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「こんなところにいたら風邪をひいちゃいますよ」
人は海底では生きられないらしい。酸素がないからだ。すぐに肺に水が入り、浮き上がれなくなる。
人は宇宙では生きられないらしい。酸素がないからだ。宇宙飛行士が持っているのは夢でも希望でもなく、酸素だ。
夜鷹純は氷上でしか生きられなかった。そこにしか酸素はなかった。だからプロを辞めた夜鷹は陸上で呼吸することにすら苦しんだ。このまま死ぬのだと、少しでも早く死ねればいいとタバコを吸った。肺を汚し吐き出すことができても呼吸は上手くできないまま。
誰も夜鷹を理解しない。誰も夜鷹の影しか踏めない。虚しさしかない氷上を降りた先にあったのは、氷の上とは異なる種類の地獄。
「寒くありませんか?」
どこにも行き場なんてなく。肩に雪が積もるのも気に留めずにベンチに座り空を見上げていたあの日、突然現れた小さな光。
たった一つしかない傘を当たり前のように差し出したお人よし。
そのマッチ棒のような小さな灯火が、今の夜鷹純を生かしている。
理凰でこの世で一番嫌いなものは、ゴキブリと夜鷹純である。
そして理凰は夜鷹が嫌いでも、夜鷹は理凰を嫌わない。嫌う価値もないからだ。
人間離れした男の戦歴は確かに日本のフィギュアスケート界を牽引した。それは父である元銀メダリスト、鴗鳥慎一郎でさえも達成し得なかった偉業であり、あの男にのみ与えられたギフテッドの証明だ。誰もが憧れ、目指し、そして絶対にあの男のようにはなれないのだと思い知る。だからこそ、理凰は夜鷹純が嫌いだった。最初は憧れなんてものが幼い自分にもあったかもしれない。が、そんなものスムージーよりも粉々にミキサーで砕けきった。
男子のフィギュアスケート選手の少なさは、女子と比ぶべくもない。ことジュニアに至っては地区によっては定員割れで勝ち上がれることすらあるほどだ。だから理凰にとっては他の何でもないフィギュアスケートに触れた、それだけで大切な仲間だ。
―――その男のコーチが夜鷹純でさえなければ、きっとそう思えていた。
「え、今日来てるのその人?」
友人である総太は、ゲームをする手を止めない。
「きてるよーさっき名前あったからね。というか、うちのスケートリンクで一緒に滑ってるんだ。僕とは練習時間が被らないからあまり話したことないけど良い人だよ。名字読めないけど」
「都市伝説じゃなかったんだ……」
―――明浦路司。
先ほどSPを滑った者の中に例の男はいたらしい。
ある日突然天才夜鷹純の生徒になったという、『持っていない』男。
どんなスポーツも幼い頃から長く続けている人間の方が結果を出しやすく、経験というアドバンテージは大きい。ことスケートに至っては、年齢はスケートをする資格でもある。
フィギュアスケートは跳ぶことを絶対とされている競技だ。しかし飛ぶための羽は年齢と共に毟り取られる。天使でいられるのはほんの僅かな時間のみで、出遅れてしまえば二度と追いつけない。努力や時間では絶対に解決できない断絶が存在するスポーツ、それがフィギュアスケートだ。
たった5歳。それが世界で戦う選手になれる人間たちのボーダーだ。10歳ですら遅すぎる。そして多くの選手が大学生卒業の年には引退する。選手でいられる時間は大人になりきるまでの瞬きの間。モラトリアム期間が終わってしまえば、その翼は完全に抜け落ちる。余程の才覚がなければ小学生からオリンピックを志したとしても戦場に上がれないほど年齢が重視される、ある種残酷すぎる競技だ。
明浦路司という選手がスケートを始めたのは20歳のころ。14歳で初めて氷の上を歩き、誰にも師事を受けず独学で6年間滑っていたという真偽の怪しい話まで聞く。
そして、なによりも噂される要因となったのは彼の後ろにいる人物故だ。
20歳で選手を引退した天才・夜鷹純は、20歳からスケートを始めた男の指導者になったらしい。
スケート業界は常人が思うよりもずっと狭い世界だ。幼い頃から顔見知りの選手がほとんどで、新規参入の者は他業界に比べて極端に少ない。20歳を超えた見慣れない男がバッジテストを受けているという噂は、理凰の耳にも届いていた。
プロを目指さない人であっても、2級までなら受かる人間は多い。だけどその先はプロを目指すものへの条件が課せられる。2回転ジャンプだけじゃない、5級を超えるということは第一線で戦えるスケート選手であることを証明するということだ。お遊びや記念では絶対に届かない領域であり、7級に至っては全日本選手権の出場資格とされている。実際の大会と同じくSPとFPの演技が採点される試験内容は、本物と偽物のふるい分けだ。そうして残った砂金の中でもとびきり大きな金塊の如き選手のみがオリンピックを夢見る資格を与えられる。
誰もがその限られた椅子を奪い合い、日本の代表を目指す子供たちの中には中学生に上がる前に7級を取る人もいる。それほどに身体と技量の最高到達点が若いことも珍しくなく、天使の羽が似合う無垢で幼い者が結果を出しやすい。フィギュアスケートは残酷な氷の世界だ。
「理凰くんは信じてなかったんだ?」
「親父たちが話してるのは聞いたけど、それも噂ってレベルだったし。だってたった2年で6級に受かるってだけでも嘘っぽいのに、成人してる大人だよ?いい歳した大人がそんな馬鹿みたいなことをしてるなんて思わないじゃんか」
理凰は総太と同じくゲームを続けながら自嘲を込めて笑った。
「意味なんてないんだから早く辞めればいいのに」
それはきっと、俺にも言えることだけど。鬱屈とした思いは心中から飛び出ることもなく誰も知る者はいない。銀メダリスト鴗鳥慎一郎の息子でありながら、メダルを狙えるほどの才能のないくせに今日もこうしてスケートを続けている。辞めるほどの理由も、辞めないほどの才能もなく、どこまでも中途半端なままで。
GAME OVER
操作していたキャラが死に、黒い画面に白で浮かんだ敗北の文字。レベル上げが足りず、ボスに敗北した。現実なんてこんなもの。通信プレイをしている総太はさすがというか、器用に動き回っており体力ゲージもまだ緑色。しばらくかかるだろう。操作していたゲーム機を触っていたソファーの上に放置して立ち上がる。
