テラーノベル
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第一章 最初の電話
メバルちゃん――といっても魚の話ではない。
この倉庫でそう呼ばれているのは、受付机の前に立ち、来場者の列を睨みつけている女のことだ。本人の前でその呼び方をすると、たいていの場合、次の瞬間には誰かが投げ飛ばされる。
「カキ。そこから手をどけて」
メバルが低い声で言った。
「何のことかな」
カキは照明操作卓の前で、両手を背中に隠している。
「ミステーも」
「僕は何も触っていない」
「二人とも、顔が怪しい」
メバルは操作卓の脇に回り込んだ。そこには、普段使われていない赤いスイッチがある。その上に、カキの指紋がべったり付いていた。
「押した?」
「押してない。触っただけ」
「それを押したって言うの」
メバルがカキの耳を引っ張る。
「痛い痛い! 今日の僕は、ただ会場を盛り上げようと――」
「盛り上げなくていいから、壊さないで」
「ミステーも一緒にやろうと言った」
「裏切るなよ!」
「事実を言っただけ」
少し離れた場所で、マサカゲが進行表を確認していた。
「開場まであと二十分。カキとミステーは機材から離れろ。アオノ、ステージ右側の配線は確認したか?」
「今やってる」
アオノは床に膝をつき、複雑な配線を一本ずつ確認している。工具箱の中には、用途のよくわからない金具や小さな機械が詰め込まれていた。
「このケーブル、前より劣化してる。交換したほうがいいかも」
「ライブ前に言うなよ」
カキが顔をしかめる。
「ライブ前だから言ってる」
アオノは真面目に答えた。
マサカゲが時計を見る。
「交換しろ。安全が最優先だ」
「了解」
その言葉に、ステージの奥からドラムの音が重なった。
一定のテンポ。
強く、乱れのない音。
K-Tがひとりでドラムを叩いていた。
K-Tは演奏しながらも、客席の出入口、照明の角度、ステージ脇の機材、避難経路まで確認している。ドラムを叩いているというより、会場全体を監視しているようだった。
メバルは受付の机を離れ、ステージへ近づいた。
「Kさん」
K-Tは演奏を止めた。
「どうした」
「今日、変な感じがしない?」
「変な感じ?」
「空気が重い」
K-Tは倉庫の天井を見上げた。
「外の風が強い。照明の固定と、裏口の鍵を確認してくる」
「そういうところよ」
「何が?」
「何か起きる前提で動くところ」
「何も起きないように動いている」
「それで、何か起きたら自分が一番先に飛び込む」
K-Tは少しだけ笑った。
「誰かが危険なら、そうする」
「だから、そこを直してって言ってるの」
「直せる性格ではないな」
「開き直らないで」
K-Tの特殊なガラケーが鳴った。
いつもの着信音ではなかった。
低い音が三回。
倉庫の中にいた全員が、反射的にそちらを見た。
K-Tは携帯を取り出した。
画面に表示されているのは電話番号ではない。
――X
「誰?」
メバルが尋ねる。
「知らない」
「なら、出ないで」
K-Tは画面を見つめたまま、通話ボタンを押した。
『よう』
電話の向こうから聞こえた声は、K-Tによく似ていた。
だが、同じ声ではない。
もっと低く、疲れていて、長い時間を生き延びた人間のような響きがあった。
K-Tの表情が変わる。
『聞こえてるか、K-Takasaka』
その名前を聞いた瞬間、K-Tは黙り込んだ。
メバルは彼の横顔を見つめた。
「誰なの?」
K-Tは手を上げ、彼女を制した。
電話の向こうの声は続けた。
『今日のライブは、予定通り始めろ』
「何を知っている」
『午後七時十四分。最初の曲が終わった直後、ステージ右側の照明が落ちる』
K-Tの目が、天井の照明へ向く。
そこには、細長い照明装置が吊り下がっていた。
『落ちた照明は、前から三列目にいる女の子へ向かって倒れる。白いリボンをつけた子だ』
「……誰だ」
『お前はその子を助けるために走る』
