夏海は、陸上部のグラウンドの片隅で、陸上部の先輩の悠莉を遠くから見つめていた。汗をかきながら走り込むその姿が、何度見ても胸を高鳴らせる。悠莉は真面目で、いつも部活の中心となり、みんなを引っ張っている。その姿勢や言葉、すべてが、夏海にとっては憧れの対象だった。
だが、それだけではない。夏海の胸の中には、誰にも言えない感情が渦巻いていた。初めて悠莉を見たとき、ただの憧れだと思っていた。けれど、次第にその気持ちが「好き」だということに気づいてしまったのだ。
(こんな感情、どうしても抑えきれない…)
夏海は、手を無意識に自分の胸元に当てる。最近、その部分が気になり始めていた。女性としての体の変化に、思春期ならではの戸惑いを感じる。しかし、それ以上に、悠莉の温かい視線が、いつも胸の中に火をつけていることに気づかされる。
「先輩…」
小さく呟くと、悠莉が振り返り、優しく微笑んだ。夏海は一瞬で顔を真っ赤にして、慌てて視線を逸らす。そんなことをしている自分が、ますます自分を嫌悪する。
「どうした、夏海?調子が悪いの?」
先輩の声に、胸が締めつけられる。思わず頷こうとするが、その言葉はすぐに口にできなかった。恋愛なんて成り立たないと頭ではわかっているのに、心はそれに反してどんどん深みにはまっていく。
「……いえ、なんでもありません。」
夏海は、顔を背けながら答える。悠莉は、少し不安そうに見つめた後、再び練習に集中し始めた。そんな先輩の後ろ姿を見ていると、ますます胸が苦しくなった。心の中で何度も誓ったはずだ。好きだなんて思ってはいけないと。でも、どうしても、その思いを抑えることができない。
部活が終わって帰宅した夏海は、制服のボタンを乱雑に外しながら、まるで逃げるようにバスルームへと向かった。
湯気の立ちこめる浴室。シャワーのノズルを握ると、無意識に水ではなく熱い湯を選んでいた。
「……はぁ……」
熱いシャワーが頭上から降り注ぎ、濡れた髪をつたい、白い首筋を伝って滑り落ちていく。心の奥に蓋をしていた感情が、また静かに顔を出す。
脳裏に浮かぶのは、今日のグラウンド。
風に揺れるポニーテール。流れる汗。真剣な横顔。
「先輩……」
声に出した瞬間、胸の奥がきゅうっと締めつけられる。こんな気持ち、持ってはいけないとわかっている。
女同士。先輩と後輩。叶うはずがない。いや、叶えてはいけない。
それでも、先輩の姿を想うたび、体の奥が熱を帯びる。
憧れだけじゃない。触れたい。抱きしめたい。名前を呼ばれたい。唇を奪われたい。
「だめ……っ、私……おかしい……」
唇を噛んで、顔を伏せる。そのまま、シャワーの水音に紛れて、静かに涙がこぼれ落ちた。
濡れた髪を伝って、涙か水かもわからない雫が、肩を滑り胸元へと流れていく。
自分の中に芽生えた“何か”が怖くて、でもその“何か”に、深く溺れたいとも思ってしまう。
やがて、手がそっと、自分の胸に添えられた。
「……悠莉先輩……」
掠れた声で名を呼ぶ。何度も心の中で繰り返してきた名前。だけど、声に出すと、どうしようもなく切なくなる。自分の口から出たその響きが、余計に孤独を深くする。
「会いたい……触れたい……それだけなのに……」
でも、叶わない。この気持ちは間違い?女の子同士で、先輩後輩で、相手は何も知らない。
そう思えば思うほど、心に黒い水が溜まっていく。罪悪感。孤独感。自分で自分を許せない気持ち。
なのに、体はもう、どうしようもなく熱くて――
震える指が、自分の肌をなぞる。胸元に触れたとたん、悠莉の笑顔が鮮明に脳裏に浮かんだ。
「悠莉先輩……先輩…」
こんな形でしか、先輩のことを感じることができないなんて、ひどいと思った。
でも、他にどうしていいかわからなかった。苦しくて、淋しくて、それでも先輩のことを考えてしまう。
悠莉の声を想像する。
「夏海、おいで」
「大丈夫、怖くないよ」
「ちゃんと見ててあげるから」
違う。そんなこと、言ってもらえるはずがないのに。
現実には存在しない幻想にすがる自分が、たまらなく惨めで愛おしい。
ひとつになりたいと願いながら、自分の身体を抱きしめていた。
それがどんなに浅くて、脆いまがい物でも――せめて今だけは、孤独じゃないと感じたかった。
シャワーの音だけが響く浴室で、夏海は両腕で自分を抱くようにして、壁にもたれかかっていた。
翌朝、夏海はほとんど眠れないまま制服に袖を通した。鏡の中の自分は、どこか浮かない顔をしていた。目元に残る赤みを誤魔化すように、冷たい指先で頬を軽く叩く。
(いつも通りに……普通の後輩として……)
頭ではそう繰り返しても、胸の内には昨日の熱が残っていた。
ベッドの中で、浴室で、何度も思い出してしまった声と、笑顔と、指先の感触。
それは夢だったのか、現実だったのか。けれど今は、いつもの日常を装うしかない。
グラウンドでは、朝の空気が少し肌寒く、湿った土の匂いが立ちこめている。
集合時間より少し早く来た夏海は、ジャージ姿のままストレッチをしていた。
そこへ、桜井悠莉がグラウンドの端から現れた。
「おはよう、夏海。今日、早いね」
その声に、胸が跳ねた。振り向くと、いつものようにきちんと髪を結び、まっすぐこちらを見つめている先輩がいた。
陽の光が差し込んで、彼女の頬にできた影までが綺麗に見える。
「お、おはようございます……っ」
上手く声が出ない。自分でも、声が震えているのがわかった。
でも悠莉先輩は、そんな夏海に気づいた様子もなく、微笑みながら一緒に準備運動を始める。
隣に座って、足を伸ばし、息を整える。
少しだけ、腕と腕が触れる距離。そのわずかな接触が、夏海の中で昨日の夜を呼び覚ます。
(ああ……ダメ。変なこと、思い出しちゃ……)
でも目の前の先輩は、何も知らずに、いつも通りで。
その無垢さが、逆に胸をえぐった。
「昨日、調子どうだった?ちょっと顔色悪く見えたけど」
「えっ……」
悠莉先輩の声が、優しくて、暖かくて。
だからこそ、余計に苦しかった。好きになってはいけない人に、こんなふうに心配されるなんて。
「だ、大丈夫です……ちょっと寝不足なだけで……」
「そっか。でも無理しないでね、夏海は最近少し頑張りすぎだから」
その言葉に、心の奥がまた波打った。名前を呼ばれるだけで、涙が出そうになる。
昨日、あんなことをしてしまった自分が、今ここでこうして優しくされている――その事実が、耐え難いほどの罪悪感となって押し寄せる。
(……もう、限界なのかもしれない)
そんな思いが胸をよぎった瞬間、コーチの笛が鳴り、練習が始まった。
夏海は、走り出しながらもなお、隣にいる先輩の気配を肌で感じていた。
距離があるようで、近い。けれど、本当に欲しいものには、決して手が届かない。
そんな朝だった。
練習が終わりに近づく頃には、夏海の体はすでに限界だった。
炎天下のグラウンドで繰り返されるダッシュ。脚は鉛のように重く、息は焼けつくように熱い。
腕を振るのも雑になり、足元がふらついて、そのままベンチの影にへたり込んだ。
「……はぁ、はぁ……」
シャツが汗で肌に貼りついて、体の輪郭があらわになる。目の前がぐにゃりと歪んで、まともに呼吸もできなかった。
そのとき。
「夏海……!」
声とともに、影がさした。
気づけば、悠莉先輩が隣に膝をついていた。
「ごめん、無理させすぎたね。ほら、水……」
差し出されたペットボトルは、冷たい汗で濡れていた。その冷たさが指先から心臓まで伝ってくる。
夏海は無言で受け取り、ふるえる唇に口をつけた。冷たい水が喉を通る。けれど、火照った身体に染み込んでいくのは、それ以上のものだった。
