためらうことなく、美しく盛り付けられたパスタを器用に巻き取って口に運んだ。
驚くべきは、その食べっぷりだった。
作ってくれた料理人への敬意が溢れ出ているかのように、一口ごとに「んふーっ」と幸せそうに目を細め、本当に愛おしそうに、そして見事な勢いでペロリと平らげていくのだ。
前菜も、スープも、メインの肉料理も。
他の人が残した分まで、彼女の胃袋はまるで魔法のポケットのように、すべてを歓迎して受け入れていく。最後のデザートが運ばれてきた時、友人たちは完全にノックアウト状態だった。
「ごめんマイ、これも食べてくれる?」
「えっ、いいの? ありがとう!」
差し出されたティラミスを前に、マイはまるで宝物を受け取った子供のように目を輝かせた。
だが、彼女はすぐにはスプーンを動かさなかった。
まず友人たちに向かって、
「みんなで来られて楽しかったね」
と優しく笑いかける。
そして目の前のティラミスを愛おしそうに見つめ、小さく手を合わせた。
「こんなに美味しいもの作れる人、すごいなぁ……」
その何気ない一言が、キッチンの奥にいたセイジの胸を強く打った。
彼女は料理をただの『出された食べ物』として消費しているわけではない。一皿一皿に込められた手間や想いを、まるで見えているかのように大切に、慈しむように味わってくれている。
スプーンですくい、ゆっくりと口に運ぶ。
「……しあわせ……」
心からこぼれ落ちたようなその甘い声に、セイジは息を呑んだ。
世の中に、美味しそうに食べる人はたくさんいる。
けれど、彼女は違った。
料理を食べることで、自分だけでなく周囲の人まで幸せにしてしまうのだ。現に、彼女の笑顔につられて友人たちも笑い、ホール全体の空気までパッと明るくなっているように見えた。
(ああ……そうか)
胸の奥で、ぼんやりとしていた熱い塊が、静かに、だけど確かな形を結ぶ。
自分は、この人の笑顔が見たいんだ。
もっと、もっと美味しい料理を作りたい。
この人が「しあわせ」と言ってくれる瞬間を、俺の手で、何度でも作り出したい――。
ドクン、と心臓が激しく鳴った。
調理場の熱気のせいではない。
それは紛れもなく、激しい恋に落ちた音だった。
「おい、セイジ! 手が止まってるぞ!」
先輩の鋭い声で我に返る。
慌ててフライパンを握り直しながらも、視線は引き寄せられるようにホールへと向いてしまう。
いつか自分の店を持ったら。
その時は客と料理人としてではなく、一人の男として、彼女と向き合って話してみたい。
そう強く願ったのは、後にも先にもこの日が初めてだった。
コメント
1件
うわぁ……この話、すごく好きです🥀 マイさんが「しあわせ」って言うシーン、胸がぎゅっとなりました。セイジが恋に落ちる瞬間が、厨房の熱気と重なってすごくリアルで……料理って作る人の想いが乗るんだなって改めて感じました。美味しそうに食べる人って、確かに周りも幸せにするよね。続きが気になります🌙