テラーノベル
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日がすっかり落ち、ヨコハマの街にネオンの光が灯り始めた頃。武偵の事務所では、残業の書類仕事に追われる国木田独歩の怒号……ではなく、深々と吐き出される疲弊しきったため息が響いていた。
デスクの電話を切った国木田は、額を押さえながら向かいの席で日誌をまとめていた中島敦へと視線を向けた。
「敦……すまんが、少し頼まれてくれないか」
「はい? どうしたんですか、国木田さん」
ペンを止め、首を傾げる敦に、国木田は苦虫をかみ潰したような顔で言った。
「あのバカが、近所の居酒屋で完全に出来上がって動きようがないと、店の主人から連絡があった。俺はこれから社長への報告書類を仕上げねばならん。……申し訳ないが、太宰を回収してきてくれないか」
「えっ……太宰さんが、酔い潰れてるんですか?」
敦は思わず目を丸くした。
太宰治という女性は、いつも飄々としていて、酒の席でもどれだけ飲んでも顔色一つ変えないのが常だった。酒に飲まれるどころか、周囲の人間を酔わせて弄ぶ側に立つことの方が多い彼女が、自力で帰れないほど酔うなど聞いたことがない。
「どこか体調でも悪いのかな……とにかく、すぐに行ってきます!」
敦は慌てて上着を羽織り、国木田から教えられた居酒屋へと急ぎ足で向かった。
赤提灯が揺れる路地裏の居酒屋の暖簾をくぐると、店内は仕事帰りのサラリーマンたちで賑わっていた。その一番奥の小上がりに、目的の女性はいた。
「あ、敦くん……?」
そこにいた太宰は、敦が普段見ている彼女とはまるで違っていた。
いつもならきっちりと羽織っているトレンチコートは崩れ落ち、緩められた胸元から覗く首筋や鎖骨がほんのりと桜色に染まっている。薄茶色の瞳はとろりと潤み、頬を赤くしたまま、テーブルに突っ伏すようにしてぽやぽやとした表情を浮かべていた。
「太宰さん! 大丈夫ですか!?」
慌てて駆け寄ると、太宰はふにゃりと和らんだ笑顔を向け、敦に向かって細い両手を伸ばしてきた。
「やあ、敦くん……遅いよぉ。待ちくたびれちゃったじゃないか……」
語尾が伸びた、どこか幼さすら感じさせる甘えた声。普段の切れ味鋭い智謀の面影はどこにもなく、まるで日向ぼっこをしている猫のような無防備さだった。
「すみません、国木田さんから連絡を受けてすぐに来たんですが……珍しいですね、太宰さんがこんなに酔うなんて」
「んー? そお? ちょっとね、今日はなんだか……お酒が美味しく感じちゃってぇ……」
太宰は立ち上がろうとしたものの、膝に力が入らない様子で、よろりと体を傾けた。敦は慌ててその華奢な肩を支える。ふわりと、彼女の髪から漂う甘い香水と、ほのかなお酒の匂いが鼻腔をくすぐり、敦の心臓がドキンと跳ね上がった。
いくら上司であり頼れる先輩であっても、太宰は一人の非常に美しい女性だ。触れ合っている体温の温かさや、腕の中にすっぽりと収まってしまうような体の小ささに、敦の顔まで赤くなっていく。
「と、とりあえず帰りましょう。国木田さんにお会計のツケは回しておきますから」
「はーい……あ、でもね、敦くん。私、もう一歩も歩けないや」
太宰は上目遣いに敦を見つめ、唇を少し尖らせて言った。
「おんぶ、して?」
「ええっ!?」
敦は素頓狂な声を上げた。
「お、おんぶですか!? でも僕、それだと……」
「ダメ……? 敦くん、私を置いて一人で帰っちゃうの……? 私、こんなにふらふらなのに……」
潤んだ瞳でじっと見つめられ、敦の理性はあっけなく崩壊した。太宰にそんな顔で頼まれて、断れる人間などこの世に存在するだろうか。
「……わかりました。落ちないように、しっかり掴まっていてくださいね」
敦は太宰に背を向け、少し屈んだ。
太宰は「わぁい」とご機嫌な声を上げると、敦の背中にぽすんと体重を預けてきた。首元に回される細い腕。背中に伝わる柔らかい感触と温もりに、敦は耳まで真っ赤にしながら、ゆっくりと立ち上がった。
人目を忍ぶように居酒屋を抜け出し、夜風が吹き抜けるヨコハマの街並みを歩き始める。
背中の太宰は、終始ご機嫌だった。
「ふふふ〜、敦くんの背中はぬくぬくしてて、気持ちいいな」
「だ、太宰さん、揺れると危ないですから、暴れないでくださいね」