「……ちゃんと飲んで。体、熱くなりすぎてる……」
そう言いながら、先輩の手が、夏海の背中にそっと触れた。
――びくっ。
「……っ!」
その瞬間、背中を走るのは、まるで電流のような快感だった。
濡れたシャツ越しに、やさしく、やさしく撫でられる。何気ない手当てのはずなのに、夏海の全神経が、そこに集中してしまう。
(……だめ、そんな触れかた……)
肌が震える。息が浅くなる。呼吸の熱が、さっきよりも苦しいのは、身体が違う理由で熱くなっているからだった。
「……夏海?」
「だ、大丈夫……です……っ」
声が裏返った。けれど、悠莉先輩はそんな異変にも気づかずに、タオルでそっと額の汗をぬぐってくれる。
(ああ……この人は……何も知らないのに……)
優しさが痛い。触れられるたびに、罪が重なっていくようで――
それでも、やめてほしいなんて、思えなかった。
もう、だめかもしれない。
このままじゃ、心の奥に隠していたものが、きっと壊れてあふれ出してしまう――
朝練が終わり、グラウンドにじんわりと朝日が差し込む中、夏海は膝に手をついて息を整えていた。シャツの背中は汗でべったりと張り付き、首筋から滴る汗が鎖骨を伝って胸元へ流れていく。
そのとき、不意に背後から声がかかった。
「夏海、一緒にシャワー室行こ!」
悠莉先輩の、あの明るい声。振り返ると、タオルを肩にかけた悠莉が、汗に濡れた前髪をかきあげながら立っていた。その笑顔に、胸がきゅっとなる。
「あっ、はい……!」
汗で喉が渇いていたのに、声だけは素直に出た。歩き出す悠莉の背中を追いながら、夏海は心の奥でぐらぐらと揺れる想いを押さえ込もうとしていた。
更衣室に着くと、他の部員はもう引き上げた後だった。静まり返った空間に、ロッカーの扉を開ける金属音だけが響く。夏海は、自分の着替えを取り出しながら、そっと隣に目をやった。
悠莉が、ユニフォームを脱ぎかけている。その下から覗いたのは、日焼けした腕と、薄い布に包まれた白い肌。くっきりと浮かぶ腹筋のラインが目を引いた。無駄のないその身体に、自然と目を奪われる。
——スタイル、良すぎる…。どうしてそんな顔して、そんな体してるの。
視線を逸らそうとしても、逸らしきれない。健気で、儚くて、でも芯があって――夏海が憧れ、恋してしまった相手が、目の前に、当たり前のようにいる。
ごくりと喉が鳴る音が、自分でもはっきり聞こえた。悟られないようにタオルを持ち上げて顔を隠しながら、夏海は悠莉のすぐ隣のシャワー室へと入った。
個別に仕切られたシャワー室。すぐ隣に悠莉がいるという事実に、全身が敏感になっていた。水を浴びても、熱は全然冷めてくれない。
そんな時だった。仕切り越しに、悠莉の鼻歌が聞こえてきた。
リズムは軽やかで、どこか気の抜けたような、無防備な調子。それだけなのに、夏海の頭の中には、悠莉の濡れた肌、髪から滴る水滴、目を細めて笑う顔が次々と浮かぶ。
——やめてよ、もう……そんな、かわいい声で…。
壁一枚隔てただけの距離。手を伸ばせば、触れられるかもしれない。その現実に、心が締めつけられる。どうしようもなく、彼女を求めてしまう。
夏海はそっと目を閉じた。
(水の音で、このドキドキ、紛れてくれないかな……)
シャワーを浴び終えた夏海は、まだ水音が続くシャワー室を背に、更衣室へと戻った。仕切られたカーテンの向こうに、悠莉が今も裸のままでいると思うと、鼓動が速くなる。
——見えないのに、見えてるみたいだ…。
ロッカーを開け、タオルで濡れた肌を拭いながら下着を取り出す。制服のシャツに腕を通しながら、ふと視線を横にやった。
悠莉のロッカー。そこから、さっきまで身に着けていたスポブラとパンツが、ほんの少しはみ出しているのが見えた。
白地に淡いグレーのラインが入ったシンプルなそれは、汗を含んで重くなっているようで、ロッカーの扉にかかるように垂れていた。
(……あれが、さっきまで先輩の体に……)
その事実だけで、喉がひくりと鳴る。理性の声が脳裏をかすめる。
——やめなきゃ、だめ。こんなこと…。
でも、隣から聞こえる鼻歌が、あまりにも無邪気で、あまりにも無防備で、そして――あまりにも遠かった。
まるで背中を押されるように、手が勝手に動いた。
指先が、布に触れる。湿って、柔らかくて、生々しい。ほんの少しだけ、と思いながら、それを手に取ると、思い切り顔に近づけた。
「……っ」
鼻腔に広がったのは、汗と洗い立ての柔軟剤が混ざったような、甘くて、どこか熱を帯びた匂い。
悠莉の匂い。先輩の、直接的な、身体の残り香。
その瞬間、頭の奥が痺れるようにじんと熱を帯びて、全身から力が抜けそうになる。
罪悪感が胸を締めつける。けれど、それ以上に、幸福感が体を包んでいた。手が震え、目の奥が熱くなる。
「……先輩……ごめんなさい……」
声にはならなかった。その場に誰もいないはずなのに、見られているような気がして、手に取った下着を、そっとロッカーに戻した。その直後だった。
「ふぅ……やっとスッキリした〜!」
シャワー室のカーテンが開かれ、悠莉が、何の躊躇もなく裸のままで更衣室に戻ってきた。
「っ……!」
夏海の視線が、無意識にその全身を捉える。
肌には、ついさっきまでグラウンドで走っていた証のように、くっきりと日焼けの跡が残っていた。普段ユニフォームや下着で隠されている部分は、まぶしいほど白い。その境界線があまりにも鮮明で、まるで彼女の“秘密”を暴いてしまったような背徳感が一気に襲いかかる。
あの匂いが、頭に蘇った。鼻腔の奥に、まだ残っている気がする。
夏海の体がビクンと震える。
思わず顔を逸らし、ぎこちなくロッカーに向き直った。
「どうしたの? そんなに驚いて?」
悠莉の声が、あまりにも自然で、無垢で。
夏海は、咄嗟に呼吸を整える。見られていない。知られていない。でも、知られたら——。
「い、いえ……何も……。」
声が震えていないか、自分では分からなかった。けれど悠莉は特に気にした様子もなく、笑みを浮かべてタオルで濡れた髪を拭きながら言った。
「そっか、そこで待っててね。私もすぐ着替えるから。」
夏海はこくりと頷くだけだった。
視線は下げたまま。けれど、耳に入ってくる布ずれの音、ロッカーから下着を取り出す音、髪を束ねる音……すべてが、全神経をかき乱す。
頭の中では、「ごめんなさい」と「もっと見たい」が、激しくぶつかり合っていた。
(わたし、なにやってるんだろ……でも、もう……戻れない)
「よし、終わりっ!」
悠莉が制服の襟を整えながら、更衣室のロッカーをぱんと軽く叩いた。さっきまでシャワー室で見た裸の余韻が、夏海の脳裏にこびりついて離れない。
それでも夏海は、必死にいつも通りを装い、隣に並んで歩き出した。
「テスト一週間前だって言うのに、最近練習詰め込みすぎだよねー。マジで勉強出来なーい。」
悠莉がそう言って、口をとがらせる。まるで何もなかったように、無邪気に。
「……ですね」
としか返せなかった。本当は、悠莉の声を聞いているだけで、胸が痛い。匂いも、肌も、形も、ぜんぶ思い出してしまって。
昇降口の前で、ふたりは立ち止まった。
「じゃ、ここで。また放課後、グラウンドで!」
「……はい。お疲れ様でした、悠莉先輩」
笑って手を振る悠莉を見送ってから、夏海はそっと息を吐いた。
(こんな気持ちのまま、勉強なんてできるわけ……)
放課後の陽射しは、まだ少し熱を持っていて、グラウンドには湿った空気が立ち込めていた。
「はーい、そこまで! 10分休憩!」
顧問の声が飛ぶと同時に、部員たちは日陰に散っていく。水筒の蓋を開ける音、スポーツドリンクをすする音がそこかしこに響いた。
