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もちぷよ
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#山中柔太郎
65
〜佐野side〜
春を迎え、柔太朗は俺と同じ会社のバックオフィス部門へと入社した。
最初の数ヶ月、真新しいスーツに身を包んだ柔太朗は、与えられたデータ入力や書類整理の仕事を本当に真面目に、正確にこなしていた。
トラウマを少しずつ克服し、こうやって普通の生活を送れるようになったからといって、あの夜に負った心の傷がすべて消え去ったわけではない。
けれど、会社では上司と新入社員として適切な距離を保ち、あいつが自分の足で社会に立とうとする姿を近くから見守る日々は、俺にとって誇らしく、何よりもかけがえのない日常だった。
すべては順調だった。
あの夜の悪夢は、ゆっくりと過去のものになりつつある……、そう信じていた。
だけど、運命はどこまでも残酷だった。
「……え?」
その日の午前、全社共有の異動者一覧の画面をデスクで見つめていた俺は、血の気が一瞬で引いていくのを感じた。
画面に並ぶ顔写真と、そこに並んだ【遠藤】という文字。
間違うはずがない。
夜の闇の中でも俺の目に、そして網膜の奥に、復讐の炎とともに焼き付いて離れなかったあの卑劣な男の顔だ。
心臓が警報のようにバクバクと激しく脈打ち始める。
今すぐに捕まえて、この手で殺してやりたい。
そんな激しい怒りが脳内を支配しかけた、次の瞬間だった。
ガタッ。
少し離れたデスクから、小さな物音がした。
ハッとして視線をやると、書類を抱えた柔太朗が、廊下の方を見つめたまま、文字通り石のように硬直していた。
俺はその視線の先を追った。
そこにいたのは、廊下を他の社員と談笑しながら歩いていく遠藤の姿だった。
ほんの一瞬、ガラス越しに見えただけのその横顔に、柔太朗は完全にあの地獄の夜へと引き戻されていた。
柔太朗の手から、抱えていた大量の書類が床へとバラバラに崩れ落ちる。
あいつの白い肌からは血の気が完全に失われ、瞳は恐怖で激しく泳ぎ、身体はガタガタと震え出していた。
過呼吸の初期症状。
このままでは、ここでパニックを起こして倒れてしまう。
何より、あの男に柔太朗の存在を気づかれるわけにはいかない。
そこからの俺の行動に、一切の迷いはなかった。
俺はデスクを立ち上がると、一目散に柔太朗のもとへ駆け寄った。
周囲の社員たちの驚く視線も構わず、震える柔太朗の身体を正面から引き寄せ、俺の背中で廊下からの視線を完璧に遮るようにして彼をきつく、強く抱きしめた。
「はやちゃん…っ、あいつ、あいつが……っ」
「喋るな。何も見るな」
俺は柔太朗の耳元に唇を寄せ、周囲に聞こえないほどの低い声で囁いた。
「大丈夫だ。俺を見ろ。俺がここにいる。あんな奴、お前には一歩も近づけさせない。指一本触れさせない。……俺がお前を、絶対に守るから」
俺の胸に顔を埋めた柔太朗の細い身体を、壊れないように、力強く全身全霊でかばい続ける。
俺のスーツの裾を、柔太朗の指先がちぎれんばかりの力でギュッと握りしめてきた。
彼が今頼れるのは俺しかいないのだ。
周囲の社員たちが「どうしたんだ?」「山中くん、体調悪いのかな?」とザワつき始める。
俺は抱きしめたままの柔太朗の頭を優しく撫でながら、フロアの上司に向かって冷静に声を張った。
「すみません!山中、急に酷い貧血を起こしたみたいです。俺が医務室へ連れて行きます!」
そう言って俺は柔太朗の身体を支え、この場から連れ出した。
エレベーターに乗り込み扉が閉まった瞬間、柔太朗は俺の腕の中で糸が切れたように崩れ落ちた。
俺はそれをしっかりと抱きとめながら、心の底から激しい怒りの炎を燃やしていた。
ふざけんな。
やっと前を向いて歩き始めた柔太朗の未来を、これ以上汚されてたまるか。
柔太朗を守るためなら、会社での立場も、俺のキャリアも、そんなもん全部どうなったって構わない。
医務室のベッドで、薬の力でようやく浅い眠りについた柔太朗の寝顔を見つめながら、俺は決意を固めていた。
今すぐ殴り殺してやりたい。
だけどそれでは俺が犯罪者になって、また柔太朗をひとりにすることになる。
そんな底の浅い復讐はしない。
