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「こうして……ここで過ごすのも、これが最後だということか」
課長の肌に包まれながら、言い知れぬ感傷にわたしは浸る。……実家を離れて、見つけたマンションだった。初めて――不動産屋に行って。頼りたくないからひとりで。引っ越しの日には母が泣いて……わたしはもらい泣きをしてしまって。慌ただしくてその日はコンビニのうどんを食べたと思う。
様々な思い出がこの部屋に詰まっている。引き払うことを躊躇したのも……思い出が詰まりすぎている、それが理由なのだと思う。
金曜日。明日はいよいよこの部屋を完全に引き払う。といっても、荷物は六割がた課長宅に移動させたので、家財処分、残りの荷物の課長宅への移動、それから掃除……のみである。
引っ越しのやり方がまるで分からず、母に聞いたところ、引っ越すなら部屋をぴかぴかにして返すのが当たり前……なのだそうだ。
え、そんな。敷金礼金もがっちり取られていて、クリーニング代も支払うのに何故。と思うわたしは思考がアメリカナイズされているのか、正直に、理解出来ない。……が、日本人である以上は、日本人の常識に従うべきだろう。
わたしを気遣う両親は、手伝いに来てくれる。ことを大げさにしたくはないので、課長の両親には――というか、もう、わたしにとって義理の両親なのだが――事後報告にしようかと思う。
冷蔵庫も電源を抜いた。段ボールが高く積み上げられた、がらんとした室内にて。……この部屋での日々を惜しむかのように、わたしは課長の肌に溺れている。
わたしのなかで存在を主張する彼が――愛おしくて。そういえば、彼はこの部屋でセックスをするときはいつも避妊していたなあ、なんて思い返す。
狭いシングルの布団のなかでからだをあたためあう。互いの存在が、どうしようもなく尊くて……愛おしい。課長は、わたしにとって唯一無二のひとだ。他の誰でもない、代わりの利かない存在――。
課長がわたしのなかで果てると、わたしは彼のことをしっかりと抱き締めた。もう――彼以外、愛すつもりがない。愛したくない。
愛情とは、他者の存在を排除する、獰猛な欲望なのだと思う。課長としっかりと合わさりながら、その事実を認識した。
* * *
「ありがとうお父さんお母さん。お疲れ様……」
「ありがとうございました」
がらんとした室内で、掃除をし続ける父と母に、わたしは声をかけた。冷房を切ったこの室内にて。ふたりとも可哀想に……汗だくだ。わたしは行った先で荷物を置く場所を教えたり等していた。
「よかったら、うちでシャワーでも浴びて貰って。これから寿司屋に行きませんか」
「まあ。でも……」そう言う母はきっとお金のことを心配している。「服ならわたしがあげるから。お父さんのは、課長から」とわたしが言い、
「引っ越しを手伝って頂いたお礼です。ここはおれが驕ります」
課長がそう言えば、やや躊躇った様子を見せながらも、「では、遠慮なく」と両親は頷いた。
* * *
「お刺身がぷりっぷりで美味しい! ……なんだか食べたことのない味がするわ」
「だよねー」せっかくなのでと、ライブ感のあるカウンター席に座り、わたしたちは笑う。「ここは、マグロがとにかく美味しいの。……課長とわたしの思い出の店だからね。お父さんとお母さんにも食べて欲しかったの……」
「……莉子」
父といえば、黙って目元を拭っている。ってもう、わたし、お嫁にいった人間なんだってば!
どうにも、結婚式がまだということもあり、両親の、愛娘が嫁に行ったという感覚は、遅れてやってくるようだ。ということもあり、わたしたちはより一層、結婚準備に力を入れなければならない。
「お式の準備のほうはどうなの――莉子」
「勿論うまくいってるよ。大体のスケジュールは決まったし、頼むことを頼む相手にも依頼したし。ああそう、滝沢教授も来るんだよ。わたしの大学時代の恩師……」
「幸せよねえ……莉子」前を向いた母は、なんだか感慨深げに、「素敵な旦那様に恵まれて。結婚式の準備も進んで……あちらのご両親も、きっと口出しはなさらないんでしょう? 思うこともあるでしょうに……。好きなようにさせてくれて、お友達や仲間にも恵まれて。
それはね。あなたの財産でもあるんだけど……周りに恵まれているというのがね。
でも、その恵みを当たり前だと思わず、常に、相手に感謝の気持ちを、持ちなさい。
お母さんそれが……ひととして一番大切なことだと思うわ」
母の言いたいことは分かった。そして……わたしの苦しんだ時期を知っていて母は言っている。
わたしは頷いた。「……ありがとうお母さん」
* * *
「それじゃあ、莉子のことを……よろしくお願いします」
電車ではちょっと遠い距離なので、食事とお酒もそこそこに、両親は帰ることになった。駅まで見送ると課長は、
「なんか……飲み足りないな。どっかで飲もうか」
すこしぬるくなった夜風を浴びながら、わたしは答えた。「……賛成!」
それから……お洒落なバーに行き、カウンター席で課長の蘊蓄を聞き。こうした自由な時間なんてなかなか取れないだろうから……例えば子どもが出来たら。長いグラスを傾けながらわたしは課長に魅せられる。
それから、課長のマンションに戻ると、わたしの持ち込んだ段ボールそっちのけで愛し合う。課長がわたしのなかに入ると、わたしはなんだかおかしな気持ちになってしまう。――そう、自分があるべき場所に戻ってきたかのような。自分が求められることで存在価値を見出す……そんな単純な人間になってしまったことを思い知る。
「莉子……莉子……愛している……」
わたしのなかに入ると、いつも課長は愛の言葉をくれる。その、当たり前すぎる事実が幸せであり、誰にでも手に入れられるものではない……そのことを、母の言葉を通じて、改めて認識する。
わたしのなかで果てて、荒い呼吸を繰り返す課長の背中をそっと撫でながら、わたしは、自分の胸の真ん中を占める真実を言葉にした。
「――課長。愛してます……」
*