「暴れてないよぉ。ただ、敦くんとお散歩できて嬉しいなぁって思ってるだけだもん」
足をパタパタとぶらつかせながら、太宰は敦の首元に顔を寄せてくる。吐息が耳の裏にあたり、敦は歩調が狂いそうになるのを必死で耐えた。
いつもは自分を導いてくれる大人な女性が、今夜はまるで甘えたがりの子供のようだ。このギャップに動揺しつつも、敦の胸の中には、彼女のこんな特別な姿を見られているのが自分だけなのだという、小さな多幸感と愛おしさがこみ上げていた。
月明かりが照らす夜道を、二人の影が長く伸びていく。静かな夜の中に、太宰のぽやぽやとした機嫌のいい声だけが溶けていった。
だが、探偵社の寮まであと半分という差し掛かり、川沿いの静かな遊歩道を歩いている時だった。
それまで心地よさそうに歌を口ずさんでいた太宰の動きが、ぴたりと止まった。
「……んぐっ」
「……え?」
「……ぅ、え゛っ」
小さな、だが決定的な声が敦の耳に届いた。
敦の顔から一瞬で血の気が引いた。背中を走る激しい悪寒。
「だ、大丈夫ですか太宰さんっ!? 気持ち悪いですか!? 吐きそうですか!?」
敦は大パニックに陥り、足を止めて焦り狂った。ここで太宰に吐かれてしまったら大変だという衛生的な問題以上に、彼女に苦しい思いをさせているのではないかという恐怖が敦を襲った。
「すみません、すぐ降ろします! そこに草むらがあるから、うかがんでください! ああどうしよう、お水とか買った方がいいのかな、それとも背中さすりますか!?」
あたふたと背中の太宰を降ろそうと膝を折った敦だったが、首に回された太宰の腕はぎゅっと強く締め直され、離れることを拒絶した。
「太宰さん……? 大丈夫ですか……?」
青ざめた顔で振り返り、耳元で恐る恐る尋ねる敦。
すると、太宰は敦の首筋に顔を埋めたまま、数秒間の長い沈黙を置いた。
「……………へーき」
ぽつりと、心底楽しそうな声でそう答えた。
「え……?」
「へーきだよ。ちょっと意地悪してみただけぇ。ふふっ、敦くん、すっごく焦っててかわいかった」
くすくす、と背中で太宰が肩を揺らして笑っている。
「~~~~っ!!太宰さん!! 脅かさないでくださいよ! 本気で心配したんですからね!?」
敦は胸を撫で下ろすと同時に、脱力感でへたり込みそうになった。
「ごめんねぇ。でも、敦くんが私のこと心配してくれるの、なんだか嬉しくて」
そう言って、太宰は敦の頬に自分の頬をすりすりと寄せてきた。熱を帯びた柔らかい肌の感触に、敦の怒りなど一瞬で霧散してしまう。
「……もう、酔っ払うといつも以上にタチが悪いんですから」
「ふふ、ごめんね。でも、もうすぐお家でしょ? だから、もう少しだけ……このままでいさせて」
「……はいはい。ちゃんと寮まで運んであげますから、大人しくしててくださいね」
敦は呆れたような、けれどどこか甘やかすような溜息をつき直すと、背中の太宰をしっかりと抱え直し、再び歩き出した。
しばらくすると、背中から規則正しい寝息が聞こえ始めた。
本当に眠ってしまったのだろう。ぽやぽやとした無防備な顔で自分の肩に頭を乗せている太宰の顔を横目で盗み見ながら、敦は愛おしさを噛み締めるように、一歩一歩踏みしめて歩いた。
やがて探偵社の寮に到着し、敦は鍵を開けて太宰の部屋に入った。
電気を点けず、月光だけが差し込む室内。敦は太宰をそっと万年床の上に降ろし、脱げかけていたトレンチコートを脱がせ、掛け布団を丁寧にかけてやった。
乱れた黒髪をそっと耳にかけてやると、太宰は気持ちよさそうに小さな寝返りを打ち、布団に顔をうずめた。
「はぁ……なんとか無事に送り届けられたぞ……」
敦は汗を拭い、ふうと息を吐いた。
「じゃあ太宰さん、僕はお水をとってきますね。枕元に置いておくので、朝起きたら飲んでください」
そう言い残し、敦は台所へ向かって部屋を出て行った。
パタン、と静かに扉が閉まる音が響く。
その瞬間。
「…………ふふ」
さっきまでスースーと気持ちよさそうに寝息を立てていたはずの太宰が、ゆっくりと目を開けた。
そこに広がっていたのは、先ほどまでのぽやぽやとした酔っ払いの瞳ではない。月明かりを反射して怪しく光る、いつもの冴え渡った、どこまでも聡明な太宰治の瞳だった。
太宰は布団から体を起こし、少し乱れた服を整えながら、ふっと口元に笑みを浮かべた。
酒に酔っていた?
