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東京都港区元麻布。
各国の大使館が立ち並び、独特の国際色と閑静な高級感が同居する、この街の一角に、看板さえ出していない一軒の料亭がある。
『霞山(かざん)』。
戦前から続くこの数寄屋造りの建物は、歴代の総理大臣や財界のフィクサーたちが、歴史の裏側で密談を交わしてきた場所として、知る人ぞ知る「聖域」であった。
黒塗りの高い塀に囲まれた敷地内は、都心の喧騒を完全に遮断し、ただ木々のざわめきと水の音だけが支配する別世界だ。
この日、降りしきる晩秋の冷たい雨が庭の木々を濡らし、静寂をより一層深めていた。
濡れた石畳が外灯の明かりを鈍く反射し、手入れの行き届いた紅葉が雨に打たれて、血のように赤く浮かび上がっている。
離れの個室。
その濡れ縁から庭を眺める位置に、二人の人物が対峙していた。
上座に座っているのは、アメリカ合衆国中央情報局(CIA)長官、エレノア・バーンズ。
鉄の女の異名を持つ彼女は、出された繊細な懐石料理にはほとんど手を付けず、その冷徹な碧眼で向かいの男を見据えていた。
彼女の纏う空気は、料亭の和やかな雰囲気とは裏腹に、張り詰めた氷の刃のように鋭い。
対面に座るのは、内閣官房参事官、日下部。
彼はいつものように穏やかな、しかしどこか疲労の滲む微笑みを浮かべながら、手酌で冷酒を注いでいる。
その手つきは洗練されているが、胃のあたりを時折さする仕草が、彼が抱えるストレスの大きさを物語っていた。
部屋の隅には護衛の姿はない。
給仕の仲居さえも下がらせている。
この空間は、日下部が鞄から取り出し、床の間の隅に設置した『位相干渉装置(ジャマー)』によって、物理的にも電子的にも世界から完全に切り離された密室となっていた。
いかなる盗聴も、衛星からの監視も、この部屋の会話を拾うことはできない。
「……良い雨ですね、長官」
日下部が口火を切った。
世間話のような軽さだが、その瞳は笑っていない。
眼鏡の奥の光は、相手の心理を探るように揺らめいている。
「東京の雨は、ワシントンのそれよりも湿度が高い。
まるで、この国の政治のようにね」
「皮肉は結構よ、日下部さん」
エレノアは短く切り捨てた。
彼女の手元には、一切れも口をつけていない刺身の皿がある。
彼女の関心は、日本の食文化になど微塵もない。
「私がここに来た理由は、分かっているはずよ。
『ビーコン』の件、そして『スマートダスト』……日本政府が提供してくれた監視システムには感謝しているわ。
おかげで国内のテロリストを一網打尽にできた。
大統領も、大層ご満足よ」
「それは重畳です。
同盟国の安全は、すなわち日本の安全ですから」
「ええ。
でもね、私たちアメリカ人は強欲なの。
一度甘い蜜を吸えば、その源泉を知りたくなる」
エレノアは身を乗り出した。
テーブルの上に置かれた彼女の手が、拳を作っている。
「単刀直入に聞くわ。
貴方たちが隠している『本丸』はどこ?