電話の向こうで、男が小さく息を吐いた。
『午後七時十五分。照明の固定金具が外れる。鉄の先端が、お前の胸を貫く』
カキの顔から笑みが消えた。
ミステーも、珍しく何も言わない。
『金属は胸を通り抜ける。赤い液体が、衣服の前と背中を染める。お前は二回、息を吸う』
「やめろ」
K-Tの声が低くなる。
『一回目は痛みで。二回目は、まだ自分が生きていると確認するために』
「やめろ!」
今度はメバルが叫んだ。
『メバルが、お前の名前を呼ぶ』
その呼び方に、メバルは凍りついた。
自分のことを、電話の向こうの男が呼んだ。
『カキは何もできずに立ち尽くす。ミステーは泣く。マサカゲは客を避難させる。アオノは電源を切ろうとする』
「何者なの」
K-Tが聞いた。
『お前が死んだ後に残るものだ』
「意味がわからない」
『そのうちわかる』
男の声が、わずかに笑った。
『これでわかっただろ? 未来は変えられねえんだ』
通話が切れた。
倉庫の中に、風が吹き込んだ。
誰も、すぐには話せなかった。
カキが恐る恐る口を開く。
「今の、Kさんの知り合い?」
「違う」
「でも、声が似てた」
「似ているだけだ」
K-Tは携帯を閉じた。
メバルは彼の前に立つ。
「ライブは中止」
「駄目だ」
「駄目じゃない。電話の通りになるかもしれないなら、客を入れなければいい」
「電話の内容が本当だと決まったわけじゃない」
「嘘だとも決まってない」
「だから確認する」
「確認するために、あんたが死ぬの?」
K-Tは沈黙した。
メバルは、その沈黙が答えのように思えた。
「Kさん」
「俺は、誰かが危険なら助ける」
「それであんたが死んだら、誰も助けたことにならない!」
「それでも、目の前で誰かが死ぬのを見ているよりはいい」
K-Tの声は静かだった。
その静けさが、メバルには腹立たしかった。
まるで自分の死を、すでに受け入れているように聞こえたからだ。
午後七時。
ライブが始まった。
客席には多くの人が集まっていた。
制服姿の学生、仕事帰りの若者、CREATIVE BASEの常連客。その中に、白いリボンをつけた少女がいる。
前から三列目。
ステージ右側。
電話の予言と同じ場所だった。
メバルは受付から客席を見つめ、何度も少女の位置を確認した。
K-Tはドラムに座っている。
アオノのギターが鳴り、マサカゲのベースが続く。メバルの歌声に、カキとミステーが音程の外れた声を重ねた。
「二人とも、歌詞を見て!」
演奏中だというのに、メバルが怒鳴る。
客席から笑いが起きた。
カキは調子に乗り、さらに大きな声で歌った。
ミステーも負けじと声を張り上げる。
その瞬間、K-Tが天井を見た。
照明が揺れていた。
わずかに。
だが、確かに。
固定金具のひとつが、外れかけている。
K-Tは演奏を続けながら、右側の照明と客席を見比べた。
白いリボンの少女が、ステージを見上げている。
照明が、もう一度大きく揺れた。
K-Tはドラムスティックを投げた。
「Kさん!」
メバルが叫ぶ。
照明装置が落ちた。
金属が裂ける音。
悲鳴。
K-Tはステージから飛び降り、白いリボンの少女へ向かって走った。
少女は恐怖で動けない。
K-Tは彼女の肩をつかみ、床へ押し倒した。
照明装置が、二人のすぐ横へ落ちる。
だが、外れた金属部品の一部が、倒れた照明の反動で跳ね上がった。
鋭い鉄の棒が、K-Tの胸へ突き刺さった。
「……っ」
音にならない声が漏れる。
鉄の先端は胸を貫き、背中から突き出した。
白いシャツの中央が、急速に赤く染まっていく。
赤い液体が傷口から流れ出し、腹部を伝い、床へ落ちた。最初は数滴だったものが、すぐに細い流れになり、K-Tの膝元に赤い水たまりを作っていく。
「Kさん!」
メバルが駆け寄った。
K-Tは少女をかばうように覆いかぶさったまま、動かなかった。
「Kさん、聞こえる?」
「……少女は」
声はかすれていた。
「無事。あんたが助けた」
「なら……いい」
「よくない!」