夏海も息を整えながら、脇に置いてあったタオルで額を拭った。その視線の先には、やはり悠莉がいた。
(先輩……)
いつもなら騒がしいはずの3年生の姿が、今日は悠莉しかいない。
「3年で今も来てるの、私だけだしなあ……」と、悠莉はどこか寂しげに笑って、ポツンと腰を下ろしている。
この時期、3年生は進路に向けて動き出す時期。模試や予備校、学校の補習。悠莉以外の3年生は、皆それぞれの理由で部活を休んでいた。
それでも、悠莉は毎日練習に来ていた。
(……真面目だな、先輩)
夏海は少し離れた場所から、その姿をじっと見ていた。汗に濡れた髪が頬に張りついていて、水筒の口元に唇をつける仕草さえ、妙に色っぽく見えた。
誰も気づかない。皆、自分のことで精一杯。
けれど夏海だけは、悠莉の姿ばかりを追いかけていた。
(こうして先輩を独り占めできる時間なんて……もう、あまりないのかもしれない)
悠莉が、自分の汗を首筋からタオルで拭う。その瞬間、またシャワー室の記憶が、フラッシュバックのように蘇る。
白い肌。日焼けの境目。スポーツブラの下に隠れていた、その柔らかい部分。
「……っ」
夏海は、喉の奥で息を詰まらせる。
何気ない日常の中で、それはあまりにも刺激が強すぎた。
そんな夏海の視線に気づかず、悠莉は軽く伸びをして笑った。
「夏海、ほら。ボーッとしてるとコーチに怒られるよー?」
「あっ……す、すみません!」
咄嗟に立ち上がる夏海を見て、悠莉はくすっと笑った。その笑顔に、また胸が苦しくなる。
休憩は、あと数分しかない。
けれど夏海にとっては、悠莉と同じ空間にいられるこの短い時間が、何よりも甘く、何よりも罪だった。
休憩が終わり、再び笛の音がグラウンドに響く。
「はーい、じゃあ軽くストレッチして、長距離入るよー。今日は8キロ、グラウンド40周!」
地獄みたいな声だった。
夏海は内心で呻きながら、太ももを伸ばす。腿の裏がじんと張っていて、すでに筋肉が重い。しかも最悪なことに、さっきの休憩で水を飲みすぎた。胃の中がタプタプしている。
(しくった……絶対脇腹、痛くなるやつだ……)
準備運動が終わり、部員たちはそれぞれにスタートラインへと散っていく。風はほとんどなく、空はまだ明るいまま。時間だけがゆっくり進んでいるように感じる。
そして何より、これから走る40周の景色が——まるで変わらないという事実が、心を折りにかかってくる。
(飽きるんだよね……こういうのって。ロードレースなら、まだ景色が変わって気が紛れるのに……)
そんな中——悠莉だけは、目を輝かせていた。
「よし、行こっか!」
靴紐をきゅっと締め直しながら、悠莉はまるで遠足のようなテンションで言った。
(……やる気、満々)
噂では、有名大学の陸上部からスカウトが来ているらしい。確かに、それも納得できる。練習への真剣さも、ストイックさも、そして何より——
(……誰からも、好かれてる)
きっとそれは、あの人が「気配り」のできる人だからだ。ただ走るだけじゃない。周りを見て、支えて、誰にでも同じように優しくできる。
(ずるいな……)
いや、ずるいのは自分だ。あんなに純粋で、真面目で、皆の前では完璧な先輩を、こんな気持ちで見ているなんて。
「……はぁ」
夏海は小さく息を吐き、スタートの号令を待った。8キロのグラウンド。景色は変わらない。走っても走っても、ただぐるぐると同じ景色。
——でも、隣にあの人がいる。
それだけが、今の夏海の走る理由だった。
(……はぁ、はぁ……)
汗が目に入って、視界がにじむ。腕も脚も、自分のものじゃないみたいに重い。
(やっと、半分……)
ようやく20周を走り終えた。でも、まだ半分。
(じゃない、まだ半分しか……)
そんな絶望の数字が、心にズシンと沈んだ。
悠莉はというと、すでに夏海より一周——いや、二周目に入りかけていた。4分の1を過ぎたあたりで、軽々と追い越されていた。
(……速すぎるって……)
その後ろ姿が遠ざかるたび、焦りと羨望と、ほんの少しの妬みが喉の奥で混ざる。しかも案の定、休憩中に飲みすぎた水が仇になった。胃が重く、脇腹がきりきりと痛む。
(ペース落とそう……いったん整えて……)
呼吸を整えながら、やや遅いペースでしばらく走る。苦しいけれど、止まりたくない。止まったら、もう立ち上がれない気がする。
(5周分だけ、このペースで……)
足取りを整えながら走っていると、遠くのトラックの反対側で、悠莉の姿が目に入った。フォームは崩れていない。むしろ、まだ余裕さえ感じさせる走りだった。
(……なんであんなに楽しそうに走れるの……)
気配りもできて、誰にでも優しくて、実力もある。しかも、こんな地獄みたいな長距離でさえ、笑顔で走れる強さがある。
——私とは違う。
夏海は思わず、胸の奥がギュッと締めつけられた気がした。
(……ってか、長すぎるんだよこのメニュー!)
気づけば、頭の中ではもう音楽を流していた。脳内DJが必死にテンションを上げてくれているけれど、それでも限界は近い。
コーチへの文句が心の中で溢れかえる。練習メニュー作ったの誰だ、絶対グラウンド走ったことないだろ。ていうか、もう少しで部活終わるんだから楽にしてくれてもいいじゃん!
そんな愚痴を吐きながらも、気づけば元のペースに戻っていた。
そして——「あと5周」の地点まで、ようやくたどり着いた。
グラウンドを走っている部員たちの足取りは、すでにバラバラだった。誰もが疲れ果てて、息も絶え絶え。フォームは崩れ、もはや“走っている”というより、“前に進んでいるだけ”といった様子。
(私も……たぶん、そんな感じなんだろうな……)
その時、グラウンドの向こうからコーチの声がのんびりと響く。
「悠莉ー、あといっしゅう〜」
あまりに軽い声だった。まるで公園で犬でも呼んでるみたいな調子に、思わず前を走っていた部員が小さく舌打ちしたのが聞こえた。
(……いや、ほんとそれ)
それでも夏海は、走る。あと5周。されど5周。
この体と、この気持ちを引きずったまま、あと5周——悠莉に追いつくことはもうできないかもしれないけれど、それでも。
(せめて、走りきらないと……)
歯を食いしばって、足を前へと出す。
「悠莉、ゴール!」
少し遅れて聞こえたコーチの声に、夏海は顔を上げた。
(……やっぱり、すごいなぁ)
視線の先、悠莉はゴールラインを超えたその場で肩を上下させ、汗に濡れた前髪をかき上げていた。呼吸は乱れているけれど、表情には達成感がにじんでいた。コーチが近づいてタイムを言おうとした、その瞬間だった。
「もう一周いってきまーす!」
悠莉が、また走り出した。
「えっ……」
ぽかんとする夏海。隣の部員も、前を走っていた子も、みんなが驚いた顔で悠莉を目で追う。コーチさえ、「お、おお……?」と曖昧な声を漏らしていた。
(いやいや……何周走るつもりなの……)
けれど、悠莉の背中はまっすぐで、なんだかそれがとても頼もしくて、格好良くて、そして——
(……ずるいよ、先輩)
息を整えながら、夏海は自分の足をもう一度叱咤する。あと3周。悠莉に比べたら、なんてことない。……はず。
「よし……頑張ろう……」
ほんの少し前向きな気持ちを持ち直した、その時だった。
「ふんっ!」
「——きゃっ!?」
不意に、背後から尻を鷲掴みされた。
驚きに声が裏返りそうになるのを必死で堪えつつ、反射的に振り返ると——そこには、悠莉がいた。
無邪気な笑顔。真っ直ぐな目。
「ほら、あとちょっとだから! 頑張れ、頑張れ!」
(……え、え? い、今の……!?)