「総太くん、俺ちょっと飲み物買ってくるね」
「言ってらっしゃーい」
ゲームから視線を上げないまま見送られる。頑張って俺の分まで世界を救ってね。
理凰は財布代わりのスマホを片手に会場を歩く。自分より小さな子供も、年上の人もいる。その誰もが表彰台を競い合うライバルたちで、自分よりも下手な子の方が多い。父である鴗鳥慎一郎の名を汚すつもりはないし、それぐらいは滑れる自負もある。ただ、頂に届くことはきっとない。
この中に「本物」がどれだけいるのだろう。努力が全て報われて、スケートの神様に愛される、世界で一番嫌いなあの男と同じような人間が。
理凰の視線は気づけば自分の足先だけを見つめていた。
氷の上を滑るスケート選手の武器。この足が壊れるまで、戦い続けなくてはならない。いや、足が折れても鴗鳥慎一郎は戦い続けた。ならそれすらも辞める理由にはなり得ない。童話の中、足を切り落とされるまで踊ることをやめられなかった呪いの赤い靴の少女。歩くと激痛の走る足を与えられた人魚姫と同じ作者によって綴られた、死ぬまで踊る呪いをかけられたその赤い靴にもブレードがついていたのだろうか。
眼鏡をかけていても足元しかみない狭窄した視野では周囲など観れるはずもなく。曲がり角であることすら認識していなかった理凰は、何かにぶつかり弾き飛ばされた。イメージで言うと柔らかい壁。跳ね返された弾力は柔らかく固い。どっちなんだよと自分でも思うが、そうとしか表現できないのだから仕方ない。押し返され、思わずその場に尻餅をついた。視界がやけにぼやける。あぁ、眼鏡がないのか。
「ッごめん!大丈夫!?怪我はっ体とか痛めてない!?」
「眼鏡が落ちただけなので大丈夫です」
まだ若い大人の声、体格からして男。
こんな場所にいるのだから保護者か、もしくはコーチか。しゃがみ込んだその男が大慌てでこちらの体を触り無事を確かめる。人に触られるのは好きではないが、その手が普通の人よりも暖かかったせいか、手を振り払うほどの不快感は湧いてこない。
「メガネに傷も……うん、なさそうだね。本当にごめんね」
「いえ、前を見てなかったのは俺の方なので……」
男はわざわざ眼鏡を手ずから理凰にかけた。輪郭を取り戻した視界の先にいたのは、子犬のように眉を下げた若い男。
何度も謝罪を繰り返すものだから、なんだが捨て犬のようで可哀想になる。本当に大丈夫だと告げれば、相手は肩を撫で下ろした。表情がころころとよく変わる、悪く言えば落ち着きのない人だ。
天真爛漫という言葉はこの人のためにあるのかもしれない。
「えっ、理凰さんってあの鴗鳥先生の息子さんなの!?」
ちょうど飲み物を買いに行く途中だったと言う男と流れでそのまま近くの自販機に来ていた。
理凰は自分の名前の価値を知っている。スケートをやっているものであれば、自分の名を知らぬものはいない。正確に言えば自分の名字を、だが。
「一人みたいだけど……親御さんはどちらに?」
「あっちで他の選手のスケートのバッジテストを見てます」
「へぇー!スケートをやってる人なの?」
「鴗鳥慎一郎です」
「そにどりさんかぁ!かっこいい名字だ、ね……」
これ、迷子だと思われてないか?男は理凰という名前にはなんの反応も示さなかった。理凰がフルネームを名乗ると、自販機に小銭を投下する手を止めぎゅるんと首を動かしこちらを観た。
そしてあんぐりと司と名乗った男は間抜けに口を開けたのだった。
「そっか。理凰くんもバッジテストを受けにきたんだ。すごいね。もう5級なのか……!」
「まだ試験には3回転も出てこないし……それに俺、鴗鳥慎一郎の息子だしこれぐらいは出来ないと恥ずかしいでしょ」
「なんで鴗鳥先生の名前が?今は理凰くんの話をしているのに」
「なんでって……そりゃ小さい頃からスケート選手になるには十分すぎる環境と指導者を与えられてるんだから、これぐらい当然の、むしろできなきゃいけないことでしょ」
別にこんなの、凄くもなんともない。父さんだって、本当は恥ずかしいのかもしれない。愛を疑ったことは一度もないけれど、自分の息子よりも他人の子供の方が才能があると言う事実をどう受け止めているのか聞く勇気はなかった。飲み込めきれなかった自虐の言葉が冷たく響く。
まるで理解できない言語だと言うように、男は首を傾げた。心無い慰めならいらない。自分の才能も、限界も、未来のなさも、他でもない自分が一番わかっている。わかっていてもどうしようもできないから、こんなに苦しいのだ。期待に応えられないことも、努力では変えられない現実も、自分の味方でいてくれる人の信頼を裏切ることも、スケートの神様が振り向いてくれないことも、全部が苦しく、自分以外の誰のせいにすることもできない。
「それは理凰さんの努力の上に成り立つ結果だよ。氷上で戦っているのは誰でもない、理凰さんだから。確かに恵まれている環境なのかもしれない。鴗鳥先生の指導力は他の選手のスケート技術からしても間違いないものだってことは、名港ウィンドの選手を見ていればわかるよ」
でもそれは全て理凰さんの背中を押し導く手の一つでしかないんだ、と男は続ける。
「滑っているのは理凰さんだ。戦っているのも理凰さんだ。そこに当たり前なんてない。君が誰よりも努力しているから、君に期待してしまうんだ。君の、鴗鳥理凰さんのスケートに」
「……俺のスケート、見たことないくせに」
「さっき少しだけ練習で滑ってたのを見たよ。足首の柔らかさを生かしたチェックのポーズの角度が他のどの選手よりも上手かった!空中での姿勢の調整センスは一朝一夕で身につくようなものじゃ絶対にない。どれだけ真摯にスケートに向き合ってきたのか伝わってくるスケーティングだった!」
この人、本気で言ってる。鴗鳥の名前故に聞かされてきた、どの大人たちの褒め言葉とも違う。一切の嘘も気遣いも、媚びもない言葉は何にも邪魔されることなく理凰の心臓に届いた。
きらきらと、瞳の中に星が散る。しかし闇夜を思い出したようにすぐに瞳に静寂が戻った。静かに、一つ一つ何かを選び取るように、丁寧に言葉が紡がれる。
