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時間が経過すれば、人の手が入っていない森の風景は変わる。しかし、子供の頃から森を駆け回って過ごしていた自分にとって、変化を見抜くのは容易かった。目印にしていた大きな欅は、変わらず森の中心に鎮座し、川の阿に近い場所には針槐が寥々とした風に葉を靡かせ、さわさわと音を立てている。ここで修行していた時期は針槐の開花時期だったため、白く小さな花が甘い香りと共に葉を覆いつくしていたが、今は季節ではないせいか、代わりに豆のような実がそこかしこに見られる。足元に感じる土の感触と匂いに微かな懐古を感じながら覚えのある道を進むと、慣れた背が自分を出迎えた。汚れた白い道着と、腰かけた巨大な丸太。一時期は立場上スーツを着用していたが、やはりこちらの方が自然な気がする。 無精髭を蓄えた顔が肩越しに覗くと、クラピカは小さく頭を擡げた。頭を上げると、男の目はふいと向こうを向く。僅かに手招きの素振りを見せた右手を見て、手土産を要求されていると悟り、クラピカは酒の入った手提げ袋を手渡した。
「座れ」と命じられて、彼の正面にある丸太に腰かける。途端に、男の目にオーラが宿った。自分に念を教えているときから、彼はよくこんな目をしていた。オーラの動きや変化で、体調や向いている修行法、性格などを見るらしい。ちなみに「お前は常識人に見えるが、実際は頑固で直線的で偏屈だな」と初対面で言われた。それに対して「あなたは実力は確かだが、無礼で疎漏で私曲な人物のようだな」と返したら、なぜか気に入られて弟子に入り、今に至る。
オーラを宿した目でクラピカの全身をくまなく眺めた男―――イズナビは、一度目を閉じて軽く嘆息した。
「……調子は?」
「特段不調ということはない。医者も安定していると」
「念は?」
「問題なく使える―――が、絶対時間は医者に固く止められているからな。使える能力は限定的だが」
クラピカが右手に鎖を具現化すると、イズナビは僅かに首を傾げた。
「使おうと思えば使えるってことか?」
「ああ」
「ここで使えと言ったら?」
「遠慮する。バイタルチェックですぐにバレる。バレると後々面倒だ」
個人的には使ったところで大きな問題はないと考えている。だが、自分の「主治医」を自称する男は、緋の眼を利用して念を使うことを快く思っていない。彼に絶対時間を禁じられてから一度使ったことがあったが、淡々と筆誅を加えられた。しかも医学的な面から論理的に諭されるため、まさに頂門の一針。以前は感情に任せて言葉を発するばかりの彼に知識が付いたことによって、こんなにも面倒になるのかと感じた。
鎖を消して右手を膝の上に戻すと、イズナビが考えるように顎を撫でた。
「ってことは、戦闘能力も落ちてるな」
「ああ。だがそれは念というよりも、一線を退いたことの方が大きいだろう。マフィアだ暗黒大陸だと、戦が日常だった日々と比べて、今は春風駘蕩が常だからな」
ハンターになり、マフィアの一員となってからは角逐の毎日だった。日付が変われば戦端が開かれるのは常で、解決しないうちにまた次の戦がやってくる。挙句、未知の大陸に向かう船に乗せられて中原に鹿を追う役に巻き込まれるなど、一族の森から旅立った頃の自分が知ったらどう思うだろうか。それすら外での冒険だと言ってのけるか、それとも馬鹿なことをしていると睨むだろうか。
イズナビが凝を解いて「そうか」と呟いた。
「俺は馬鹿弟子のおかげでやることが増えたってのに、当の馬鹿弟子は何事もなく穏やかに暮らしています、と」
「だから、様子を見る必要などないと言っている」
「あのな。俺は一応お前の師匠で、心源流の師範代だぞ。念を教える立場にいる以上、念の有用性も危険性も、把握しとかなきゃならないんだよ。特にお前は『念の悪い使い方』の良い見本だ。お前の経過を見て、お前みたいな使い方をしたら碌なことにならない、止めておけって、後進にしっかり教えていかないとな」
念は修練を積めば誰でも習得できるし、知らずに使っている者もいる。だが念を使った活動を前提としているハンター協会としては、なるべく有益で健全な念の使い方をしてほしいと望んでいるのだろう。心源流の教えがそれを証明している。少なくとも命や寿命を賭けた自分の使い方は、ハンターとして健全とは言えない。
自分も、同じような使い方をする人間が今後現れないことを願っている。それを考えると「定期的に経過を診させろ。寿命って制約と誓約の結果を知りたい」と言うイズナビの言葉には一理あると思った。そのため必要ないと言いつつも、3ヶ月に1度は手土産である酒を片手に足を運んでいる。
イズナビが酒の蓋を開け、手酌で盃に注いだ。
「ま、お前のせいでしばらく弟子を取る気は失せたがな。こんなに出来が良いのに、こんなに師を失望させる弟子なんか、そうそういないだろうよ」
「褒めているのか、貶しているのか」
「貶してるに決まってるだろ」
イズナビが盃を一気に煽った。「教えたのはお前だろう」と嘆息すると、空になった盃をずいとこちらに向けてくる。
「ああ、そうだな。お前が師の言うことを全然聞かない可愛くない弟子だって知ってて、教えたのは俺だ。だがお前がこんなに、魯鈍で、短慮で、盲目的で、心得違いで、頑陋至愚で、阿爺下頷だと知ってたら教えなかった」
「散々な言いようだな」
「それだけのことをしてるんだよ、お前は。自覚しろ」
言って、盃に2杯目を注ぐ。それを見てクラピカは、再度の溜息を吐いた。
「……魯鈍で、短慮で、盲目的で、心得違いで、頑陋至愚で、阿爺下頷な弟子のことなど、放っておけば良いだろう。出来が良くて有望な弟子を取って、偉大なハンターにするのが、本来の師匠の仕事だと思うが」
「これでも世話焼きなんでな。どんなにふざけた弟子でも見捨てる気は起きない。教えた責任は取る」
「私は、後悔していない。だから、師匠が責任を感じる必要はない」
「別にお前のために責任を取るわけじゃない。俺の心の平穏のためだ」
自分のため、と言われてしまえば、二の句を告げられない。しかもおそらく本心だ。弟子に対して師らしい心遣いなどしないくせに、師らしい行動はするのだから、対応に困る。
ひとまず、ここでの用事は済んだ。
「……そろそろ行く。次の用事がある」
「そうか。まぁ、元気でやれよ。無茶はするな―――ってお前に言っても無駄だと思うが」
立ち上がって服に付いた土埃を払う自分を、イズナビが見上げている。
「次、どこに行くんだ?」
「セコ地方のベルデで待ち合わせをしている」
「何しに行くんだ?」
師を見ると目が合った。その視線を、南に投げる。そこには目印にしていた欅の巨木。さらに向こうには、筋雲の浮かんだ天際を感じさせない秋の空が広がっている。深い青は、海辺で育った純粋な友人を、筋雲は件の友人と行動を共にしていた別の友人の髪を思い出させた。
彼らと会うのは久しぶりだ。以前会ったときより背が伸びて、大人っぽくなっているだろうか。
姿を想像して、クラピカはくすりと口元を緩めた。
「友との約束を果たしに行く」