掴まれた場所がまだじんじんしている。走っているせいでその感覚が揺れて余計に意識してしまう。
(なんであんな顔で……あんなこと……っ)
悠莉の顔は、変わらず真剣だった。悪気なんて、まるでない。ただ純粋に、後輩を応援する顔。だからこそ、なおさら、夏海の心臓は爆音で鳴った。
(やめてよ……そんな顔で、触れないで……)
走ることよりも、呼吸を整えることよりも——いま、一番難しいのは。
その無邪気さに、平然を装うことだった。
ついに——
ついに走り切った。
ゴールラインを越えた瞬間、夏海はそのまま地面に倒れ込んだ。ぬるい土の感触と、焼けたグラウンドの匂いが顔にまとわりつく。
「はい、お疲れ〜。タイムは……58分49秒ね」
コーチの声が頭の上から落ちてくる。
(……どうでもいい)
タイムなんか、今はどうでもよかった。すべてを出し切った身体は、まるで自分のものじゃないみたいに重たく、そして熱かった。
顔、首、脇……もう、全身から汗が噴き出していた。
そんな中——
「……はぁっ、はぁっ……」
後ろから、聞き慣れた息づかいが近づいてくる。悠莉だった。
(……あ、そっか。プラス四周……)
さすがに限界が来たのか、悠莉は夏海のすぐ後ろで四つん這いになり、肩を震わせながら呼吸を整えていた。
その姿は、珍しく無防備で、無邪気で、そしてとても綺麗だった。
「先輩……」
夏海が、そっとその前にしゃがみ込む。目が合った。
「夏海……ナイスラン!!」
顔中汗でぐしゃぐしゃのまま、それでも満面の笑顔でそう言ってくれた。
(……やっぱ好き、大好き……)
そんな顔、見せないでほしい。頑張って走っただけで、こんなふうに笑ってくれるなら——好きにならないわけがない。
そして、ふと脳裏にある考えが過った。
「私、スポドリ持ってきます!」
立ち上がり、急いで荷物のほうへ向かう。
バッグから、あらかじめ買っておいた詰め替え用のスポーツドリンクのボトルを取り出し、汗で濡れた手でキャップを開ける。
戻って、悠莉の前にそれを差し出す。
「どうぞ、先輩」
「あ〜〜助かるぅ〜!」
悠莉がボトルを受け取る。その口元にボトルが触れる——
その瞬間、夏海の世界がスローモーションになった。
ボトルの口に、先輩の唇が触れる。
ゴク、ゴク、と飲み込まれていく音が、夏海の胸に直接響いた。
喉が上下し、汗に濡れた喉元が光を反射する。
夕日が差し込むグラウンドで、その光景は信じられないくらい美しくて、同時にどうしようもなく——エロかった。
「ありがと夏海〜! マジ天使〜!」
(好き……好き……大好き……)
そんな言葉で微笑まれたら、もうダメだった。
「……ペットボトル、捨ててきますね」
「ありがと〜」
空になったボトルを悠莉から受け取り、ゴミ箱へ向かう……ふりをする。
夏海は、誰にも見られないように気をつけながら、自分のバッグの中へそっとそれをしまった。
悠莉の唇が触れたもの。
悠莉の息が入ったもの。
(……先輩の…先輩の………)
ドクン、と心臓が跳ねた。
これはもう、恋とか憧れとか、そんな言葉じゃ足りない。
欲望と罪悪感の境界で、夏海の恋は、さらに深く沈んでいった。
「——じゃあ、練習終わろうか。1年生と2年生はグラウンド整備。あと五日は練習の時間取れないから、まぁ、勉強頑張れよ」
コーチの言葉が響くと同時に、誰からともなくホッとした息がもれた。
(……終わった)
全身の筋肉が、そこでようやく「限界です」と訴えてくる。
「悠莉、号令!」
「はいっ! 整列ー!」
悠莉の声が、いつも通り、よく通る。掛け声のあとに「ありがとうございました!」の声が重なり、今日の練習が正式に幕を下ろした。
夏海は、その声の余韻に包まれたまま、スパイクを脱ぎ、靴紐を解いていく。
グラウンド整備を終え、荷物をまとめて更衣室へ戻る頃には、日が大きく傾いていた。
更衣室では、ちらほらと他の部員が帰り支度をしている。
(……あれ、先輩は?)
ロッカーを見ても、すでに空になっていた。
スポーツバッグも、水筒も、影も形もない。
(……もう、帰っちゃったんだ)
胸の奥に、ぽっかりと空いたような感覚。
さっきまで、あんなに近くにいたのに。
さっきまで、自分に笑ってくれたのに。
(ずるいな……先輩)
誰にも言えない、誰にも見せられないその想いだけが、静かに、夏海の心を締めつけていた。
着替えを終えても、なかなかその場を離れられずに、夏海はひとり、シャワー室の前で立ち止まった。
(……あの匂いも、あの声も、もう全部、幻みたいだ)
自分のバッグの中、こっそりしまったあの空のペットボトルに、無意識に触れる。
確かにそこにある。先輩の、気配。
(……せめて夢に出てきてよ)
そう呟いて、夏海はようやく、一歩を踏み出した。
家に帰りつくと、夏海はそのまま自分の部屋を素通りして、まっすぐ浴室へと向かった。制服も鞄もそのまま。脱ぎ捨てたような足取りのまま、そっとバッグからあの空のペットボトルを取り出す。
手の中のペットボトルは、もうすっかり冷たくなっていた。だが、夏海にはわかる。たしかにここに、悠莉先輩の「気配」が残っていることを。
「……先輩の、口が……」
ぽつりとつぶやきながら、指先で蓋をひねる。
かすかに甘いスポーツドリンクの香りが立ちのぼった。その香りだけで、頭の奥がじんわり熱を帯びてくる。
(あのとき……あの笑顔……汗で濡れてた髪、息を切らしながら見せてくれた笑顔……)
そっと唇を寄せる。ほんの少し触れたつもりだったのに、気がつけば、ペットボトルの口に自分の唇を強く押し当てていた。
(……関節キス、なんて)
たどり着けない場所だからこそ、近づこうとする。
その行為がどれほど幼稚で、どれほど滑稽でも、止められなかった。
シャワーをひねる。
音を立てて流れ出した湯のぬくもりが、熱を持った体に落ちていく。
頭を垂れながら、目を閉じる。
(先輩……悠莉先輩……)
胸の奥にある気持ちは、恋なのか、憧れなのか、それとももっと別の、名前のつかない何か——。
だけど、それを「好き」だと呼んでしまうには、あまりにも熱く、重く、そして甘すぎた。
夏海はただ、静かに湯の音に包まれながら、募る想いの行き場を探していた。
湯気に曇る鏡の向こうで、ひとりの少女が目を閉じる。
心の中にいるのは、あの人だけだった。
触れられない、触れてはいけない。
けれど、あの笑顔を、あの声を、思い出せば思い出すほど——
体の奥に、何か熱いものが芽吹いてしまう。
「先輩……っ……」
あふれそうになる衝動を、シャワーの音がかき消してくれる。
誰にも見られていない。誰も知らない。
今だけは、想いのすべてを、解放してもいいと思えた。
湯の音が、耳の奥で遠ざかっていく。
空になったペットボトルを、そっと床に置いた。
目を閉じれば、そこに悠莉先輩の姿が浮かぶ。
風に揺れる髪。笑ったときの声。走り終えたあと、汗で濡れた肌。
きらきらとした、あの人だけの世界。
(触れたい。けど……触れられない)
その矛盾が、体の奥をきゅうと締めつける。
胸の奥が、息苦しいくらいに疼いていた。
——どうしようもなかった。
誰にも言えない。知られたくない。
でも、この想いはどこへも行けない。
湯気に包まれながら、夏海は手をそっと伸ばした。
自分の体に触れるその手のひらに、罪悪感と欲望が同時に乗る。
(先輩……見てないよね……聞こえないよね……)
ただ、思い出す。あの目。あの笑顔。
夏海だけを見てくれた、あの瞬間。
「んっ……」
——一人きりの浴室で、彼女は静かに身を震わせた。
指先が触れるたび、想いは溢れ、身体が熱を帯びていく。
湯の温度も、先輩の面影も、そのすべてが肌の奥に沁み込んで、
やがて、心の奥に隠していた叫びが、そっと口から漏れた。
「……悠莉、先輩……」
その声は、シャワーの音にかき消される。
終わったあとも、しばらく動けなかった。
湯が止まり、浴室に静寂が戻っても、
夏海はただ天井を見つめていた。
涙とも汗ともつかないものが、頬を伝っていた。
(好き。好き……大好き……)