「スケートは誰かと競い合うスポーツだ。技術を、強さを、美しさを、他人よりも優れているのだと証明する競技だ。けれど、誰かに負けることが、君が美しくないことの証明にはならない。理凰さんには理凰さんだけのジャンプが、スケート技術が、芸術がある。競技である以上必ず順位がつけられて、誰かと比較される。それでもそれを理由に理凰さんのスケートを貶めないでほしい。君のスケートは鴗鳥先生とは違う。君が鴗鳥先生ではないように、鴗鳥先生だって君にはなれない」
真っ直ぐすぎるその瞳に映る、迷子のような顔をした少年の姿が眼鏡をかけたせいでよく見えた。少年は泣いていなかった。泣き出しそうな顔をして、それでも唇をグッと噛んで堪えている。
銀メダリストの息子として恥ずべき自分と、自分のスケートを愛せなくなっていた。そんな自分でも、いいのだろうか。こんな自分だからこそ、苦しみながらスケートと向き合い続けた天才じゃない自分だからこそ、表現できる何かがあるのだと信じてもいいのだろうか。
「理凰さんは、理凰さんのままでいいんだよ」
―――そう、ずっと誰かに言って欲しかったなんて。
そんなこと、友達の総太にだって言えるわけがない。
「今日は誰を見にきたんですか?」
「あー見に来たんじゃなくて、受けにきたんだ」
理鳳くんと同じだよ、恥ずかしそうに頬をかいた。子供……がいるにしてはまだ若いから、親戚か、兄弟か。この人の知り合いなら優しく接してあげてもいいかもしれない。そんな気持ちで問いかけて、返された笑みにた浮ついていた感情が一気に冷え切った。
理鳳を知らない、理鳳が知らない男子フィギュアスケーター。
なぜ今まで気づかなかったのだろう。その手に握られいたのはスケートバックだというのに。
「まさか20歳でスケート始めた馬鹿ってアンタ?」
こいつだ。こいつが、あの夜鷹純の指導を受けているという噂の男。あの天才が選んだ、イレギュラー。男は理凰の質問に対し、平坦に「そうだよ」と言った。
あぁ、そうだ。これが、こんなものが現実だ。
「いい歳して夢とか希望とか信じてるんですか?どんなに足掻いたって絶対勝てないのに。諦めない自分に酔って楽しいですか?その年になって定職にもつかずにスケートにしがみついて、誰もあんたに教えてくれなかったわけ?無駄なことはやめて現実を見ろってさ」
相手の言葉を待たずに、理凰は畳み掛けるように侮蔑の言葉を投げつける。この人は何も悪くない。相手が子供だからと綺麗な嘘で誤魔化さず、本心から向き合い受け止めてくれた。優しく、明るく、きっと誰からも好かれるだろう人。現に今だって、こんな暴言を何も言わずに聞いてくれている。
わかっている。間違ってるのは俺の方だ。それでも、持ちそうになった希望を、裏切られたと感じた理凰のどこにも行き場のない醜い感情がたった一つの出口から漏れ出ていく。
「あのオッサンが目をかけるんなら少しは才能があるのかも知れないけど、それ以前にオリンピック目指す奴らが絶対に持っていなきゃいけない運すら持ってないんじゃ話にならないよ。
……そりゃ言いたくもなるよね、環境じゃなくて個人の頑張りが大事だって。自分にそうやって言い聞かせてるんだろ。大人になってもわからないなら子供の俺が教えてあげるよ。アンタはただ無駄なことをやってるんだってさ」
―――アンタ、スケート辞めなよ。
理凰は気づけば、司から視線を逸らしていた。最近こんな景色ばっかりだ。気づけばこうやって下を見ている。胸を張って夢だけを見つめて走る資格が自分にはないのだと知ってしまってから、ずっと。
激昂すると思った。優しくしてやった年下の子供にこんなことを言われて、人によっては手を出す奴もいるだろう。この人が与えてくれた優しさを、踏み躙った自覚がある。みんながいうほど、大人は人間ができてはいない。隠し方が上手くなっただけで、理凰は大人びていると褒められた。こんなものが大人なのだと知って、また一つ大人になった過去が蘇る。
男が何も言わずに自動販売機のボタンを押し、購入された飲み物がガタンと落ちる。その音に理凰の体が勝手に反応する。ドリンクを手に取るためにしゃがんだ男は、その状態でこちらに向き合う。見上げていた視線が、見下げるものに変わる。
「理凰さん」
名を呼ぶ声は真綿のように柔らかい。ゆるゆると自身の爪先の視線をあげる。噛み合ってしまった視線はあまりにも穏やかで、怒りも憤りなんて欠片もなくて。
そこにあったのは優しさと、
「俺は今日7級を受けにきたんだ。これに受かれば、君たちと同じ氷上にやっと立てる」
―――覚悟。
「諦めろって、無理だって、何度も言われた。ここが甘い世界じゃないこともわかってる。それでも俺は、諦められない。氷の上で生きたい。あの日の脳を焼くような感動の前じゃ、どんな言葉にも意味なんてないんだ。俺が滑ることを望んでいる人はいないのかも知れない。この努力は理鳳さんの言う通り何も生まない無意味なものなのかも知れない」
先ほどまでの全身で表されていた感情が嘘のように、ただ司の表情は凪いだ海のように穏やかで。そしてその瞳の奥でギラギラと燃えるマグマのような熱。痛いほど熱い、スケートへの想いがそこにはあった。
「それでも俺はスケートが大好きだから。どんなに無謀でも、無理だっていわれても、自分のことすら信じられなくなっても、俺は夜鷹純のように人を感動させるようなスケート選手になりたいんだ」
(スケートが好き、だから……)
理鳳は思い出してしまった。自分もかつて、夜鷹純のスケートに憧れてしまっていたことを。そしてその栄光と実力に、己にはその憧れを口にする資格がないことに幼いながらも賢い脳は気づき、恥を憶えてしまったことを。
どうしてこの人は、こんなにまっすぐに夢を語れるのだろう。こんな、俺よりもきっと苦しくて辛くて未来が狭められているのに。
この人は現実が見えていないんじゃない。誰よりも現実を直視し、押しつぶされて、絶望して、それでも立ち上がり続けた人なのだ。
なぜこの人は、こんなにも強いのだろう。
まるで、太陽みたいな目を焼くほどの眩しさ。
「―――あのッ、」
***
「慎一郎くん、久しぶり」
「純くん」
クラブの生徒がSPを滑り終わり、次の番である息子がFPを滑るまではまだ時間がある。子供というものは大人が思うよりもずっとよく考え、悩み、成長していく生き物であることをコーチを務めてわかり始めてきた。実力は十分にあるのに、他の子供よりも成長が早く頭がいい息子は今、壁にぶつかり始めている。いつからか、こちらの声はまるで透明な壁に妨げられ真っ直ぐに届かなくなってしまった。