あいつがのうのうと暮らしてきたその『日常』と『立場』を、合法的に、かつ完璧に叩き潰してやるんだ。
俺は医務室のカーテンをそっと閉め、静まり返った廊下へ出ると、スマホを取り出して、あの連絡先をタップした。
《仁人。今夜、時間あるか。頼みたいことがある》
俺がそうメッセージを送ると、数秒で《ある。いつもの所に19時。》と短い返信が届いた。
仁人は頭の回転が早く、こういう時の情報収集や立ち回りにおいて、誰よりも頼りになる男だった。
あの日、仁人を傷つけてまで俺は柔太朗を守る道を選んだ。
あいつに合わせる顔なんてないことは分かっている。
だけど、今の俺にはプライドなんてどうでもよかった。
柔太朗の未来を脅かすあいつを消せるなら、俺は誰にだって頭を上げるし、誰にだって膝を折る。
その日の夜、俺は仕事終わりに、仁人と太智の二人と、いつもの居酒屋のカウンターで集まった。
いつもなら茶化してくる太智も、俺のただならぬ表情に静まり返っている。
「……で、頼みたいことって何だよ、勇斗」
隣で仁人が真っ直ぐに俺の目を見つめてきた。
俺は、グラスに手をつけることもせず、喉の奥から絞り出すような低い声で、すべての真実を打ち明けた。
「あの夜、柔太朗をあんな目に遭わせた犯人が現れた。今日、うちの本社に異動してきた営業の、遠藤って男だ。
当時は証拠が不十分であいつはのうのうと逃げ延びた。だけど、今度は絶対に逃がさない。
あいつを、社会的に完全に抹殺したい。あいつの過去の余罪、職場での不正、素行の悪さ……何でもいい。あいつを会社からも、この社会からも永久に追放するための『証拠』を、二人の力を借りて集めたいんだ」
俺は、二人に向かって深く、深く頭を下げた。
「頼む。俺の人生なんかどうなったっていい。あいつだけは、絶対に許せないんだ」
しばらくの沈黙。
サラリーマンたちの楽しげな喧騒が遠くで鳴り響く、静まり返った空間の中で、最初に動いたのは仁人だった。
仁人は、俺の下げた頭を優しくくしゃくしゃと撫で回した。
「……頭上げろよ勇斗。お前がそんな顔してんの一番見たくないわ」
「仁人……」
「手伝うよ。お前がそこまで本気なら、俺がいくらでも動いてやる。任せろ」
仁人の瞳には、俺を、そして柔太朗を守ろうとする、強い決意の光が宿っていた。
そして少しぬるくなったビールのグラスに指を走らせると、いつもの冷静な顔に戻って、実戦的な提案を俺に投げかけてきた。
「ただ、動く前にまずあいつの身の安全が最優先だろ。遠藤と同じフロアにこのまま置いておいたら、いつまたパニックを起こすか分からないし、向こうに柔太朗の存在を気付かれるのだって時間の問題だろ」
「それは……。でも、俺の会社の中じゃ、異動させるにも限界があって……」
「ならさ、俺のとこ来たら?……俺が面倒見るよ。お前んとこ辞めさせて俺たちの会社に転職させろ」
「え…?」
「うちの部署なら、あいつが今やってる仕事もそのまま活かせるし、それに遠藤のいるお前のとことは関わりないし、あの男が無駄に近づいてくることもないだろ。
俺の目の届くところに中途で迎え入れられるよう、うちの上層部に上手く掛け合ってやるから」
「……仁人、お前、そこまで……。本当にいいのか?」
「いいに決まってるだろ、アホ。お前が一人で全部背負い込めるわけない。
あいつの新しい職場での生活やメンタルは俺がしっかり見ててやる。だからお前は、会社にバレないように遠藤の身辺を洗うことだけに集中しろ」
仁人のその力強い言葉に、俺は喉の奥がツンと熱くなるのを必死に堪えた。
その横で、太智もまた、いつもの軽い調子を完全に消し去った、男らしい顔で深く頷いた。
「しゃあないなぁ。じんちゃんがそこまでやるって言うんなら、僕も全力でサポートしたるわ。
あんなクズ、五寸釘ぶち込んで、会社から叩き出してやろうや」
俺には、この最高に頼もしい、最強の幼馴染たちがついていたんだ。
一人で抱え込むことなんてなかった。
二人に話して本当に良かったと、心から思った。
「……ありがとう。まじで、ありがとう」
俺は視界が熱くなるのを堪えながら、二人と固く手を握りしめた。
to be continued……
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