それを伝えられる日は、きっとまだ遠い。
だけど今夜だけは、あの人が自分の中にいるということを、
誰にも知られず、そっと抱きしめていた。
深夜。
部屋の窓から差し込む月光が、夏海の頬を静かに照らしていた。
悠莉先輩がいた。
汗に濡れた額。走り終えたあとの、あの笑顔。
誰よりも強くて、優しくて、まぶしい人。
そんな彼女が、なぜかすぐ近くにいて、夏海の名前を何度も呼んでいた。
「夏海……ほら、こっちおいで」
手を伸ばせば、触れられそうだった。
その唇が、ほほえみながら近づいてくる。
一瞬、くちびるが触れ合った気がして——
——目が覚めた。
「あっ……!」
一気に目が冴えた。
息が荒く、喉が渇いている。
身体の奥がじんと熱い。
そして、シーツの中で、何かが湿っていた。
(……やだ、なにこれ……)
薄暗い部屋で、誰にも見られていないはずなのに、
胸の奥が恥ずかしさでいっぱいになる。
布団を抱きしめて、小さくうずくまる。
(夢……だったんだよね……)
だけど、それはただの夢じゃなかった。
想いが高まりすぎて、心も体も一緒にあふれてしまった——
そうとしか思えなかった。
(好き……好きすぎるんだ、きっと)
布団に顔を埋めて、何度もまばたきを繰り返す。
指先が震えていた。
そしてその震えは、朝までずっと止まらなかった。
試験が終わった翌日、朝練が再開された。
今日は試験明けの土曜日ということもあり、部活に参加しているのは夏海と悠莉、そしてコーチを含めて三人だけだ。
他の部員たちは試験の疲れや勉強の追い込みで練習に参加していない。
グラウンドは広く、静かな朝の空気に包まれている。
試験のことが頭から離れない夏海は、試験のストレスから解放されたはずなのに、次に待つ練習と悠莉との時間に心が踊り、少し落ち着かない。
悠莉と二人きりで練習するなんて珍しい状況。
どこか特別な気分が漂っていた。
「さて、今日も走るよ。無理しないでね」
悠莉の優しい声が聞こえる。
その言葉が耳に入ると、夏海の胸が少し高鳴る。
「はい、お願いします」
二人でストレッチをし、軽いウォームアップを終え、いよいよ本格的に走り始める。
初めて試験が終わった後の練習、そして悠莉と二人きりで走るこの時間が、何だかとても大切に感じる。
「夏海、昨日の試験、どうだった?」
悠莉がふと話しかけてきた。
その優しい声に、夏海は少しだけ緊張してしまう。
「うーん、なんとか頑張ったけど、やっぱり緊張してうまくいったかどうかはわからないです」
少し苦笑しながら答える夏海。
悠莉は「そうだよね、試験ってどうしても緊張しちゃうよね」と軽く笑って返してくれる。
その笑顔が、また心をくすぐる。
少しだけ目を伏せ、走りながらその笑顔を思い出してしまう。
まるで自分だけの時間のように感じられる、そんな一瞬が続く。
二人で走りながら、試験のことや部活の話をしながら少しずつペースを上げていく。
悠莉はすでにスピードを上げているが、夏海は少し無理をしてしまう。
でも、何とかついていこうと必死になって走る。
そして、ふとした瞬間に感じることになる。
悠莉が夏海を後ろから見守っていることが、心にひどく響いてくる。
朝練が終わり、陽が高く昇った頃には練習が続いていた。
二人きりでの練習も、最初は少し緊張していたが、次第にリズムが取れてきて、心地よいペースで走ることができるようになった。
「やっぱり、悠莉先輩はすごいなぁ…」
夏海は思わず口に出す。
悠莉は特に意識していない様子で、リズムよく走り続けている。その姿が、どこか頼もしくて、憧れの対象だ。
走る足取りも、スムーズで無駄のない動きだ。
「夏海もいい感じだよ。無理しないで、ちゃんと自分のペースで走るのが大事だからね」
悠莉が笑顔で言うその言葉に、夏海は少し胸を弾ませる。
「はい、ありがとうございます」
今の自分のペースで、限界まで走ることができる気がしてきた。
悠莉と一緒に走っているだけで、何だか心が落ち着くような、不思議な安心感を感じる。
少しずつ、昼から夕方にかけて日が傾いていく。
グラウンドの片隅に、色づき始めた木々が風に揺れるのが見える。
「じゃあ、最後に少しだけスプリントする?」
悠莉が息を整えながら提案する。
夏海も頷き、「やります!」と元気に答える。
二人で並んで走り出すと、最初の数秒は息が合わず、少し差がついてしまう。しかし、夏海は必死で追いつこうとする。
その背中が遠く見えて、いつも以上に頑張ろうという気持ちが湧いてきた。
悠莉が少し振り向いて、「頑張って!」と声をかけてくれる。
その一言で、夏海は全力を出す気持ちがさらに強くなる。
二人で一緒にスプリントして、やがてゴールラインに到達した。
ゼーハーと息を整えながら、ゆっくりと歩いてクールダウンを始める。
「お疲れ様」悠莉が優しく言い、夏海は「お疲れ様です!」と答える。
「今日は少しだけだったけど、すごく楽しかったな」
夏海はにっこりと笑う。その笑顔が、少し赤らんだ顔と相まって、何とも清々しい。
「私も楽しかったよ。やっぱりこうやって一緒に走るのがいいね」
悠莉も同じように微笑む。夕日に照らされたその表情は、なんだか神々しく感じられた。
日がすっかり沈み、空がオレンジ色に染まった頃、練習は終了。
「じゃあ、今日はここまでだね」悠莉が言うと、夏海は大きく息をついて答える。
練習が終わり、二人は更衣室へと向かう。
「今日は少しだけだったけど、意外と疲れたなぁ」と悠莉が言いながら、汗をぬぐうようにタオルで顔を拭う。
夏海は、先輩の隣でシャワーを浴びる準備をしながら、何気ない言葉に心が温かくなるのを感じていた。
そのやりとりはとても自然で、まるで以前からずっと一緒に練習していたかのような心地よさがあった。
「シャワー、浴びてこようか」と悠莉が言い、先にシャワーを浴びに行く。
夏海もその後を追ってシャワー室に向かう。
シャワー室には仕切りがあり、互いに顔を合わせることなくシャワーを浴びることができる。しかし、気配はお互いに感じている。
シャワーの水音が響く中、悠莉が少し疲れた様子で顔を洗っている音が聞こえてくる。
その音が心地よくて、夏海はシャワーを浴びながら、先ほどの練習のことを振り返っていた。
「先輩の走り、やっぱりすごいな…」
夏海はつぶやく。悠莉は、いつも力強く、そして優しく周囲を引っ張ってくれる存在だ。それが本当に頼もしく、心強く感じていた。
シャワーの音が、静かに更衣室に反響していた。
練習後の火照った体に冷たい水が流れるたび、ほんの少しずつ思考が澄んでいくような感覚。心地よい疲労と、充実感——だけど、それだけではない。背後に誰かの気配を感じた瞬間、夏海の胸は音を立てて跳ねた。
「なーつみ」
振り向くと、そこにはタオルを肩にかけた悠莉がいた。濡れた髪が肩に張りつき、まるで光を纏ったような姿で。夏海は思わず目を逸らした。裸を見られた、という恥ずかしさよりも、それが悠莉だったから、心が追いつかない。
「最近、ちゃんと鍛えてるんだね。お腹、引き締まってる」
そう言いながら、悠莉は何気なく手を伸ばしてくる。その自然な仕草に、夏海の体は勝手に反応して、後ろへと引いた——が、足元の水で滑ってしまう。
「きゃっ——!」
瞬間、ふたりの身体が絡むようにして床に倒れ込んだ。悠莉の腕が咄嗟に夏海を庇うように伸び、結果的に夏海の上に覆いかぶさる形になった。
水音がやけに近く、肌に伝う冷たさの向こう側で、悠莉のぬくもりがはっきりと伝わってくる。
(やばい……)
息を呑む夏海。視線を逸らせない。悠莉の瞳が、思いのほか近くにあった。その奥にあるものを探ろうとしてしまう自分が怖い。
「……ごめん、痛くなかった?」
悠莉の声は、いつものように穏やかだった。けれど夏海には、それが別の意味に聞こえてしまう。鼓動がうるさくて、息の仕方も忘れそうで、逃げ出したくなるのに、このまま時が止まればいいとも思ってしまう。
「だ、大丈夫……です。びっくり、しただけ……」
そう絞り出した声が震えていたのは、冷たさのせいだけじゃなかった。