バッジテストの前にもう一度顔を見ておこうと会場を歩いていた慎一郎は、自身を呼ぶ声に振り返り目を丸くした。
全身黒一色の服が白い肌が浮きだたせるため幽鬼のようにも見える。どこか儚くも威圧的なオーラと唯一無二の存在感。幾度ともなく氷上で戦い、ともに日の丸を背負い戦った。そして一度も勝利を譲らなかった戦友の一人。
駆け寄ったのは慎一郎の方だった。
「コーチをやっているというのは本当だったんだね……今までどこに?」
「名古屋。アイスダンスの瞳さんのいるクラブのところ」
「同じ中部にいたんだ。みんな、心配していたんだよ、あまりに消息が聞こえなくなってしまったから」
「基本的に人のいない夜にしか滑ってないからね。日中は邪魔が多すぎるし、僕じゃなく瞳さんのお父さんの匠さんが教えてくれてるから。僕は夜にあの子と滑ってるだけだよ」
「明浦路司さん、でしたか」
「あぁ、確かそんな名字だった気がする」
生徒の名を覚えていないのか、言おうとしてやめた。引退後、表舞台に出ることのめっきりなくなった夜鷹だが、慎一郎は適度にコンタクトを取り続けていた。とは言っても携帯を持ち歩くどころか投げて壊す夜鷹とはすぐに連絡が取れなくなる。今回だけではない。慎一郎の方からは安否を確認することはできず、だいぶ時間が経ってからまるで猫のように気まぐれに現れるのだ。ほとんどがリンクを使わせてほしいというお願いであり、会った際に聞いた連絡先もすぐに空き家となるのだが。
「今日はバッジテストを受けさせに?」
「そう、最後のバッジ。こんなものがないと司は金メダルを取れないから」
金メダル。
その言葉には、覚悟も勇気も気負いもない。彼の中にあるのはただの事実。全日本フィギュアスケート選手権への出場が目的なのではない。それは入口であり、見据えるはその頂。金メダルを取るための出場資格を満たすためだけに彼はここにいる。出られさえいれば確実に勝つと疑ってすらいない。
あの夜鷹純にそこまで言わせるとは。
「風の噂で純くんがコーチをしていると聞き驚いたよ。正直君は君自身が滑ることに固執していたので誰かを教える、それも無名の成人を指導するなんて思ってもみなかったよ」
「まぁ彼じゃなかったらコーチに僕の名前は出さなかっただろうね。他の、それこそ慎一郎くんの名前を借りたかもね。面倒だし。本当にこの上なく退屈で、スケートリンクを自由に使えるぐらいのリターンがあればすこしは考えたかもしれないけど」
そして何かを思い出したように小さく、
「司にそんな金は逆立ちしたってないけどね。そもそもお金がなくて指導も受けられず、独学で14歳から滑り続けていたような子だし」
(―――純くんが、笑った)
長く共にいたが今まで知らなかった。この子は、こんな顔で笑えるのか。
「ではなぜ……」
「司のスケートを見ればわかるよ。彼には僕が必要で、僕にも彼が必要だった」
「今後はコーチを仕事としていくの?」
「司以外の面倒を見るつもりは今はないよ。そもそも、僕はコーチには向いていない。口で伝えることも、伝えたことが理解できない選手の気持ちもわからないから。司にだって別にみんなが思っているような指導は何一つしてない。一緒に滑ること以外、僕は何もしていない」
「世界一のスケーティングを近くで見れることは、選手にとって大きいだろうね」
「そうかも知れないね。多分、司にとっては特に」
正直、初めて聞いた時は嘘だと思った。引退した選手が指導者の道に進むことはめずらしいことではない。経歴も申し分なく、夜鷹純に教えを乞いたいという人間は数え切れないだろう。メダルを目指すにあたり、実際にその目標を叶えたものにしか教えられないことは確かにある。鴗鳥自身もその部分をどう子供達に伝えるか、常に心を砕くようにしている。
しかし慎一郎がどうしてもそんな未来がイメージできなかったのは、夜鷹純という生き物はどこまでいってもスケート以外の人生をうまく歩めていなかったからだ。かつて夜鷹純のコーチを務めた者のなかには、『コーチという選択肢は夜鷹純がようやく新しい形での氷と繋がれるようになった証明だ』と好意的に受け取る者もいた。同じクラブのアシスタントコーチの中には優秀な選手を根こそぎ取られると嘆いた者もいた。
共に戦い続けた慎一郎にはそれがいい変化なのか、断言はできなかった。彼がどれだけ長い時間氷の上にいたのか、そして普通に生きることの難しさに苦しめられていたのか。隣で見ていたのだ。慎一郎自身も喧伝はしないが、その乖離に苦しんだ一人だ。だからこそわかる。この世界の誰よりもスケートの神に愛された夜鷹純にとって、普通に生きることは4回転のコンビネーションを飛ぶよりもはるかに難しいのことだった。
久しぶりに会った夜鷹は、相変わらず他者とは一線を画す威圧感と存在感はあれど、その雰囲気は少しだけ以前と異なっていた。夜の王の世界に、一つの街灯が灯っている。それは本当に小さな、けれど確かな変化。
会ったことはまだないが、きっとその教え子は素敵な人間なのだろう。誰も溶かせなかった夜鷹純という男の氷を僅かでも溶かしてみせるほど。彼はみんなが噂をしていたのとは違う意味で、奇跡の選手なのかもしれない。慎一郎は、その変化を喜んだ。
2人で並んで歩いていると遠目に自分の息子を見つけた。
そしてその前にしゃがみ込む大柄な男が一人。
息子の身に何か、と背筋が冷たくなるが微かに聞こえてくる内容的に慎一郎の表情が強張る。加害者は息子の方だった。人を傷つける鋭い言葉のかけらが割れたガラスのように周囲にも飛び散っている。20歳、スケート、運、無駄。漏れ聞こえる言葉の刃から、
「もしかして彼が……」
明浦路さんでしょうか。
そう隣の人物に声をかけようとして、慎一郎は言葉を奪われた。脳面のように変わらないその表情、そこには確かに不快という感情が滲んでいた。こちらの狼狽など気に求めずわざと靴の踵を鳴らすように大股で歩いて行った夜鷹は、理凰の手を掴み上げた。
「慎一郎くん、これが探してた君の息子?」
「よ、だか、じゅん?」
「えっ、純さん、ッて鴗鳥慎一郎!?」
