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〜佐野side〜
半年という月日は、長い暗闇のようでもあり、一瞬の奇跡のようでもあった。
ついに迎えてしまった、俺の休職期間の最終日。
明日から俺はまた、毎朝スーツを着て、あの喧騒の満ちたオフィスへと戻ることになる。
そしてこれまでのように、柔太朗の傍にずっと付きっきりでいてやることはできなくなる。
そのことへの不安が、俺の胸の奥を朝から小さくざわつかせていた。
「佐野さん、準備できたよ」
寝室から聞こえてきた柔太朗の声に、俺はリビングのソファから顔を上げた。
そこに立っていたあいつは、 一時期の、いつ消えてしまってもおかしくないような、痛々しい面影はもうどこにもなかった。
白い頬には健康的な赤みがすっかり戻り、その綺麗な瞳には、しっかりと前を見据える確かな光が宿っていた。
あの日の初めの一歩から、俺たちは本当に少しずつ、カメのような歩みで外の世界を広げてきた。
柔太朗はあの事件のあと、大学 をずっと休学していた。
けれど最近のあいつは、復学に向けて、ひとりで手続きや履修の準備を進められるまでに回復していた。
まずは大学に戻って、しっかりと卒業することを、二人の最初の目標にしようと決めたのだ。
「よし、じゃあ行こうか。……お休み中、最後のお散歩」
玄関のドアを開ける。
柔太朗は、もうあの頃のように、外の音や気配に身体を震わせることもなかった。
あいつは自らの足で、堂々と、光の差す外の世界へと踏み出した。
俺が会社に戻れば、日中は彼をひとりにすることになる。
そして柔太朗もまた、止まっていた大学生活が再び始まる。
だけど、今の柔太朗ならもう大丈夫だ。
俺が作った『安全な部屋』の中に閉じ込めておかなくても、あいつは自分の力で、この世界で生きていける強さを確かに取り戻した。
春の温かい風が、大通りをすり抜けて俺たちの前髪を優しく揺らす。
俺たちは並んで、ゆっくりと歩いた。
もう、あいつの身体を外の視線から隠す必要もない。
ただ隣に並んで、同じ世界の景色を見つめながら歩ける。
その日常が、今の俺には涙が出るほど嬉しかった。
「佐野さん。俺、まずは大学をちゃんと卒業するね。まだ人がたくさんいる講義は少し緊張するけど……でも、一歩ずつ頑張りたい。
……佐野さんは俺のスーパーヒーローだよ。俺をここまで連れ戻してくれたんだもん。
本当にありがとう」
緑の芽吹き始めた公園のベンチに腰掛けた時、柔太朗が前を向いたまま、静かに、だけど真っ直ぐな感謝の声を俺に向けた。
「スーパーヒーローか……。ははっ、かっけーじゃん。俺の方こそありがとな。
……柔太朗なら絶対に大丈夫だ。まずは卒業、だな」
俺はコートのポケットの中で、ギュッと拳を握りしめた。
本当は、最初に出会ったあの居酒屋の夜からお前のことが好きだったこと。
男を好きになったのなんて人生で初めてだけど、どうしようもないくらい愛おしいこと。
伝えたい本心は、数え切れないほど胸の奥で渦巻いていた…。
でも俺はやっぱり、この気持ちに一生蓋をしたまま、彼の『お兄ちゃん』であり続けることを選んだ。
柔太朗にとっての俺は、命の恩人であり、お兄ちゃんだから。
あいつの瞳に映る俺は、いつだって綺麗で、無害なヒーローでなければならない。
この穏やかで温かい関係を壊したくないし、何より、彼をこれ以上、男の熱で脅かしたくはなかった。
あいつがこうして笑って生きていてくれるなら、それだけで、俺の半年間には十分すぎるほどのお釣りがくる。
「あ、そうだ。柔太朗。大学を卒業した後のことなんだけどさ……これ、ちょっと見てみて」
俺は鞄から、自分の会社の「新卒採用」のパンフレットを取り出してあいつに手渡した。
「え……? 佐野さんの、会社……?」
「うん。同僚に聞いたらさ、丁度うちの会社、来年度の新卒でバックオフィス部門の採用枠を広げるらしくて。
もしよかったら、大学を卒業したら新卒でうちの会社に来てみたら? もちろん、ちゃんと面接とか試験はあるけどさ。でも俺の会社なら、何かあってもすぐに俺が駆けつけられるし……。
柔太朗がこれから大学を頑張るための、ひとつの目標になったらいいなと思って」
俺の言葉を聞いた瞬間、柔太朗の瞳がじわりと潤んだ。
あいつは手渡されたパンフレットを両手で大切そうに胸に抱きしめると、ふわりと、あの出会った夜のような、だけどあの時よりもずっと温かい、最高の微笑みを俺に向けた。