悠莉の身体が、自分の上に重なっている。
それは決して重たいものではなかった。けれど、夏海の胸の奥にのしかかってくるものは、言葉にならないほど濃密だった。呼吸するたび、微かに石鹸の香りが鼻をかすめる。肌に伝わるのは、滑らかで柔らかい感触。そして、ふたりの間に落ちてくるシャワーの水が、余計に熱を高めていく。
悠莉の手が、気遣うように夏海の頬に触れた。
「ほんとに、大丈夫? ちょっと顔、赤いかも」
その言葉に、夏海の心臓が跳ねた。
(それは…先輩のせいなんです……)
喉の奥までこみあげてきた言葉は、声になることを拒んだ。ただ、視線だけが逃げられないまま、真上から見下ろす悠莉の瞳を見つめ返していた。
ふいに、悠莉の指先が夏海の鎖骨をなぞった。明らかに無意識だろう。興味本位の、無邪気な動き。だけど、それがどうしようもなく罪深く感じられてしまう。
「すごいな……ほんとに、ちゃんと鍛えてる」
声が近い。唇が、肌に触れそうな距離にある。
夏海の唇が、わずかに開いた。熱が、奥の方から込み上げてくる。それが羞恥なのか、欲望なのか、もう自分でもよくわからなかった。ただ、ひとつだけわかるのは——このまま、もう少し触れていてほしい、という願い。
(先輩の手、冷たいのに……どうして、こんなに熱くなるんだろう)
指先が、腹部から脇腹へと滑るたび、夏海の体がびくっと震えた。思わず目を閉じて、呼吸を整えようとする。けれど、それすらもうまくできない。
悠莉の髪が肩に触れ、ぴたりと肌に張りついた。
その瞬間、思わず唇から漏れた微かな吐息に、悠莉がぴくりと反応した気がした。ふたりの間に流れていた空気が、ほんの少しだけ変わった。
「夏海……?」
呼びかける声は、たしかに揺れていた。けれどそれが誰の感情によるものか、夏海にはもう、確信が持てなかった。
(好き、好き、大好き……先輩、どうしようもなく)
もう、止められなかった。
理性はとうに限界を迎えていた。肌のぬくもりも、水音も、視線も、すべてが導火線のように心を燃やす。夏海の手がふるふると震えながら、悠莉の肩に添えられる。
(今……今なら……)
誰もいない、更衣室のシャワー室。曇ったタイルの向こうに、世界の喧騒はなかった。ただ、ふたりだけの音。水が滴り落ちる音と、鼓動。
「先輩……」
か細く、けれど確かな決意を帯びた声。
呼びかけに、悠莉がふと目を細め、夏海の視線を捉える。
「ん……? 夏海……?」
次の瞬間、夏海はそっと顔を寄せた。恐れも迷いも、すべてその一歩に込めるように——そして、唇を重ねた。
「んっ……!」
柔らかく、ぬれた唇が触れあった。初めて知る感触に、夏海の胸ははちきれそうになる。悠莉の唇は驚きに動きを止めていたけれど、夏海の指がそっと頬をなぞり、唇に気持ちを込めてもう一度、押しあてる。
水は、悠莉の髪を伝って夏海の額に落ちた。冷たい雫が、熱をもたらす不思議な錯覚。湿った空気のなかで、ふたりの世界だけが静かに震えていた。
(もっと……伝えたい)
気づけば、夏海の手が悠莉の背中に回っていた。ぬれた肌がふれ合い、微かな吐息が混ざり合う。けれど、それはどこか切実で、どこまでも優しい。
やがて、ゆっくりと唇を離した夏海は、息を整えられないまま、涙ぐんだような目で悠莉を見つめた。
「……ずっと、好きでした」
小さく震えるその声に、シャワーの音さえも遠ざかっていく気がした。
その言葉が落ちたとき、悠莉のまつげが微かに揺れた。長い沈黙が流れる。けれど、それは拒絶の沈黙ではなく、何かを初めて心の中で見つけようとする静けさだった。
シャワーの音が変わらず降り注ぐなか、悠莉はゆっくりと息を吸った。瞳が揺れている。強く、優しく、みんなの中心であった彼女が見せたことのない、あどけない表情。
「……そっか」
それだけが、最初の答えだった。
夏海の胸がきゅっと締めつけられる。不安に押しつぶされそうなその一瞬——
「私……どうしたらいいんだろ……」
その声は、ふわりと微笑んでいた。だけど、その笑みには確かに、初めて自分が「誰かにとって特別だ」と気づいた戸惑いがにじんでいた。
「夏海のこと……可愛いなって、ずっと思ってた。頑張ってて、一生懸命で、見てて……放っておけなかった。でも、好きって言われるなんて、思ってなかったから……」
悠莉はそっと顔を伏せ、目を閉じた。まるで、水に沈む前の一瞬の呼吸のように。
「……でも、嬉しいよ」
それはまっすぐな言葉だった。形にならないまま心の底に沈んでいた何かが、今、やっと浮かび上がってきたように。
「ありがとう、夏海」
悠莉が再び顔を上げる。その瞳は、夏海だけを見ていた。もう、誰のものでもない目線で。
そして——今度は、悠莉の方から、そっと唇を重ねた。
水の音の中で、ふたりの鼓動が寄り添っていく。ぎこちなくて、不器用で、それでも確かに優しい。そんな、始まりのキスだった。
「ぷはっ……」
ふたりの唇が離れた瞬間、夏海の喉から漏れた吐息が、蒸気に溶けて消えていった。けれどその熱は、確かに胸の奥に残っていた。
見つめ合う瞳と瞳。もうそれは「先輩と後輩」の距離ではない。友達でも、憧れでもない。恋人として、愛おしい人として——触れるたびに確かめ合いたいと思う相手として、そこにいた。
悠莉の目はまだどこか戸惑いを含んでいた。でも、その瞳の奥に、否定も拒絶もなかった。ただ、静かに、まっすぐに夏海を映していた。
その姿が、たまらなく嬉しくて、たまらなく愛しくて。
夏海はふと、悠莉の耳元へと顔を寄せ、そっと囁いた。
「うち……今日、親いませんよ……?」
その言葉は、水音よりも静かで、でも確かにふたりの間の空気を変えた。悠莉の睫毛がわずかに揺れる。その顔は伏せられていたから、瞳は見えなかった。けれど——
小さく、頷いた。
たったそれだけの仕草が、心臓を締めつけた。唇より、手よりも、もっと深いところで繋がったような気がして、夏海の胸はぎゅうと熱くなる。
悠莉の手が、夏海の手をそっと取った。濡れたままの指先と指先が絡み合い、それがまるで無言の約束のようだった。
(私、今日……この人を、本当に知ってしまうんだ)
心のどこかで震えている自分がいた。けれど、逃げたくはなかった。もう、引き返せない。引き返したくもない。
ふたりはシャワーを止め、更衣室を静かに後にした。
蒸し暑さの残る夕暮れの空の下。夏海の手の中には、初めて知った「愛しさ」が、確かに握られていた。
家に着くと、室内は静かで、どこか非日常的だった。靴を脱ぐ音さえ、心臓の鼓動に吸い込まれていくように感じられる。
「先輩、こっち……」
夏海の声は、ふだんよりわずかに掠れていた。部屋の奥へと導く手を、悠莉は何も言わずに握り返してくる。
ふたりだけの部屋。扉が閉まったとき、世界の音はふっと遠ざかった。
カーテン越しの淡い光のなか、夏海は悠莉の髪にそっと触れた。濡れていた髪はすでに乾きかけていて、でもその手触りはどこか儚い。
「さっきから……ずっと夢みたいです」
そう呟いた夏海に、悠莉は微笑む。そして、夏海の頬に手を添えた。その手のひらが、まるで何かを確かめるように静かだった。
「……夢じゃないよ」
それは誓いのように響いた。
唇が再び重なる。さっきよりも深く、けれど優しく、ふたりの熱が重なっていく。肩越しに回された腕、背中をなぞる指先、やわらかく触れあう身体——すべてが、相手を傷つけないようにと願うように慎重で、でも愛おしさに満ちていた。
服の布越しに感じるぬくもり。震える吐息。ふたりはただ静かに、互いの存在を確かめ合うように、ゆっくりと距離を溶かしていった。
ベッドの軋む音が、ふたりの間に流れる沈黙をやさしく揺らした。
夏海はシーツに身体を沈め、天井を見上げる。その瞳には、恐れと覚悟、そしてどうしようもないほどの愛しさが溶け合っていた。やがて、彼女はそっと唇を動かす。
「……めちゃくちゃにして………ください…」
その一言は、挑発ではなかった。むしろ、まっすぐで不器用な告白のようだった。弱さを預けるような、すべてを許すような、震える願い。