何度か合わせたことがあるはずだが、どうも二人はそりが合わないらしい。そんなことよりだ。大人に真正面から敵意を向けられ、顔色を悪くした自身の息子に目をやる。親の欲目もあるだろうが、息子は繊細で傷つきやすい、誰よりもいい子だ。けれどそれは傷つけられた他者からしたら関係のないことで、卑怯な言い訳に過ぎない。慎一郎は深々と頭を下げた。
「明浦路司さんですね。理凰の父の鴗鳥慎一郎と申します。先程の息子の発言ですが、こちらの指導が至らずご無礼をお詫び申し上げます。夜鷹くんも、君の生徒に無礼な物言いをしてしまい大変申し訳ありません」
「やめてください!鴗鳥先生に頭を下げさせるなんて、あの、本当に、謝られることなんてありませんでしたから!」
「慎一郎くん」
夜鷹は慎一郎を一瞥すると、まるで投げるように息子をこちらによこした。そしてまるで盾になるかのように、しゃがみ込んだままの青年の間に立つ。
「謝罪はいいからその子、司の前に二度と顔出させないで……いや、もう顔を見ることなんてないからいいのか」
冷え切った瞳を向けられた理凰は、困惑と恐怖に言葉を紡げなくなっている。そんな子供の様子など気にも止めず、夜鷹は背後に庇った青年を振り返り頭からつま先まで確認した上で問いかける。
「怪我は?」
「な、ないですよ!むしろ俺がさっきぶつかってしまって、怪我をするとしたら理凰さんのほうです」
「でも今司の心を傷つけていたのは間違いなく向こうでしょ。君から食ってかかるわけないし」
大丈夫かと、宵闇の視線が問う。それを見て青年は全力の笑みを咲かせる。
「今更このぐらいで傷ついたりしません。今までの傷は、全部貴方が癒してくれた。だから本当に大丈夫です。普段と何も変わらず滑れます」
「そう、なら少し早いけどリンクに行こう」
「はい!」
「―――ッ待って!」
遠ざかろうとする背を呼び止めたのは理鳳だった。
酷いことを言った。狡いことを言った。八つ当たりをした。このままこの人を行かせてたら、絶対に後悔するはずだ。
言わなきゃいけない言葉はわかっているのに、うまく言葉が紡げない。罵倒やニヒルな言葉ならあんなに簡単に言えてしまうのに、言葉が喉でつっかえたまま出てきてくれない。
司が振り返るのを、夜鷹は許さなかった。ぐっと手を引くと代わりとばかりに、絶対零度の視線がまだ年端もいかい子供に再び向けられる。
「司と同じ舞台に立つ資格がないやつに構ってる暇はないよ」
それは明確な線引き。お前には届かない。いつか見たのと同じ、何の価値もない石ころを見るのと同じ目だった。自分に才能はないのだとかつて思い知らされた、あの目だ。
「司はどんな大会でも優勝する。絶対に」
行くよ、と司だけの手を握り夜鷹純は歩き出す。もうその瞳は理凰を見てすらいなかった。
そんな夜の権化のような男とは正反対の太陽のような笑みで足を止めることはせずになんとか首だけをこちらに向けた司は、
「待ってて、理凰くん。今度同じリングの上で、証明してみせるから」
司の背は遠ざかっていく。今までと変わらない。才能のある人間は、前だけを見て理鳳を置いていく。司は何か勘違いをしているようだが、7級のバッジテストを受ける資格のまだない理鳳の方が本来彼を追いかける立場だ。本当はスケートの歴なんて、結果の前では何の意味もない。
あの人は一体どんなスケートをするのだろう。スケートを好きだと大人になっても言う勇気のある、あの人は本当に才能があるのだろうか。
「……親父はあの人のスケート見たことあるの?」
「いえ、彼はまだ一度も大会に参加しておらず情報があまりにもありません。この後バッジテストを受けるようですし、よければ理鳳も見に行きましょうか。正式な大会ではありませんが、今後戦う可能性がある以上観ておいて損はないでしょう」
小さく頷いた息子の頭に、父親はそっと手を乗せる。この出会いはこの子にとっても良いものになるかも知れない。
「先ほど明浦路さんがぶつかったと口にしていましたが、どこか痛いところはありませんか?」
「本当にどこも痛くないよ。むしろぶつかったのは俺の方だったし」
「そうでしたか。怪我がなくて何よりです。理凰、次に会うときはちゃんと謝らなくてはいけませんよ」
「………うん」
「さぁ、まずは自分のテストに集中してください」
何に対しての謝罪かは明言しない。言わなくてもこの子ならすでにわかっているだろうから。言えなかった謝罪を胸にしまい込み、理凰は父に肩を叩かれてスケートリンクへと向かっていった。
スケートリンクに現れた夜鷹純に、リングサイドはどよめきたった。噂は本当だったのかと、親御たちだけでなく選手、コーチ、スタッフに至るまであらゆるものが目を奪われる。中には自分の子を指導してもらえないかと特攻を仕掛けようとした親までいた。
誰一人として届かなかった。
玉座を一度たりとも譲らなかった―――生ける伝説。
その彼が、スケートを教えた生徒。それも運に見放された、持たざる者。
あれが噂の。本当だったのか。でもあの歳じゃあねぇ。本当に滑れるのかしら。どれだけお金を積んだのか。お金で解決できるならうちの子だって。
漏れ聞こえる世界のノイズ。司につき刺さる視線はナイフよりも鋭い。それは期待や応援なんて優しいものではない。誰もこの場で司のスケートの本当の意味での成功を願ってはいない。
『―――番、明浦路司さん』
アナウンスが流れ、司はリングの中央に呼ばれた。これが外と許される最後の会話。リングサイドに滑り寄った司は、深く息を吐いて呼吸を整える。
「いつもの、いいですか」
「あぁ、これで落ちたらコーチを」
「そっちじゃないですよ!というかこれから滑るんですからそういう悪いイメージを想像させることは言わないでください!」
「君は本当にころころと煩いぐらい表情が変わるね。嘘だよ、どうせ君は受かる」
「……はい」
「自分が信じられないなら信じなくていいよ、君が信じられる僕の言葉だけを信じて滑りな」
緊張するだけ無駄だよ。普段と変わらない淡々としたその言葉が、司に平常心を取り戻させた。そうだ、何も変わらない。自分がしたいことも、自分がすべきことも、自分には次などはなから存在しないことも。スケートを始めた時から突きつけられていた現実に、今更何を怯える必要があるのか。