監視システムも、医療用ナノマシンも、すべては『何か』の派生技術に過ぎない。
その根幹にあるテクノロジー……それを生み出す『マザーマシン』は、どこにあるの?」
彼女の問いは核心を突いていた。
CIAの分析官たちは馬鹿ではない。
日本の技術躍進が異常なスピードであること、そしてそれらが共通の基盤技術――高度なナノテクノロジー――に基づいていることを看破している。
そして、それほどの技術体系が、既存の大学や研究所から自然発生的に生まれるはずがないことも。
日下部は、ゆっくりと盃を置いた。
来るべき時が来た、という顔だった。
彼は懐から手巾を取り出し、口元を拭うと、静かな声で言った。
「……やはり、貴女には隠し通せませんか。
ええ、お察しの通りです。
我々には『源泉』があります」
日下部は鞄に手を伸ばした。
エレノアの視線が鋭くなる。
武器ではないと分かっていても、スパイの本能が警戒を解かない。
彼が取り出したのは、一枚の厚手の封筒だった。
封蝋が施された、最高機密文書を示す深紅の封筒。
「アメリカ政府にも、そろそろ日本の『ナノ工作機械』を開示する時が来ました」
日下部は、その封筒をテーブルの上を滑らせるようにして、エレノアの前に差し出した。
「現物は見せることが出来ませんが……写真ですが、どうぞ」
エレノアは一瞬ためらい、そして素早く封を切った。
中から出てきたのは、数枚の高解像度写真だった。
彼女の目が釘付けになった。
そこに写っていたのは、現代の工場にあるどの工作機械とも似ていない、異形のデバイスだった。
鈍い銀色に輝く金属の筐体。
複雑に絡み合うパイプとケーブル。
そして中心部には、青白く発光するコア――小型のリアクターのようなものが埋め込まれており、その周囲を微細なアームが無数に取り囲んでいる。
全体的なフォルムは幾何学的でありながら、どこか生物的な有機さを感じさせる。
背景は暗く処理されており、場所の特定は不可能だが、その機械が放つ圧倒的な存在感だけは、写真越しにも伝わってきた。
「これが……」
エレノアが息を呑む。
「これが、ナノプリンターね……?」
「ええ。
我々の間では『ナノ工作機械(Nano Fabricator)』と呼ばれています」
日下部は嘘をつかなかった。
名称に関しては。
写真は、工藤創一に頼んでテラ・ノヴァの組立機や化学プラント、そして研究所の設備を適当に組み合わせて撮影し、それっぽく加工したものだ。
だが、その「異様さ」は本物だ。
地球の技術体系とは異なる進化の系統樹にある機械だからだ。
「日本政府の保有する、ある天才によって設計された物です」
日下部は淀みなく説明を続けた。
脳裏には、作業着姿でカップラーメンを啜りながら、世界を揺るがす発明を次々と量産する工藤創一の顔が浮かんでいる。
彼を「天才」と呼ぶのは、ある意味で正確であり、ある意味で最大の皮肉だった。
「その天才の名は?」
「言えません。
彼の存在自体が、我が国のトップシークレット中のトップシークレットです。
彼は表舞台に出ることを嫌い、地下の研究所でひたすら研究に没頭しています。
……世俗の権力や金銭には興味を示さない、純粋な求道者ですよ」
これも嘘ではない。
創一は、有名になることを嫌がり、金よりも鉄板を欲しがる男だ。
「この機械……。
美しいわね。
でも、どこか空恐ろしい。
このリアクターのような部分、ここからエネルギーを供給して、原子を直接操作しているの?」
「ご慧眼です。
原子配列をプログラム通りに再構築し、ナノマシンを『印刷』する。
理論上は可能とされてきましたが、それを実用化した唯一の機械です」
日下部は写真を指差して、重要な事実を告げた。
「ですが、長官。
残念ながら、この機械には重大な制約があります」
「制約?」
「はい。
希少金属(レアメタル)とエネルギーの関係上、ワンオフ――世界に1台しかありません」
エレノアが顔を上げた。
「1台!?
日本ほどの工業国が、量産できないというの?」
「不可能です。
この機械自体の製造に、地球上の元素比率では説明がつかないほどの希少素材――特定の同位体や超高純度の結晶――が使われています。
さらに稼働には、小型の都市一つを賄えるほどの莫大な電力が必要です。
複製しようにも、材料もエネルギーも足りない。
偶然と天才のひらめきが生んだ、奇跡の1台なのです」
日下部は、もっともらしい顔で嘘を重ねた。
実際には、テラ・ノヴァに行けば組立機は何十台も並んでいる。
だが「1台しかない」と言っておけば、アメリカからの「売ってくれ」「貸してくれ」という要求を跳ね除ける口実になる。
「壊れたら代わりがないので動かせない」と言えばいいのだ。
「出力されるナノマシンも、一定の性能が保証されている物を、一定数出す機能があります。
ですが、生産能力には限界があります。
24時間フル稼働させても、抽出できるナノマシンの量は微々たるものです」
日下部は、以前渡した『医療用キット』の話に繋げた。
「以前、貴国にお渡しした『医療用キット』。
あれが100本足らずしかないと言った理由が、これでお分かりいただけるでしょう。
あのキットに含まれるナノマシンは、極めて複雑な構造をしています。
自己修復、DNA解析、組織再生……。
多機能であればあるほど、製造プロセスは指数関数的に難しくなる」
日下部は一度言葉を切り、冷めた茶を啜った。
「ここでハッキリと言わせて頂きますが、
この機械は決して『万能機械(打ち出の小槌)』ではありません」
彼は強調した。
過度な期待を持たせないために。
「医療用キットに使われる医療用ナノマシン――『MK1』と呼びましょうか――は生成に膨大な時間と、ナノレベルでの細かい精度が求められます。
歩留まりも悪い。
失敗すれば、ただの汚染された泥になります。
……量産は物理的に不可能でした」
エレノアは写真を見つめながら、悔しそうに唇を噛んだ。
1台しかない機械。
限られた生産能力。
それが真実なら、アメリカが望む「全軍への配備」や「国民への普及」は夢のまた夢だ。
「……そう。
それが貴方たちが情報を小出しにしていた理由なのね。
出し惜しみしていたわけじゃなく、本当に『無い』から」
「ええ。
我々としても歯痒い思いをしていました。
目の前に奇跡を起こす技術があるのに、それを世界中の苦しむ人々に届けられない。
技術者たちも、そのジレンマに苦しんでいました」
日下部は演技を続けた。
悲劇のヒロインのように、憂いを帯びた表情を作る。
「しかし……。
我々は発想を変えました」
「発想を?」
「はい。
『最高品質の万能薬』を作るのが難しいなら、機能を絞って構造を単純化した『ダウングレードした物』なら出来るのでは?