悠莉は驚いたように息をのんだが、その瞳には夏海を責めるような光はひとつもなかった。ただ、深く、真剣に彼女を見つめていた。
「……そんな…………こと…」
声はかすれていた。けれどその手は、静かに夏海の胸元に伸び、制服のボタンに触れた。
ひとつ、またひとつ。慎重すぎるほどの動作でボタンを外すたび、制服の隙間から、まだあどけない肌が覗いた。
その度に、悠莉の表情が微かに揺れた。憧れ、戸惑い、愛おしさ——さまざまな想いが彼女の胸の奥に降り積もっていた。
「……ほんとに、後悔しない?」
ボタンを外し終えたあと、悠莉は問いかけるように夏海を見つめた。
夏海は頷いた。もう、ためらいはなかった。
その返事を受けて、悠莉はゆっくりと身体を重ねる。制服の隙間から感じるぬくもりと、ふたりの呼吸の重なりだけが、世界のすべてのように思えた。
そして、抱きしめた。
きつくもなく、けれど決して離れられないような、そんな抱擁。互いの体温が混じり合い、ひとつになりたいという想いだけが、確かにそこにあった。
悠莉の手は、愛しさを込めて夏海を包む。乱すのではなく、心をほどくように。重なっていく吐息のなかで、ふたりは言葉を使わずに、何かを深く交わしていた。
月明かりが部屋の隅々に静かに差し込み、ふたりを柔らかな光で包み込んでいた。その光は、まるで時間が止まったような錯覚を与え、外の世界とは切り離された空間を作り上げていた。
夏海の呼吸が、悠莉の耳元でゆっくりと震える。ふたりの肌が触れ合うたびに、心が高鳴り、何もかもが鮮明に感じられる。けれど、それは急かすものではなかった。すべてが自然に、静かに重なり合い、ひとつの大きな流れの中に溶けていくようだった。
「先輩……もう……」
夏海の唇が、かすかに震えた。その声は、もう何度も聞いたことがあるけれど、今、初めてその響きが自分のもののように感じられた。悠莉は優しくその手を取ると、ゆっくりと見つめ返してきた。
「うん、私も……」
その言葉に、夏海の胸がふわりと温かくなる。言葉にできない想いが、ふたりを繋げる糸のように感じられた。悠莉の手が、夏海の髪にそっと触れ、静かに撫でる。その優しさに、夏海はますます心が満たされていく。
ゆっくりと身体を寄せ合い、呼吸を合わせながらふたりは寄り添った。あの日から、言葉では伝えきれない何かが、二人の中で少しずつ育っていた。それは確かに愛情であり、また深い理解のようなものでもあった。
しばらくの間、ふたりは言葉を交わさず、ただその温もりを感じ合っていた。夜風がカーテンを揺らし、部屋の中に柔らかな空気を流し込む。それに合わせて、ふたりの呼吸も穏やかに、静かに交わる。
「……今日、すごく幸せ…。」
夏海の声が、再び静かな空気を破った。その言葉には、素直な感情が込められていた。悠莉は微笑みながら、その肩を抱き寄せた。
「うん、私も。あなたと一緒にいると、時間がゆっくり流れていくように感じる」
その言葉に、夏海は少し照れたように頬を染め、そして再び悠莉に寄り添った。ふたりの間に流れる空気は、何も言わなくても、すべてを理解し合えるような心地よさがあった。
「これからも、ずっと……こうしていたい。」
夏海がそっと囁いた。その言葉は、まるで明日への約束のように響いた。悠莉はその背中を優しく撫でながら、うなずく。
「うん、私も。これからもずっと、あなたと一緒にいたい」
そして、再びふたりは静かに目を閉じた。月明かりの下で、心がひとつに重なるその瞬間、時間は静かに流れ、ふたりの心は深く結びついていった。
月明かりが二人を包み込み、静かな夜が二人の間に漂う。悠莉の手が、少し震える夏海の肩に触れる。その温もりが、夏海の体にじわじわと広がり、心臓の鼓動が速くなるのを感じた。悠莉の指先が軽く夏海の肌を滑り、敏感な部分を触れるたびに、夏海は思わず息を呑んだ。ひとつひとつの動作が、何よりも深く、強く心に刻まれていく。
「夏海…」悠莉の声が静かに響く。
その声は優しく、けれども確かに夏海を包み込むように感じられた。夏海はその声に導かれるように、目を閉じ、深い呼吸をした。悠莉の手は、少しずつ夏海の背中を撫で、首筋から胸元へと移動していく。夏海の体がその手に反応し、息がさらに浅くなる。
悠莉の指が、ほんの少しだけ夏海の唇に触れると、その瞬間、夏海は声を漏らした。微かな喘ぎが、彼女の口からこぼれ、悠莉の手がその震える唇を優しく支えた。夏海はその感触に体を引き寄せられるようにして、悠莉の手のひらに包まれる。ほんの一瞬、言葉を交わすことなく、二人はただ触れ合うだけで十分だった。
「悠莉先輩…」夏海の声は、今まで感じたことのないほど柔らかく、甘く響く。
その声に悠莉が答えるように、唇が近づく。次第に、二人の距離は狭まり、夏海の心臓はますます高鳴った。悠莉の唇が夏海の額に触れ、優しさが全身を包み込む。
その時、悠莉の手がさらに夏海の体を引き寄せ、二人の体が完全に重なり合った。夏海の胸が悠莉の胸に押し付けられ、二人の息が交じり合う。その感覚に、夏海の体が震え、さらに深い息を漏らす。「あ…」その一言が、二人の間に新たな熱を生んだ。
悠莉の手が、やがて夏海の腰に回り、その位置を確かめるように感じられる。夏海はその手のひらに体を預けながら、ふわりと息を吐いた。悠莉の瞳が、夏海の瞳を見つめ、少しずつその距離が縮まる。唇が触れる瞬間、夏海はもう何も考えられなくなっていた。心も体も、悠莉に全てを委ねていた。
「…あぁ、悠莉先輩…」その喘ぎが、ふとした瞬間に彼女の口から漏れる。
「んっ…はぁ…………はぁ」
悠莉の反応に、夏海の体がさらに強く反応し、二人の息がさらに速く、荒くなっていった。言葉ではなく、体を通して伝わる感情が、二人の心をつなぎとめる。
その瞬間、夏海は感じた。二人がひとつになることで、何かが解き放たれる感覚を。悠莉の存在が、彼女を包み込み、全てを受け入れてくれるように思えた。二人の体が完全に重なり、互いの呼吸が一つになった時、夏海の中で何かが静かに、けれど確かに壊れる音がした。
熱を含んだ空気が部屋を満たし、二人の間に流れる時間はすでに溶け合っていた。静けさが二人の間に広がり、何も言わずにただお互いの息遣いだけが響く。まるで何もかもが一度に終わり、始まったかのような感覚を抱えながら、夏海はふと口を開いた。
「先輩…」夏海の声は少し震え、掠れていた。
恥ずかしさがまだ残る中で、彼女は顔をわずかに逸らし、目を伏せた。その仕草がまた、悠莉の心を掴んで離さなかった。
「一緒に…お風呂……入りませんか?」その言葉は、どこか優しさと切なさを含みながらも、深い欲望を隠しきれないように響いた。
夏海の顔は、照れくさそうに紅潮し、目を合わせることなく、その言葉を吐いた。
悠莉はその一言に胸が締めつけられるような感覚を覚えた。すでに二人の距離は縮まりすぎていて、今さら何を隠す必要もないのに。けれど、それでもどこか遠くで自分に問いかけるように、悠莉は答えた。
「……うん」その言葉は、夏海の耳に優しく届き、二人の心が重なり合う瞬間だった。
悠莉は静かに立ち上がり、夏海の手を取って、彼女を引き寄せるように歩き始めた。
夏海の心臓がまた一段と速くなるのを感じながら、二人はお風呂へと向かう。足音が静かに響き、二人の影がひとつになりながら歩いていく。部屋の中の空気は、さらに熱を帯びて、二人の間に残された一切の距離が溶けていくようだった。
お風呂場に着くと、悠莉はそっと夏海の背中を押し、シャワーを浴びる準備を始める。その間、夏海の心はまだ少しだけ戸惑っているようだったが、悠莉がそっと振り返り、静かな微笑みを浮かべて言った。
「大丈夫、夏海。何も心配しなくていいから。」
その言葉に、夏海はようやく深呼吸をし、緊張が少しずつほぐれていくのを感じた。体が触れること、心が交じり合うことが、もうすべて自然なことのように感じられる瞬間だった。