明るくて、元気で、真夏の太陽のように鬱陶しいぐらい眩しいのに、どうしても自分に自信が持てない男の悪癖。一人積み上げ続けた孤独な時間は司から自信を奪うには十分すぎた。夜鷹がこうして表舞台に出たのも司のトラウマにも近い自信のなさ故だ。自分のことになるとどこまでも後ろ向きになってしまう彼は、自分以外の誰かのために当たり前のように死ねてしまう人間だ。
これだけの才能がありながら、それでも放っておいたら一人で迷子になってしまうどうしようもない男だから、こうして側にいて方向だけでも指し示してあげなくてはならない。ある意味子供よりも手がかかる。掃除、洗濯、食事、普段の日常生活の殆どを司に支援されていることを棚に上げて、夜鷹は自身より筋肉の付いている背を押した。
「夜鷹純は、必ず金メダリストをとる。僕は人生を賭けてそれを証明した。だから君はただ普段通り滑ればいい」
気の利いた言葉も、慰めの言葉も言えない。だから、夜鷹はただ事実だけを告げる。
「見ていてくださいね」
「見てるよ。本当はもっと遠くからの方が見やすいんだけど」
「いやです。ぜっっったい、一番近くにいてください。純さんがいてくれれば、俺の喜びGOE+5なので」
「よく使うその表現は本当に謎だし、変なところ卑屈なのに本当に頑固だよね君」
「純さんが言ったんじゃないですか。感情を読み取るとか空気を読むとかを自分に期待する方が馬鹿だから、言いたいことは全部自分からちゃんと言えって」
「それでここまで図太くなれるのも才能だよ。スケートは個人競技だし、応援に力があるなんて一度も思ったことはないけど……まぁそうしろって言ったのは僕だからちゃんとここにいるよ」
ほら、時間だ。
「いってきます!」
そして司は一人、氷上に立つ。
心を揺り動かし、人生を変えたスケートの素晴らしさを体現するために。
心臓が痛いほど跳ねる。呼吸の仕方を思い出せなくなりそうになる。緊張で筋肉が強張る。それでも、それよりもなお、この場に立てていると言うことへの歓喜が勝る。
スケートをしていいのだと、夢を見てもいいのだと、諦めることのほうが間違いなのだと、夜鷹は司に言ってくれた。金メダルを取れると、ただ現実だけを告げてくれた。
―――今度こそは、
―――来年は絶対、
―――いつかきっと。
他の選手と違い、明浦路司に次は存在しない。あるのは今、この瞬間の現実だけ。この場で資格を示せなければ、司が滑ることを世界は許さない。「運」という根本的な才能を持たない人間は足掻くことすらできなくなるだろう。自身の足元にある氷の厚みは人とは違う。この瞬間に割れてもおかしくないほど薄氷の上に立っている。
だから、明浦路司は証明しなくてはならない。夜鷹純に指導を受ける、夢見るための資格が自分にはあるのだと。証明できなければ、奇跡は消える。怪しげな月夜の輝く日、神様の気まぐれで与えられたこの幸福は他の誰かに奪われる。
(―――そんなの、絶対にいやだ!!!)
曲がかかる。指先から順番に、腕、肩、腰、太腿、そして命より大切な足を動かしていく。幕は上がった。この曲が終わるまで、この氷上には誰も立ち入ることも、降りることさえ許されない。ここは氷の監獄だ。
あぁ、幸せだ。
ずっと、このまま音が止まなければいい。そうすればずっと滑っていられる。幸福に微笑みながら、司はステップを踏む。
この幸せを手放さないために、飛ばなくてはならない。ジャンプは全て、あの人に教えてもらったものだ。だから絶対に、失敗するわけにはいかない。
助走のために、司はリンクを駆け抜けた。
「は………?」
あの天才が突然連れてきた、天に愛されなかったスケート選手。どんなものだろうと、多くのコーチ、選手たちがそのスケートに注目していた。もしそれなりに滑れるのであれば夜鷹純の指導力の証明となり、フィギュア界は大きく変わるだろう。
きっと本来の意味でその青年の演技を見ようとしたものはいなかった。その場にいる監視者の誰もが、青年の背後に立つ夜鷹純の偶像を見つめていた。
見つめようとしていた、はずだった。
曲がかかり、さっきまでどこにでもいる明るさが取り柄のように思えた青年の雰囲気が一変する。青年の命が、氷上で輝きだす。
ステップの踏み方、滑らかすぎるタッチ。文句のつけようのない、氷上に描かれる美しい図形たち。高く、転ぶことすら想像できないジャンプ。
「夜鷹純だ……」
これは、夜鷹純のスケートだ。
指導を受けたからとかそういう次元じゃない。振り付けとかそういったレベルの話じゃない。
ぞっと背筋が凍りつく。
驚くほどに沈まない、天に愛されたように重力を感じさせないジャンプ。着氷後の勢いを殺さないままに繋げられる全てを切り裂くようなフライングキャメルスピン。その迫力は恵まれた体型と長い足だからこそ出るものだ。息つく暇どころか、選手本人の呼吸すら不安になる程、休息なく紡がれていくステップたち。
その滑り全てが、夜鷹純のものだ。
氷上で踊り舞うのは間違いなく、夜鷹純だった。
冬空の夜明けのように、青年のスケートが静寂を飲み込んで自身の色で全てを飲み込んでいく。努力なんて言葉が届かない、氷を降りたはずの天才が行き場を求めて舞い戻ってきたのだ。悪夢から目覚めさせてくれと、現実を呪いそうになる。
誰にも真似できなかった、減点の余地のない+5の加点が約束された夜鷹純のスケーティングを模倣できる―――化け物。
フィギュアスケーターとっての憧れと絶望が、リンクにあった。
きっとこの青年はフィギュア界を変える。夜鷹純が全てを薙ぎ払った平坦な氷の形を根本から壊し尽くす。本来であれば、きっと潰えていた可能性。夢見ることを許さなかった勝利を、夜鷹純が与えてしまった。あの男が20歳から教えを乞うた夢を見る資格のなく消えたはずの男に翼どころか金メダルへと特急快速電車の片道切符を買い与えてしまった。埋もれて欲しかったと思わずにはいられない。今後、これと戦い続けなければならないのだと誰もが理解した。
『僕は氷の上でないと息ができない』
「純くん、君は……」
どう息をして、生きればいいのかわからない。演技をみていた慎一郎は、そう吐き捨てたスケート選手の言葉を思い出す。スケートに全てを捧げたからこそ、スケート以外のなにも選べなくなっていた一人の青年のことを。
(―――あぁ、そうか。君は出会ったのか)
明浦路司という原石。
君と同じ世界を共有できる、唯一に。
〝夜鷹純の再来〟記事の見出しにはそう書かれた。
***
それはとある雪の降る日のこと。