そんなわけがない。
彼女の酒量は尋常ではないし、何よりポートマフィア時代から培ってきた警戒心と体質は、たかだか居酒屋の酒程度で正気を失うようにはできていない。今夜飲んだ酒の量など、彼女にとってみれば気休めの水のようなものだった。
すべては、完璧に計算された演技だった。
(……最近の敦くんったら、任務だ何だって言って、ちっとも私に構ってくれなかったんだもの)
そう、理由は至極単純だった。
このところ、忙しさにかまけて自分を後回しにしていた年下の恋人に、どうしても構ってほしかったのだ。
普通に「寂しいから構っておくれ」と言えるような性格なら、彼女はこんな面倒な真似はしない。素直になれない歪んだ愛着障害と、類稀なる知略が結びついた結果が、この「酔っ払いのふり作戦」だったのだ。
国木田に居酒屋から電話がいったのも、全て太宰が店主に「国木田という男に電話して、私が酔い潰れていると伝えておくれ」と頼み込んだからに過ぎない。国木田が書類仕事で動けない時間帯を狙って電話をさせれば、確実に代理として敦が迎えに来る。そこまで織り込み済みだった。
(案の定、敦くんは飛んできてくれたし……背中は温かかったなぁ)
太宰は自分の膝を抱え、そこに顔をうずめた。
敦の背中に背負われている間、彼の首元から伝わってくる脈拍の早さも、耳まで真っ赤にしていた顔も、全部知っていた。急に「おえっ」と言った時の、心底焦って自分を心配してくれたあの表情。
たまらなく愛おしくて、愛おしくて、喉の奥がキュッと絞めつけられるような感覚を味わっていたのは、実は太宰の方だったのだ。
「ほんと……敦くんはいい子だねぇ」
ぽつりと呟いた太宰の頬は、お酒のせいではなく、純粋な幸福感と照れくささでほんのりと赤く染まっていた。
異能も知略も、ヨコハマの危機を救うためにあるはずのその頭脳を、ただ一人の男の子の気を引くためだけにフル活用する。そんな愚行を犯している自分に対して、太宰は呆れると同時に、かつてないほどの充足感を抱いていた。
ガラガラ、と台所のドアが開く音が聞こえた。敦がコップに水を入れて戻ってくる音だ。
太宰は瞬時に表情を切り替え、再び布団の中に潜り込むと、ぎゅっと目を閉じて「う〜ん……」とぽやぽやとした寝息の演技を再開した。
「太宰さん、お水置いておきますね……って、あ、寝ちゃってますよね」
部屋に入ってきた敦は、布団の中で小さくなっている太宰を見て、困ったように、けれど実に優しく微笑んだ。
コップを枕元に置くと、敦は太宰の頭をそっと撫でた。
「おやすみなさい、太宰さん。明日は二日酔いになってないといいですね」
敦の温かい手が、自分の髪を優しく撫でていく。
その心地よさに浸りながら、太宰は心の中でくすくすと笑った。
(二日酔いなんて、なるわけないじゃない。……でもね、敦くん。君がそうやって優しくしてくれるなら、明日もまた、酔っ払ったふりをしちゃおうかな)
敦には絶対に気づかれないし、絶対に気づかせない。
この愛しい嘘と甘い企みは、自分だけの秘密。
扉が閉まり、敦の足音が遠ざかっていくのを感じながら、太宰治は今度こそ本当に、満ち足りた心地よい眠りの中へと落ちて行ったのだった。
#にょたスト
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#溺愛
オレンジ
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コメント
10件
ははははははは尊いぜ…!ほのぼの最高…! 太宰さん、そのまま吐いてくれてもよかtt(((殴
嘔吐って結構好きなんですよなんか弱々しくてひとりじゃ生きていけないような感じが好き 敦太はほのぼのがいいですよね
構って欲しいがために、酔ったフリする太宰さん♀カァイイすぎる!! いつもみたいに、素直な敦くんを揶揄う姿もカァイイし、純粋に太宰さん♀を心配する敦くんも見ていてホッコリしました!!