湯気が立ち込めた狭い空間で、二人の存在が一層強く感じられる。夏海は悠莉の胸部に頭を寄せ、彼女の温もりに包まれて心が穏やかになるのを感じていた。顔は見えなくても、今、心が通じ合っていることは何よりも確かだった。
「先輩…」夏海が静かに言葉を紡ぐ。「私、ずっと言いたかったんです。」彼女の声は少し震えていて、そこには深い感情が込められているのが伝わった。
悠莉は何も言わずに、ただ彼女の手を握りしめた。夏海の言葉が続くのを待つように。
「ずっと…ひとりだった気がして。でも、今、先輩がいてくれて、こうして支えてもらって、本当に幸せだなって。」夏海の声は次第に柔らかく、心が軽くなるような感覚を感じながら、言葉を紡いでいった。
その言葉に、悠莉は少し顔を伏せた。心の中で、夏海の言葉を受け入れる一方、彼女が抱えている悩みがふと浮かんでくる。それは、どうしても自分の中で解消できない、深く苦しい思いだった。
「でも…私なんか、夏海みたいに女の子らしくないし、可愛くないし…」悠莉の声が少しだけ震えた。「私は、ただの先輩だから…」その言葉に、夏海は思わず顔を上げ、悠莉の胸元に額を押し付けながら、さらにその体温を感じ取った。
「先輩、そんなことないです!」夏海は真剣に言った。「先輩は、私が憧れていた人です。どんな自分でも、私は…先輩が好きだから、そんな風に思わないでください。」夏海は強い気持ちを込めて言葉を続けた。
悠莉の胸が苦しくなるような感覚を覚えながらも、彼女は夏海の手にぎゅっと力を込め、心の中でその言葉を受け入れた。自分が好きになった人からこう言われることが、どれほど嬉しいか、今、初めて本当に理解できた。
「ありがとう、夏海…」悠莉は静かに、でも確かに心からその言葉を紡いだ。
二人の間にしばらくの沈黙が流れる。その間、互いの呼吸だけが響き、二人の心が近づく。やがて、悠莉はゆっくりと顔を向け、夏海の目を見つめる。その瞳の奥には、言葉にできない感情が溢れ、心が交わる瞬間が訪れた。
「私も…夏海が好きだよ。」悠莉はそのまま、夏海の唇に優しく触れる。
無言のキスは、二人の間に確かな絆を感じさせ、まるで時間が止まったかのように、ただその瞬間が永遠に続いてほしいと思わせた。
キスが終わると、二人はお互いの顔を見つめ合い、微笑みながら、もう一度その距離を縮める。そして、心が深く繋がったことをお互いに確かめ合うように、静かにまたキスを交わした。
風呂から上がったあと、二人は水気を拭き取りながら、どこか恥ずかしそうに目を合わせ、それでも自然と手を繋いだまま、夏海の部屋へ戻っていった。
ベッドに腰を下ろすと、柔らかな布団の感触に、緊張していた体と心が少しずつほどけていく。濡れた髪のまま、互いに寄りかかるようにして横になった。
「……ねえ、夏海」
「はい……?」
悠莉がぽつりとつぶやく。「こうしてると、夢みたいだね」
夏海はうなずきながら、小さく笑った。「夢じゃないですよ。ちゃんと触れてるし、声も聞こえてる」
その言葉に、悠莉はそっと夏海の髪を撫で、ふとその首筋に唇を寄せた。迷いなく、でも優しく、熱をこめて肌に触れる。肌と肌の間に、確かに生まれる気持ちがある。
「……ん」夏海が小さく声を漏らすと、悠莉は少し照れたように微笑んで、もう一度キスを落とす。
今度は鎖骨の少し上。軽く吸うようにして、そこに自分の存在を刻みつける。
「先輩ばっかりずるい……」
夏海も体を起こし、悠莉の首筋に唇を寄せた。優しく触れたあと、同じように跡を残すように吸い上げる。
「……ここ、私の、ってわかるようにしておかないと」
その声には少しの照れと、まっすぐな気持ちがこもっていた。
二人はまるで戯れるように、互いの首筋や鎖骨に、いくつもキスを重ね、名残惜しそうに唇を滑らせる。触れるたび、刻まれるぬくもりが愛おしく、離れることが怖くなる。
「……夏海」
「はい」
「これからも、ずっとそばにいてね」
「もちろんです。私、もう先輩じゃなきゃダメなんですから」
優しい夜の静けさの中で、二人は抱き合ったまま、またひとつ深く繋がっていった。
朝の気配はまだ淡く、カーテンの隙間から差し込む光が、静かな室内を柔らかく照らしていた。
悠莉は、微かにまぶたを震わせながら目を開けた。ぼんやりとした視界に映るのは、隣で静かに眠る夏海の横顔。穏やかな寝息が規則正しく聞こえ、その音だけが、部屋の空気を満たしている。
体を少し起こすと、肩の辺りにほんのり鈍い感覚が残っていた。視線を下ろせば、首元から鎖骨にかけて、昨夜、互いに重ね合ったキスの痕が、色を深めていた。触れた指先に、まだそこに残る熱を感じる。
(…すごいな、これ)
どこか照れくさく、けれど誇らしげに思いながら、悠莉はゆっくりと夏海の方へ身体を向けた。
寝顔はまるで子猫のようで、柔らかな頬、少し開いた唇、額にかかる前髪のすべてが愛おしい。無防備な姿が、逆に心を揺さぶる。あまりに無垢で、あまりに綺麗で、触れることすら躊躇うような――それでも、触れたいと思ってしまうほどに。
そっと、指先が夏海の頬に触れた。まだ眠っている彼女は微かに眉を動かし、頬が悠莉のぬくもりを探すように、ゆるくすり寄ってきた。
「……かわいい」
思わず漏れた声は、誰にも聞かれないはずの秘密の告白のようで、胸の奥に優しく響いた。
指先を、頬から耳元、そして首筋へとすべらせる。その肌は熱を帯びたままで、ほんのり紅くなったキスマークに再び触れた瞬間、昨夜の記憶がふっと蘇る。求め、与え、確かめ合った時間――言葉よりも深く繋がった瞬間。
(夢じゃないんだね…)
悠莉はもう一度、夏海の頬に手を添え、小さなキスをそこに落とした。目覚めた時、彼女が最初に感じるのが自分の愛でありますように――そう願いながら。
夏海は、頬に触れる優しい熱に目を覚ました。うっすらとまぶたを開けると、すぐそばに悠莉の微笑があった。
「……おはよう、夏海」
その声に反応して、夏海はぱちぱちとまばたきをしながら、まだ寝ぼけた頭で状況を思い出す。そして次の瞬間、全身に一気に昨夜の記憶が押し寄せた。
(……あ)
ぼんやりしていた意識が一気に覚醒する。胸に感じるぬくもり。乱れた布団。肌に残る感覚。そして――首元にうずくような火照り。
「せ、先輩……っ」夏海は慌てて布団を引き寄せながら身を起こした。熱をもった頬が恥ずかしさでさらに紅く染まっていく。
「…あ、ごめん。起こした?」
悠莉は、どこかいたずらっぽく笑いながらも、昨夜と同じように優しく見つめてくれている。そのまなざしに、胸がぎゅっと締めつけられた。
「い、いえ……あの、もうこんな時間……!」
ベッド脇の時計を見て、夏海は飛び起きる。指先が震えるほど慌てながら制服の準備に取り掛かると、悠莉もつられるように身支度を始めた。
「朝練……ヤバいかも」
二人は洗面所へと駆け込み、顔を洗いながら鏡を見た瞬間、ぴたりと動きが止まった。
「……うそ……」
「……こ、これは……」
鏡に映る自分の首筋、鎖骨、そして耳の裏にまで、昨夜残した、いや、残された熱の跡が点々と浮かんでいた。夏海は真っ赤になり、思わず顔を伏せた。
「ど、どうしよう……制服で隠れる……よね……?」
「たぶん……いや、ちゃんと隠さないと、絶対バレるって……!」
お互いに手早く髪を整え、制服の襟を確認しながら、二人は何とかそれらを隠すように努力した。準備が整う頃には、どちらの頬も朝の日差しよりも赤く染まっていた。
玄関で靴を履きながら、ふと視線が交差する。
「……行こっか、夏海」
「……はいっ、先輩!」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。昨夜とは違う、けれど確かな関係がそこにあった。
朝の光の中、制服の襟元にわずかに残る赤い痕を風がそっと揺らす。まだ少し火照る肌と胸の高鳴りを抱えながら、二人は並んで走り出した。
今日も、いつもの朝練が始まる。
けれど、何かが確かに変わっていた――互いの心が、もう離れがたく結ばれているということ。
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