……そう考えたのです」
日下部は鞄から、もう一つのアイテムを取り出した。
それは以前のような銀色に輝くアタッシュケースではなく、実用的なプラスチックのハードケースだった。
ロックを外し、蓋を開ける。
そこには無骨なデザインのインジェクターが10本、整然と並んでいた。
中の液体は神秘的なエメラルドグリーンではない。
工業製品のような、無機質な灰色だ。
「そうして出来たのが、これです。
医療用ナノマシン量産タイプ――通称『バンドエイドMK2』です」
「バンドエイド……?
絆創膏のこと?」
「ええ。皮肉なコードネームでしょう?
ですが効果は折り紙付きです」
日下部は1本を取り出し、エレノアに見せた。
「これは『外傷治療』に特化したナノマシンです。
癌や病気を治す機能はありません。
若返りもしませんし、切断された手足が生えてくることもありません。
……ですが、いまある傷を塞ぐことに関しては、オリジナルの医療用キットに匹敵する速度と確実性を持っています」
彼は、以前、医療刑務所で行った実験のデータを提示した。
粉砕骨折が3分で完治する映像。
ただし、患者の絶叫シーンはカットし、治療前後の比較データだけを抽出した洗練されたプレゼン資料だ。
「これなら医療用キットほどの精度は必要ありません。
複雑なDNA書き換えプログラムを省略し、単純な『物理的接合』と『組織再生の触媒』機能だけに絞りました。
その結果……コストも安く、短時間で製造出来るようになりました」
日下部は自信たっぷりに宣言した。
「これこそが今後の主力製品です。
希少な『MK1』はVIP用として温存し、この『MK2』を現場レベルで運用する。
これなら……世に出して問題ない。そう思いませんか?」
エレノアは灰色のインジェクターを見つめた。
彼女の脳内で、軍事的な計算が高速で回転し始める。
外傷治療に特化。
つまり、戦場で最も必要とされる機能だ。
銃創、爆傷、骨折。
兵士が死ぬ原因の多くは、出血多量や搬送の遅れによるものだ。
もし現場で衛生兵がこれを一本打つだけで傷が塞がるなら……。
「……生存率が劇的に上がるわね」
彼女は呟いた。
「ええ。
モルヒネよりも確実に痛みを消し、縫合手術よりも早く傷を塞ぐ。
兵士は即座に戦線復帰できるか、あるいは自力で撤退が可能になります。
ロジスティクスの負担も激減するでしょう」
日下部は畳み掛けた。
「ぜひ、アメリカ軍で実証実験を進めてほしいのです」
「……実証実験?」
「はい。
日本には戦場がありません。
自衛隊の訓練事故程度では、サンプルデータが不足しています。
ですが貴国なら……世界中に『現場』をお持ちだ」
残酷な提案だ。
アメリカ兵が血を流す戦場を、実験場として利用させてくれと言っているのだ。
「この10本を差し上げます。
中東でも、アフリカでも、お好きな場所で使ってみてください。
そして、そのデータを我々にフィードバックしていただきたい。
その結果次第で……本格的な量産と、米軍への正式供給(ライン)を開きます」
エレノアは戦慄した。
日本は、アメリカ軍を「得意先」として、そして「実験台」として取り込もうとしている。
だが、その提案は、あまりにも魅力的すぎた。
兵士の命を救える。
軍事費を削減できる。
そして何より、世界最強の軍隊が、さらに不死身に近づく。
「……悪魔的な取引ね、日下部さん。
私たちの兵士を使って、製品テストをしろと言うのね」
「人聞きが悪い。
『人道支援』と『共同開発』ですよ。
助かる命があるなら、使うべきでしょう?」
日下部は微笑んだ。
その笑顔は、かつて海道を説得した時と同じ、冷徹な計算に基づいたものだった。
エレノアは長い沈黙の後、ケースに手を伸ばした。
