テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
朝、ロケバスの窓を叩く雨音で目が覚めた。どんよりとした灰色の空は、皮肉にも今日の撮影シーンに完璧な舞台装置を用意してくれていた。俺は隣の席で深くキャップを被り、眠っている——あるいは眠った振りをしている——勇斗の横顔を、意識しないように努めながら窓外を眺めた。
昨夜、ホテルの部屋で交わしたあの「練習」のキス。
柔らかい感触と、勇斗の戸惑ったような吐息が、一晩中俺の脳裏を支配していた。勇斗は今、何を考えているんだろう。いつも通り、プロとして「いい練習になった」と割り切っているのだろうか。
「……仁人、顔、死んでるぞ」
不意に、隣から声がした。勇斗がキャップのツバを上げ、少し眠そうな目で俺を覗き込んでいた。
「っ……おはよう。寝不足なだけだよ」
「ふーん。まぁ、今日のシーンは重いからな。体調管理、しっかりしろよ」
勇斗はそれだけ言うと、また背もたれに体を預けた。その声はどこまでも平坦で、昨夜の微かな熱など微塵も感じさせない。それが余計に、俺の胸をざわつかせた。俺だけが、あの数秒間に囚われているような気がして。
現場に到着すると、スタッフたちが慌ただしく機材を運び出していた。
今日のメインは「シーン50」。航平が直実に想いをぶつけ、強引に唇を重ねる、この物語の大きな転換点だ。
「よし、二人とも。準備はいいかい?」
監督がモニター越しに俺たちを呼ぶ。
「昨日の本読みで見せたあの葛藤、それをこの雨の中で爆発させてほしい。勇斗、直実を壊すくらいのつもりでいってくれ。仁人、君はそれを受け止めきれずに溺れていくんだ」
監督の言葉に、喉の奥がキュッと締まる。
衣装のシャツは、撮影用の雨ですでにしっとりと肌に張り付いていた。冷たいはずの雨が、今の俺にはひどく熱く感じられた。
「シーン50、本番……スタート!」
カチンコの音が鳴り響き、放水機から激しい雨が降り注ぐ。
俺は雨に濡れながら、必死に勇斗から逃げようとする「直実」を演じていた。
「待てよ、直実!」
勇斗の声が、雨音を切り裂いて届く。
腕を強く掴まれ、身体が反転した。荒い呼吸を繰り返す勇斗の瞳は、これまでのどの撮影よりも暗く、そして深い光を宿していた。
「離して……っ、航平! もう、放っておいてくれよ!」
「放っておけるわけないだろ! お前がそんな顔して……俺を避けてる理由、教えろよ!」
台本通りのセリフ。けれど、勇斗の指が俺の腕に食い込む力は、演技とは思えないほどに強かった。痛いくらいのその感触が、俺の中の何かを揺さぶる。
「言えるわけないだろ……。お前には、絶対……」
「言えよ。全部吐き出せよ!」
勇斗が俺の肩を掴み、壁に押し付けた。背中に冷たい壁の感触と、目の前にある勇斗の圧倒的な熱量。
台本では、ここで航平が直実の言葉を封じるようにキスをするはずだった。
「……もう、逃がさないから」
勇斗の唇が近づく。
昨夜と同じ。けれど、昨夜よりもずっと切実で、暴力的なまでの渇望を孕んだ距離。
俺は反射的に目を閉じた。
重なった唇は、昨夜の「練習」とは比較にならないほど熱かった。
雨に濡れた唇が滑り、お互いの吐息が混じり合う。勇斗の舌先が、迷うことなく俺の唇を割り、内側に侵入してきた。
(……え?)