「……うん。俺、大学をしっかり卒業して、佐野さんの会社に入りたい。試験、絶対に合格してみせるから。……だって俺、これからもずっと佐野さんの自慢の弟でいたいもん」
柔太朗はそう言うと、ベンチの距離を少しだけ詰めて俺のすぐ隣に座り直した。
俺の手をあいつの細くて温かい手のひらで、ぎゅっと握りしめてくる。
それは恋人としての繋ぎ方ではなく、ただただ信頼を寄せるようなあどけない繋ぎ方だった。
「佐野さん。俺に“未来”をくれて、本当にありがとう。明日からはさ……俺も頑張る。
……だけどさ、お仕事終わったら、すぐに俺のところに帰ってきて?」
耳の奥に直接届く、澄んだ水のように透き通った声。
自分の恋心は、きっと一生伝わらない。
だけど、この繋いだ手のひらから伝わる彼からの絶対的な信頼が、俺にとっての最高の報酬だった。
俺の心臓は、守護者としての激しい鼓動を刻んでいた。
明日からはそれぞれの場所で頑張って、いつか同じ会社で、同じ未来を見つめながら生きていける。
不器用ですれ違ってたくさん傷つけ合って、だけど俺たちは確かに、あの暗い世界から眩しい光の差す場所へと、二人で歩き出していた。
それからの1年間の柔太朗の頑張りは、そばで見守る俺の胸が何度も熱くなるほどに目を見張るものがあった。
復学したばかりの頃は、大勢の学生がひしめく講義室の空気に足がすくみ、椅子の上で硬直してしまう日もあったようで。
けれど、俺が毎朝玄関で見送るたびに、あいつは俺の顔を見て小さく頷き、一歩ずつ確実に前を向いて歩いていった。
休んだ分の遅れを取り戻すための夜を徹しての猛勉強。
そしてあの春、公園で交わした俺との「未来の約束」を果たすための就職活動。
本当に、あいつは必死に頑張っていた。
だからこそ、俺だって自分の仕事をいくらでも頑張れたんだ。
そんなある日の晩、外から帰ってきた柔太朗が、まだ生地の硬い真新しいスーツに身を包み、内定通知書とうちの会社のパンフレットを俺の目の前に自慢げに突き出してきた。
その顔は、最高の笑顔で輝いていた。
「本当に、はやちゃんの会社に入っちゃった。有言実行。俺、すごいでしょ?」
胸を張って、少し得意げに笑う柔太朗。
その姿があまりにも愛おしくて、眩しくて、俺は喉の奥がツンと熱くなるのを必死に堪えながら、いつもののよう彼の柔らかい髪をくしゃくしゃに撫で回した。
「あぁ、まじですげぇよ。お前ならやると思ってた。おめでとう、柔太朗」
「はやちゃんありがと! これからは会社でも、はやちゃんが自慢できるくらいしっかり頑張る!」
本当に嬉しいし、誇らしかった。
そして、これからも柔太朗を一番近くで支えられることが嬉しかった。
実は最近、柔太朗が俺のことを「はやちゃん」と呼び始めたのだ。
それまではずっと「佐野さん」と呼んでいたが、「はやちゃんのほうが仲良さそうかなって思って……変、かな?」と、耳まで真っ赤にしながら、そう呼ばれた。
それからは家の中では、いつの間にか当たり前のように「はやちゃん」と呼ぶようになった。
2人の距離がほんの少し近づいたみたいで、俺の心臓はそれだけで勝手に弾んでしまう。
……そして入社式の朝。
「よし!じゃあ行こうか。……あ、今日から会社では『佐野さん』な。職場でその呼び方はさすがに恥ずいから!」
「分かってるよ、はやちゃん!」
悪戯っぽく片目をウインクさせて、柔太朗が先に玄関の扉を大きく開けた。
春のまばゆい陽光が、あいつの新しい門出を祝福するように、そのまっさらなスーツ姿を優しく包み込んでいく。
俺たちは並んで、かつては恐怖でしかなかった、あの賑やかな大通りへと歩き出した。
――これでいい。
こうして自分の足で力強く立ち上がり、俺と同じ会社で、同じ未来を見つめて誇らしげに笑ってくれている。
命がけで守り抜いたあいつが今、新しく美しい人生の一歩を踏み出そうとしている。
『お兄ちゃん』として、彼のこの輝かしい門出を一番近くで祝福できること以上に、贅沢な特等席なんて、他にないのだから。
to be continued……
もちぷよ
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#山中柔太郎
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コメント
2件

毎日更新ありがとうございます。 毎日毎日、本当に楽しみに読ませていただいています!! いよいよ、柔太朗が佐野さんの会社に!! 同じ会社で働くことを知った吉田さんの反応は!?とか、はやちゃん呼びになってるの知った吉田さんは!?とか、妄想が止まりません(笑)