灰色の液体が揺れる。
それは希望の色であり、同時に管理社会への第一歩の色でもあった。
「分かったわ。
受け取りましょう。
ペンタゴンの特殊作戦軍(SOCOM)に回して、極秘任務での使用を許可するわ。
データは全て、日本側に提供する」
「ありがとうございます。
良い結果を期待していますよ」
契約は成立した。
これでアメリカ軍は、日本のナノマシン技術なしでは成り立たなくなる。
弾薬や燃料と同じように、「日本の絆創膏」がなければ戦争ができなくなるのだ。
依存(アディクション)の構造が完成する。
エレノアはケースを閉じて立ち上がった。
そして去り際に、日下部を振り返った。
「一つだけ聞かせて」
「何でしょう?」
「この『量産型ナノマシン』……。
もし中国が欲しがったら、どうするの?
彼らもまた、喉から手が出るほど、これを欲しがるはずよ。
人権のない彼らなら、もっと大規模な実験も厭わないでしょうし」
日下部は、ゆっくりと首を横に振った。
その目には、同盟国に対する明確なメッセージ――線引き――が宿っていた。
「差し上げませんよ」
「……どうして?
儲かるでしょうに」
「金の問題ではありません。
これは『力』です。
死なない兵士、治る傷。
それは核兵器と同等の、戦略的バランスを変える力です」
日下部は、料亭の窓の外、雨に濡れる闇を見つめた。
「この技術が拡散すれば、世界は混沌とします。
テロリストが使えば、自爆テロの失敗すら、リトライ可能になるかもしれない。
独裁者が使えば、拷問の恐怖が増すだけかもしれない。
……誰にでも渡していいオモチャではないのです」
彼はエレノアに向き直り、決然と言い放った。
「ですが、持つべき国は『選ばれた国』である必要があります」
選ばれた国。
それはすなわち、日本と、その同盟国であるアメリカのことだ。
民主主義と法治、そして(建前上は)人権を尊重する国々。
そして何より、日本と共に歩むことを選んだパートナー。
「我々は選びました。
アメリカ合衆国を、この技術の共有者として。
ですから貴国もまた、我々を選び続けてください。
……中国ではなく、日本を」
それは忠誠の誓いであり、同時に強烈な縛りでもあった。
「我々を裏切れば、この供給は止まるぞ」という脅し。
「中国に浮気をするな」という釘。
エレノアは、その言葉の重みを噛み締めた。
日本は、もはや守られるだけの小国ではない。
自らの技術と資源を武器に、対等な――いや、ある分野においては優位な立場で――アメリカと渡り合おうとしている。
「……分かったわ。
『選ばれた国』としての義務、果たさせてもらうわ。
中国の工作員が、この灰色の液体に触れることがないよう、CIAも全力を尽くす」
「頼もしい限りです」
エレノアはケースを抱え、部屋を出て行った。
雨音だけが残る部屋で、日下部は一人、安堵の息を漏らした。
これでまた一つ、防壁が築かれた。
アメリカ軍という最強の顧客(ユーザー)を取り込んだことで、日本のナノマシン技術は不可侵の聖域となる。
工藤創一がテラ・ノヴァで遊んでいる間に、地球側では鉄壁の要塞が完成しつつある。
「……さて。
次は中国への言い訳ですね」
日下部は胃薬を取り出した。
アメリカに渡したことがバレれば、中国は激怒するだろう。
その怒りをどう逸らし、どう宥め、そしてどうやって「寸止め」の状態を維持するか。
彼の胃痛の旅は、まだまだ終わりそうになかった。
雨は降り続いている。
その雨粒の一つ一つが、世界中に広がるナノマシンのように、東京の街を静かに覆い尽くしていた。
選ばれた者だけが手にできる傘の下で、日本という国は、したたかに生き残りを図っていた。