頭の中が真っ白になる。
台本に「深いキス」とはあったが、ここまで生々しく、アドリブで舌を絡めてくるなんて聞いていない。
けれど、勇斗の動きは止まらない。俺の項を強引に引き寄せ、さらに深く、俺の口内を支配していく。
「ん……ぁ、……っ」
俺の口から、自分でも驚くような甘い声が漏れた。
それは「直実」としての反応なのか、それとも「吉田仁人」としての本能なのか。
勇斗の熱に煽られ、俺の腰が震える。心臓が壊れそうなほど脈打ち、雨の冷たさも、周囲のスタッフの目も、すべてが意識の彼方へと消えていった。
「……はい、カット! オッケー!」
監督の興奮した声が響き、ようやく勇斗の唇が離れた。
銀色の糸が、二人の間に一瞬だけ引かれ、雨の中に溶けて消える。
勇斗は肩で息をしながら、俺の顔をじっと見つめていた。その瞳には、まだ「航平」の情熱が居座っているように見えた。
「……今の、最高だよ! 二人の熱量がすごすぎて、モニター越しにこっちまで震えたよ」
監督が駆け寄ってきて、勇斗の肩を叩く。
「特に勇斗のアドリブ! あの強引な感じ、直実の揺らぎを引き出すのに完璧だった」
「……あ、ありがとうございます」
勇斗が、少し掠れた声で答える。彼はすぐにスタッフから差し出されたタオルを受け取り、顔を拭った。その横顔からは、先ほどの熱は急速に失われていくように見えた。
一方の俺は、その場から動けずにいた。
唇に残る、勇斗の味。熱を帯びたままの口内。
あのアドリブは、本当に演技を良くするための「技術」だったのか。それとも、彼の中にも抑えきれない何かが溢れ出した結果だったのか。
「仁人、大丈夫か? 風邪引くぞ、早く着替えろ」
勇斗が、いつもの「佐野勇斗」の声で俺に声をかける。
けれど、その目は一度も俺と合わなかった。
「……うん、そうだね」
俺は震える手でタオルを受け取り、控室へと歩き出した。
雨はまだ降り続いている。
撮影は成功した。けれど、俺の心の中には、決して消えない「違和感」と、言いようのない「期待」が、澱のように積み重なっていた。
俺たちが演じているのは、幼馴染の恋。
けれど、その唇から伝わってきた熱は、台本に書かれた文字よりもずっと重く、そして嘘のないものに思えて仕方がなかった。
激しい雨の中でのキスシーンの撮影から、数日が経過した。
映画の撮影は佳境に入っているが、その合間を縫うようにしてM!LKとしての活動も進んでいく。
「はい、じゃあ次は仁ちゃんからコメントお願いしまーす!」
YouTubeの企画撮影中、太智が元気よくカメラを回す。
「えっ、あ、ごめん。なんだっけ?」
「もう、仁ちゃんしっかりしてよー! 」
隣で舜太が笑いながら俺の肩をゆする。
以前なら、メンバーとのこんなやり取りは呼吸をするのと同じくらい自然なことだった。けれど今は、視界の端に映る勇斗の存在が、どうしてもノイズになってしまう。
雨に濡れた彼の髪、強引にこじ開けられた唇の感触。カットがかかった瞬間に、彼はどうしてあんなに綺麗に「佐野勇斗」に戻れるのだろう。
「勇ちゃんも、今日ちょっと静かじゃない? いつもなら仁ちゃんに真っ先に絡みに行くのに」
カメラのセッティングを変えながら、柔太朗がふと口にした。
「え? ああ……俺もほら、台本覚えるのに必死だからさ」
勇斗がいつもの明るいトーンで返す。けれど、その視線が一度も俺と合わないことに、俺はひどく動揺していた。
その後のダンスレッスンでも、俺の意識はどこか浮ついていた。
新曲の振り付けは、メンバー同士の距離が近いフォーメーションが多い。サビのパートで、俺と勇斗が背中合わせになり、ゆっくりと反転して視線を交わす振りがある。
(……来る)
勇斗と背中が触れ合った瞬間、背筋に電流が走った。
練習着の薄いTシャツ越しに伝わる、彼の確かな体温。
反転し、目が合う。勇斗の瞳は真剣そのものだが、俺はその奥に、あの日の「航平」を探してしまう。
「……っ」
一瞬、足元がもつれた。
「あ、危なっ……!」
すかさず勇斗の手が伸びて、俺の腕を掴んだ。
「……大丈夫か、仁人」
「あ、うん……ありがと、勇斗」
「仁ちゃん、今日やっぱり変だよ? どっか痛いの?」
舜太が心配そうに駆け寄ってくる。
「リーダーがバテてどうすんのさ。ほら、水飲んで!」
太智がペットボトルを差し出してくる。メンバーの優しさが、今の俺には少しだけ眩しすぎて、申し訳なかった。
「……ごめん。撮影の入り時間が続いてて、ちょっと感覚がズレてるのかも」
俺は苦笑いして誤魔化した。勇斗は俺の腕を離すと、何も言わずに自分のポジションに戻った。
険悪なわけじゃない。むしろ、お互いを気遣いすぎている。それが、他の3人には見えない「壁」となって、俺たちの間に立ちはだかっていた。
レッスンの休憩中、俺が一人で鏡の前でステップを確認していると、勇斗が隣に並んだ。
「……仁人」
「……何、勇斗」
「明日の撮影、シーン65だろ。……台本、読んだか?」
心臓が跳ねた。シーン65。それは、航平のマンションでの、より深い接触を伴うシーンだ。
「……読んだよ。大丈夫、ちゃんと頭に入ってる」
「そうか。……さっきのミス、映画のことが頭にあるなら、無理に『M!LKの吉田仁人』に戻ろうとしなくていいから」
勇斗の声は優しかった。けれど、その優しさが今の俺には一番残酷だった。
「……どういうこと?」
「お前が『航平』を意識してるなら、俺も『直実』として向き合うだけだ。……気まずいなんて思うな。俺を信じてろ」
勇斗は俺の肩をポン、と叩くと、「柔太朗ー! さっきの振り、もう一回確認していい?」と明るい声でメンバーの輪に戻っていった。
俺は鏡に映る自分を見つめた。
勇斗は、プロとしてこの「気まずさ」さえも演技の糧にしようとしている。
けれど、俺の唇に残っているこの熱は、本当に演技だけで片付けてしまっていいものなのだろうか。
明日、あの密室で、俺たちはまた「嘘の恋人」になる。
メンバーの知らない俺たちの時間が、日常を少しずつ、確実に侵食し始めていた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!