メバルは鉄の棒に手を伸ばした。
K-Tが彼女の手首をつかむ。
「抜くな」
「でも、血が!」
「抜いたら、もっと出る」
その言葉の直後、K-Tの口から赤い液体がこぼれた。
メバルの指が震える。
「誰か、救急車!」
マサカゲが客を出口へ誘導しながら叫んだ。
「全員、落ち着け! 走るな! 押すな!」
アオノは照明の電源を切り、カキとミステーは少女を安全な場所へ連れていく。
だが、メバルには周囲の音が遠くなっていた。
K-Tの呼吸だけが聞こえる。
浅く、苦しそうな呼吸。
一度吸う。
赤い液体が、唇からこぼれる。
二度目の呼吸は、なかなか始まらなかった。
「Kさん」
「……メバル」
「何?」
「客は……全員、外へ出たか」
「そんなこと、今はどうでもいい!」
「大事だ」
「大事じゃない! あんたのほうが大事!」
K-Tの目が、わずかに開いた。
「……そうか」
「そうよ! だから死なないで!」
「努力する」
「努力じゃなくて、約束して!」
K-Tの指先から力が抜けていく。
胸から流れ出た赤い液体が、メバルの手を濡らした。床に広がった血が、彼女の膝まで迫ってくる。
「Kさん!」
K-Tは白いリボンの少女を見た。
少女は泣きながら、何度も頭を下げている。
「無事で……よかった」
それが、最後の言葉だった。
K-Tの身体から、完全に力が抜けた。
メバルは彼の胸に耳を当てる。
鼓動は、一度だけ大きく鳴った。
そして、止まった。
「……嘘」
メバルはK-Tの服を握りしめた。
赤く染まった指が、動かない身体に食い込む。
「起きてよ」
返事はない。
「Kさん、起きて。まだライブの途中でしょ」
返事はない。
遠くで、サイレンが聞こえ始めた。
メバルの手の中で、K-Tのガラケーが鳴った。
低い着信音が三回。
画面には、また「X」と表示されている。
メバルは震える手で通話ボタンを押した。
『聞いただろ?』
電話の向こうの声は、K-Tと同じ声だった。
『未来は変えられねえんだ』
メバルは、血に濡れたK-Tの手を握りしめた。
「あんたが生きているってことは、未来は変わるんだ!」
『……何?』
「K-Tが死んだ未来があるなら、K-Tが生きている未来もある!」
『ねえよ』
「ある!」
メバルは叫んだ。
「絶対にある! 私は何度でも探す! 何度でも、あんたを死なせない!」
電話の向こうで、Xが低く笑った。
『なら、次の未来を見せてやる』
ノイズが走る。
『午後八時十二分。警察用バスのブレーキが外れる』
メバルの顔がこわばる。
『マサカゲが潰される。アオノは右腕を失う。カキとミステーは燃える倉庫に取り残される』
「やめて……」
『そして、お前はまたK-Tの死体を抱える』
「やめろ!」
『これでわかっただろ? 未来は変えられねえんだ』
通話が切れた。
メバルは、最後までK-Tの手を離さなかった。
その手は、もう冷たくなっている。
床に広がった赤い液体が、彼女の足元を覆う。
やがて、倉庫の照明が一度だけ明滅した。
世界が白く染まる。
メバルが最後に見たのは、血に濡れたK-Tの顔だった。
そして、すべてが暗転した。
コメント
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うわっ…読み終わった直後、ちょっと息が止まったわ。 最初の和やかなバンドの空気から、電話一本で一気に不穏な流れになる展開がすごくて、映像が頭に浮かんだ。 K-Tの「目の前で誰かが死ぬのを見ているよりはいい」っていう台詞、あれがもう全部を物語ってるよね。で、実際にその通りの結果になるのが辛すぎる…。 でも、メバルが最後に「未来は変わる!」って叫んだところ、あれで救われた気がする。まだ終わったわけじゃない、って思わせてくれる終わり方、すごく良かったです🔥 続きが気になりすぎる〜!
K-Takasaka
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