雪空の中ベンチに腰掛けるサングラスをした黒づくめの不審者に傘を差し出した青年は、肩に積もり雪をはらい自身がしていたマフラーを首に巻いてきた。
「帰ったら、暖かくして寝てくださいね」
持っていた傘すら手渡し、名前も名乗らず青年はそのまま走りさっていく。普段なら絶対に無視した。理由のある気遣いも、理由のない気遣いも、どちらにしても夜鷹にとっては邪魔なだけだから。
魔がさしたとしか言いようがない。
気づけば夜鷹は青年が走り去っていった方向へと歩き出していた。
青年が向かった方向の先にあったのは小さなスケートリンク。お世辞にも金をかけているとは言えず、売れるほどの名前もない大衆向けのリンクだった。
小さな子供たちや娯楽の人の群れに紛れるようで、彼は一人で戦っていた。ここにいたいと、生きたいと、氷焰の獣が吼える。ただ1人、氷にブレードでしがみつきながら右も左もわからずただがむしゃらに滑り続けてる姿を見つめる。太陽は暖かく陽の光を人に与える。それでも太陽自身はいつだってその身を焦がし燃え続けることしかできない。いつかのテレビで見た太陽の光球面を思い出す。
時間も、金も、コーチすらもないのだろう。いるのであれば、こんな無駄が多い練習を許すはずがない。
転んで、起き上がり、動画を見て、また滑り、転んで、滑って、滑って、滑って。
すぐに気づいた。
(―――あまりにも習得が早すぎる)
夜鷹からすれば致命的と言える欠点を、指導者も経験もない青年がたった1人で夜鷹の思い描くそれに近づけていく。
夜鷹純にはそれができた。1人で滑り、1人で学び、1人で世界と戦えた。今まで多くのスケート選手と出会ったが、日本代表の中にも同じ世界を見ているものはいなかった。
鷹の目と呼ぶ人もいる俯瞰的能力。初めて見た、自分と同じものを見れる生き物。明らかに常人を遥かに超える才だ。もし幼い頃からスケートをしていれば、夜鷹に届きうる牙になり表彰台を共に競い合っただろう。結局全てはたらればであり、運という根本的な才能を持たざる青年は、こうして1人表情でもがき苦しんでいる。
閉館時間のアナウンスが流れ、氷の上には誰もいなくなる。彼も独学とは思えないほど丁寧なスケーティングで、リングサイドへと戻ってきた。
声をかけたのは、ほんの気まぐれからだ。シューズの靴紐を解くその背に近づき、
「ねぇ」
「ごめんなさい、もう出ますか…ら……」
瞬きすら止まった。
「よ、夜鷹純!?」
そういえば彼のスケートを見るために、サングラスを外していたんだった。そっくりさんと疑われたので、一応本物だと名乗れば青年はオウムのように「本物!?!?」と復唱した。だから、そうだって言ってるだろ。
「ど、どうしてここんなところに……」
「傘。返してなかったから」
「え?あ、俺の傘!さっきの雪の中にいた人に渡して…ってあれ夜鷹純だったのか!別に捨ててくれてよかったのに!逆に気を遣わせたみたいですみません!」
「君も滑るんだね」
「!ッ見てたんですか!?」
驚きにもこんなに種類があるのか。新鮮な発見だ。どこか浮ついていた青年が、口角を上げた。たった数度言葉を交わしただけの夜鷹にさえわかる、取り繕った無理矢理な笑顔。
「酷かったですよね。こんな、夜鷹さんからしたら笑っちゃうようなスケート」
「君が言うほどではないと思うけどね」
お世辞は言わなかった。恐らく夜鷹純のスケートを手本にしたであろう滑りたちは、独学とは思えないほど形になっていた。
ありがとうございます、とまた貼り付けた笑顔で感謝の言葉を口にして、青年はスケート靴を脱ぎ終わる。あの、と向けられた声はわずかに震えていた。
「……なに?」
「こんなこと、聞く資格もないし貴方が答える義理もないのはわかってます。分かった上で、教えてほしいんです」
ぐっと、噛み締められた奥歯が持ち上げられ、青年の口から祈りにも似た感情が漏れ出た。
「遅いのはわかってます、時間が足りないことも、運がないことも、誰も期待なんてしてないことも、全部わかって、わかってるのに、貴方のスケートが忘れられない。あなたのスケートを見た時の感情が、この胸から消えてくれない」
貴方のスケートが、あんまりに綺麗だから、
貴方のスケートが、暴力的な程に美しいから、
貴方のスケートが、俺の人生を変えたんだ。
「俺はどこかで道を踏み外していませんか、この道はあっていますか、俺が進むこの先に、あなたはいますか。なんでも、どんなことだってします、だから、この道が正しいのか、俺には足掻きつづける資格があるのか、それが許されるのか、それだけでいいから、それさえわかればこのどんなことでも頑張れるから」
教えてください、もうずっと、目の前に壁しか見えないんです。そう訴えた青年はバッと顔を上げると夜鷹の顔をまっすぐ見つめた。さらに何かを言おうと言葉を選ぼうとして、それでも感情をうまく整理できないようだ。先ほどまでの苦々しい笑みを取り繕う余裕もないのだろう。眉を下げ、吐き出されたのは諦めきれない夢の形。
「俺は、貴方になりたい……」
羨望と、嫉妬と、不安と、自分自身への怒り。全ての喜怒哀楽が多色を混ぜた絵の具のように、汚く混ざり合う。
「氷の上で生きることが許される、生き物になりたい……」
青年は、泣いていた。今まで見てきた涙とは、違う。理由はわからない。感情のままに泣く姿は一緒なはずなのに、この涙は綺麗だと思った。
実際スケーティング自体は独学とは思えないほどに形になっているがそれだけだ。それ以外は現状話にならない。でもきっと、今だけだ。適切な指導者と環境さえ手に入れることができれば彼は大成する。類稀な学習能力の高さと、空間把握能力。そしてイメージを形作れる運動神経と恵まれた肉体。潰れない限り、きっとプロになれるだろうし、全日本だって出場できるだろう。これだけのスケートへのセンスがあるのだ、どんな形にせよ必ず差し伸べられる手があるだろうに。
けれど、本人にはその自覚がないらしい。震える自分の体を己の上で抱きしめるように、再びしゃがみ込んだ彼は膝に顔を埋めて小さく震えていた。
引退して、夜鷹は自身がスケートなしに生きられないことを知った。氷の上でだけ息ができて、氷の上でだけ生きる意味がある。そんな自身の欠落を自覚した。
