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「――さよならの前に、今夜はひとつだけ」
いつもなら軽い口付けの後は、結葉が助手席側のドアを開けて車から降りるのを静かに見守る偉央なのに、今日は掴んだ結葉の手をグイッと引いてきたことに、結葉はただただ驚いた。
「い、偉央さ、っ……!?」
常ならぬことに目を白黒させる結葉の小さな身体を両腕の中に閉じ込めて、偉央は結葉の首筋に顔を寄せた。
「結葉さんが勘違いなさらないようにハッキリと申し上げておきたいのですが……僕は貴女が思い描いていらっしゃるような聖人君子ではありません」
(偉央さんはいきなり何を言い出すのだろう?)
そう思っているのであろう結葉の戸惑いをかき回してさらに困惑させるように、偉央が初めて結葉の首元にチュッと音を立てて吸い付いた。
夏の盛りのこと。
淡いフレッシュピンクのノースリーブワンピースに、黒の透かし編みのパッチワークカーディガンを羽織っていた結葉の首元は、涼しげに大きく開いていた。
いつもは下ろしている腰までの長いストレートの黒髪も、今日は左寄せで緩く編み込まれていて、首筋のガードが常より甘くて。
そんな結葉の鎖骨に近い部分に唇を寄せた偉央からは、腕の中の彼女が、偉央からの突然のキスに驚いて身をよじったときにチラリと下着のレースが見えてしまった。
そこに隠されたふくよかなラインを描く柔らかそうな胸の膨らみに触れたい、という気持ちを、偉央は何とか理性を総動員して踏みとどまった。
***
「あ、あのっ。偉央さん……っ?」
真っ赤になって、偉央が今しがた唇を寄せたばかりの鎖骨付近に手を当てると、結葉は偉央を見上げてオロオロとした声を出す。
「お願いだから……僕以外の男を見ないで?」
ギュッと結葉の頭を抱き抱えるようにして自分の胸元に押し当てると、偉央が小さくそうつぶやいて。
結葉は偉央の心臓が忙しなく鼓動を刻んでいるのに気付いた。
途端、胸の奥がギューッと切ないぐらいに痛くなって、結葉はいつの間にか自分が、幼なじみの想よりよりもずっとずっと偉央のことを好きになっていたことに気付かされた。
きっと自分が不用意にも想の名前なんてつぶやいてしまったから、変に偉央のことを不安にさせてしまっている。
そう思った結葉は、偉央にちゃんと自分の気持ちを伝えないといけない、と思った。
「偉央さん、私……」
偉央の胸元、くぐもった声で結葉が言葉を紡ぐ。
「偉央さんが心配していらっしゃるように子供の頃からずっと幼なじみの想ちゃんのことが好きでした。でも……今は偉央さんのことが誰よりも大好きです。私、もう、偉央さんしか見えてません」
恐る恐る自分を抱きしめる偉央の背中に腕を回してキュッと抱きついてみたら、偉央が小さく息を呑む気配が伝わってきた。
「結葉さん……今のは――」
「本心です」
結葉のあごにそっと手を掛けて顔を上向けさせて。
不安そうに瞳を覗き込んでくる偉央に、結葉はにっこり微笑んでみせる。
「私、偉央さんが好きです。ずっとずっとちゃんと言葉に出来てなくてすみません」
偉央はお見合いしたその日からずっと――。
結葉に絶えず愛の言葉をくれていた。
結葉はそれを甘んじて享受しながらも、自分からは偉央に何も伝えていなかったことに思い至る。
「偉央さん、私を……偉央さんのお嫁さんにしてくださいますか?」
そう結葉が言い終わるか終わらないかのうちに、偉央が結葉の唇を塞いだ。
それは、今までの軽く唇をついばむ様なふんわりとしたバードキスではなくて、舌先で口中を探るようなフレンチキス。
結葉はそんなキスは初めてだったから、どうしていいか分からずに戸惑ってしまう。
「ん、ぁ……っ」
唇に隙間ができるたびに喘ぐように小さな吐息を漏らして偉央にキュッとしがみつく結葉に、偉央が甘やかにささやく。
「結葉、無理に応えようとしなくていいから……僕に全部委ねて?」
いつものように「さん付け」で呼ばれなかった名前と、微妙に外された敬語。
いつものように優しいけれど、どこか自信に溢れたその言葉は、酷く結葉を安心させた。
偉央は自分よりも八つも年上の大人の男性なのだと。
自分の至らない点は全てこの人がカバーしてくれるのだと。
偉央の言葉に小さく頷きながら、結葉はうっとりと思った。
小林結葉は流されやすいところのある女性だったから。
引っ張ってくれる男性に強く惹かれるところがあった。
そうしてそれが、後に結葉と偉央の関係に仄暗い影を落とす原因になるのだと、その時の結葉は思いもしなかった。