眼前のこの青年はきっと誰からも愛されるだろう。人格も性格も多くの人間に好かれるだろうし、きっと大抵のことを上手くこなせる。普通に生きることを苦とは思わない、どこにでもいる凡人の一人になれたはずだ。スケートリンクでしか生きられない夜鷹とはまるで違う。模範解答のように正しい生き方が選べただろうに。わざわざ不自由な生き方を望むなんて。
彼の進もうとする道が正しいのか、彼には足掻きつづける資格があるのか、彼にはそれが許されるのか。
質問された内容を思い出す。
「……君、名前は?」
「あけうらじ……明浦路司です」
「言いにくい名字だから、司でいいよね」
夜鷹はしゃがみ込む男を、見下ろしたまま考える。考えて、思考を巡らせて、最終的には考えること自体が面倒臭くなり、感情のままに生きることにした。
「僕は氷の上でしか生きられない。だから司が僕の代わりに証明してくれるなら、君が望むように氷の上に居場所をあげる」
「―――ぇ、」
「君が聞いたんでしょ、この道が正しいか。それはわからないけど、正しい道を教えてあげる。その道を進めば君はスケートができる。その代わり、スケート以外の全てを犠牲にしてもらう。君にはスケート以外の何も残らない。僕になるっていうのはそういうことだよ」
「貴方に、なる……?」
「僕と凍死する覚悟があるなら、君を金メダリスト僕にしてあげる」
夜鷹が勝利するたびに、誰かが泣いた。絶望でも、悔しさからでも、恩へ報いることができない事実にも、他人を泣く姿を人より多く見てきた。自分という存在が多くのスケート選手を殺したか。数も顔も何一つ覚えていなくても、自覚はある。そしてリンクを降りた自分に、何一つ残ってはいなかった。
それはきっと悪魔の囁き。代償を差し出す代わりに、願いを叶える。天秤が明らかに代償側に傾いた、不条理な取引。
あぁ、可哀想に。
悪魔の甘言は、彼にとっては地獄の底の蜘蛛の糸。それを掴まなければ光の場所には届かない。彼にとっては、神の気まぐれな救いと変わらない。嗚咽を堪えきれず、傷んだスケート靴を心臓に押し当てながら青年は泣いた。
差し出した手を握り返す手の力があまりにも強かったが何も言わなかった。手なら骨が折れてもスケートはできる。
嘘、嘘じゃない。
夢、夢じゃない。
酔狂だし、娯楽でもあるが、冗談じゃない。
傷つかないための防衛の言葉を否定つくせば、青年は泣きながら何度も何度も頷いた。
流れる涙を親指に拭ってやれば、またすぐにキラキラと光る雫が落ちてくる。最初に会った時から思っていたが、異常に体温の高い子だ。心の臓から凍てきった夜鷹には辟易としてしまうほどの熱と、意思がこの体には詰まっている。それはスケートのために全てを捨ててきた夜鷹にはない温度だった。
まだ小さい、不安定で、それでも確かに自分の力で燃えようとする一途さは夜鷹の心に差し込んだ確かな光だった。
***
「―――純さん!」
FPをノーミスで完走した司が、真っ直ぐにこちらに戻ってくる。周囲はざわめきに包まれているが、驚くようなことは何もない。むしろできて当然の演技だ。本来司が跳べる四回転のコンビネーションだって入れていない、試験に合格するためだけのプログラム。本来、緊張なんてする必要がない演技だ。
これで司は全日本への出場資格を得た。
誰からも愛される人間性を持った善人である彼は、確かにスタートが誰よりも遅い「運」に見放された選手だ。それでもそれを全て帳消しにできるほどの才能がこの子にはある。他の選手にしてみればたまったものではないだろう。才能だけで背後から追い抜かれる、置いていかれる恐怖は夜鷹にはわからないが、間違いなく多くの選手の心を折るはずだ。それもきっと、夜鷹よりも苛烈で凄惨な地獄が描き出されるだろう。
(そして僕がいる限り、司が夢を諦めることは絶対にない)
明浦路司のスケート人生は、夜鷹純で形作られていた。
始まりも、憧れも、お手本も、教材も、師も、全てに夜鷹のスケートがある。
その憧れで氷の滑り方すら全てトレースしてみせた異常なまでの才能と、狂気と呼んでも差し支えない氷上への執着。もしかしたら夜鷹が出会う前に見出されるか、または周囲に潰されていたかもしれない才能。しかし今その種は水を得て、花開いた。もうすぐ満開と呼ぶべき最高の状態を迎える。司が夢見た世界の大舞台。きっとオリンピックの場は、司にとって良い養分になる。
夜鷹純は、氷の上で氷の上でしか生きられない。
そういう生き物だ。
そして明浦路司は、氷の上で生きることを渇望した。
そういう生き物だった。
陸の上で息ができて、笑えて、苦痛なく過ごせる男は、深海のようなスケートリンクに立つためにどんな犠牲も払える人間だ。そして根が善人すぎるために、きっとその犠牲を誰かに強いることはできない。時と場合によっては尊敬も感謝も超えて、夜鷹の前に立ちはだかるだろう。なのにその対象が自身になった途端、彼はそれを犠牲と捉えられずに、救いと名付けた。必要であれば命だって投げ出すことも厭わない、馬鹿な男。
氷上にはただ1人しかいない。それでも何の導きもなくただ1人、6年もの間氷上にしがみつき続けた男は魂を悪魔金メダルに捧げたのだ。
指導に言葉場いらない。夜鷹はただ、金メダルが取れる演技を見せればそれでいい。それだけで彼は金メダルをとってみせるだろう。まだ入口。ようやっと挑む権利を手に入れた男は、燃える太陽のように氷を溶かしながら滑るのだ。
明浦路司はきっと全てを焼き尽くす。
夜鷹純のスケートすら燃料に変えて、リンクの氷すら溶かし尽くすだろう。たった一つしか存在しない黄金色のメダルを目指し、ただそれだけを求めて成長する。
雪が降るあの日、二人で凍死すると約束した。けれどもう、その死に方は選べない。僕らの死因は焼死だ。明浦路司は全てを燃やし尽くつくす。僕が閉じ込められた氷上の檻すらも、全て溶かして笑うだろう。
司は太陽に向かって伸びるあの植物に似ている。
そういえば、夏休みの宿題で出された朝顔は枯らしてしまったっけ。でも彼なら時折水をやり忘れてもちゃんと咲くだろう。繊細だけど図太いし、いつも元気だから。
焦がれづける向日葵のように、ただまっすぐに。
彼は氷上に根を張り、咲き誇る。
燃える向日葵で、夜鷹は今日も暖を取る。
―――二人が燃え尽きる、その日まで。
桜味 まっちゃ!
ポメ
葵 だざむ🤕🍷