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「バッジテスト7級。これで君は全日本選手権に出場できる」
大会参加資格である最後のバッジテストに合格したその日の深夜、司はリンクの上に立っていた。ただでさえ周りから遅れている司に休んでいる時間はない。夜の貸切はその日も普段と変わりなく行われた。
本来であれば通常通りスケーティング後にジャンプ練習に入るのだが、その日は違った。
「でも出場するだけじゃ、僕との約束は果たせない。金メダルは取れない」
氷の上で、スケートの神様はそう言った。
出会いの日の約束を忘れたことは一度もない。生涯全ての大会で必ず金メダリストになる、その誓いは司の胸に刻み込まれている。
司は神託のように夜鷹の発する一音も聞き逃さないように耳を立てる。欲しいメダルの色は一つ。司は取れない、と切られた言葉の先を待った。それが単に諦めろという意味で発せられた言葉でないと目を見ればすぐにわかった。
「見てて」
短くそれだけを告げたスケートの神様が、氷の中央で膝をついた。説明などなにもないままに、音楽が溢れた。
そして夜鷹は音を引き連れて、氷上を舞った。
芸術的な図形の数々が刺青のように氷の表面に描かれていく。
ただ魅入られた。
そのステップの美しさもジャンプの凄さも知っているはずなのに、司は何度でもそのスケートに恋をする。息の仕方すら忘れるほどにそのスケートは美しい。
(………… 知らない)
ずっと夜鷹純のファンだった。教本のようにそのスケートだけを追ってきた。擦り切れるほどにその映像を見返し、歴代のコーチだって諳んじられる。
人生を変えた、圧倒的なスケート。
そんな夜鷹の大ファンである司が知らない曲。知らない構成。ほんの少しだけ夜鷹純らしくない、振り付け。
世界中で夜鷹純にしか踊れないであろう、完璧で唯一無二のプログラム。他の誰にもできない、技の数々。着氷を疑わせない完全無欠のジャンプ。怒涛のコンビネーションスピン。音と絡み合う感応的なステップ。全てを喰らう、圧倒的な存在感。
こんな美しいものがここにはある。
スケートはいつだって、司に世界の美しさを知らしめる。
その演技が終わっても、司は動かなかった。
ただ言葉もなく見入った。人生を変えたあの日の、真っ暗な部屋の中で見たあの感動が色鮮やかに蘇る。
「これが君のプログラムだよ」
「え………」
「ショートは今の練習曲のままでいい。でもフリーは変える。金メダルを確実に取るために」
俺の、もの。
言葉を失わせるほどに美しい、これが。
その日神様から与えられた祝福の感動を、司は死ぬまで忘れない。氷の上では何にも遮られることがない、月のような瞳が告げる。
「全てを壊す、君だけのプログラムだ」
その日は絵に描いたような晴天だった。
「ここが全日本選手権の予選会場………」
司は綺麗な青空を背景とした目の前の建造物を見上げた。この建物の中にある、焦がれ続けたスケートリンクの上に今日司は立つ。長い夢を見ているのではないかと何度も思った。そしてそれと同じ回数もし夢であるのならどうか覚めないでくれと願った。夢見た世界の入り口に、今自分は立っている。司の胸を言い表せない歓喜が襲う。
ここはまだスタートラインに過ぎず、ゴールは遥か先だとわかっている。それでもスタートの音を待つ、心臓の鼓動の激しさをどう抑えればいいのがわからない。服の上から心臓のある左胸に拳を押し当てる。落ち着け、そう言い聞かせるが心臓は跳ねるばかりで。
スケートを見た瞬間の言葉にならない感動が、司の人生を変えた。
過去も未来もなにを捧げてもこの人のようなスケートがしたいと画面越しに恋をした。
本来であればここに男子シングルの選手として立つことは、宝くじを当てることよりも難しいことだった。それだけを願い争い努力を重ねたとしても、目標は遥か彼方にあった。
そして理想と叶わぬ現実の狭間で押しつぶされそうになっていた司に、差し伸べられた氷のように冷たい手。
本来であれば出会うことなどなかったはずの二人は出会い、全てが変わった。
今日、司はこのスケートリンクで滑走する。
全日本選手権の出場資格を勝ち取るためにこの中部ブロックで勝ち、西日本選手権に勝利する。そしてようやく全日本選手権大会への出場切符が与えられる。そこで優勝すれば世界選手権に出場できる。全ての勝利の先に欲した金色のメダルがある。
「何してるの」
まだ入場してもいない、ただのコンクートの外箱を見上げて動かなくなった司に夜鷹は心底不思議そうに言った。
言葉にできない司の感動を夜鷹が理解する日は来ない。司にとってはルーブル美術館と変わらないほどの美しさとその中の氷で作られたリンクに期待に胸躍らせていたのだが、そんな情緒を読み取ってくれるはずもなく。
「………いくよ」
「あ、ちょ、待ってください純さん!少しぐらい感傷に浸らせてくださいよ!」
案の定さっさと進んで行こうとする背を司は合わせて追いかけた。
(やっぱり純さんはすごい……)
会場に入ると同時に向けられる視線の数々。
この整った顔立ちと何万、いやテレビの向こうも含めれば何億という人間に注目されてきた夜鷹は突き刺さる視線にも同時ない。というか完全に無視している。とはいえ気分がいいものではないらしく、少しだけ纏う空気が排他的なものになる。本人としては周りを羽虫が飛んでいるような感覚なのかもしれない。
夜鷹がここにいるのは司のわがままだった。当初別の人間をコーチとして表に立たせようとしていた夜鷹に、「一番近くで見ていてほしい」とお願いをした。返答まではしばらく間があった。そして「……仕方ないか」と夜鷹は紙面の上でも司のただ一人のコーチになってくれた。
現在は製氷作業中のため廊下にはそれなりに人がいたが、まるでモーゼの十戒のように人が自然と通り道を作る。夜の木の葉のようにザワザワと周囲が立てる音になど一切の関心も持たず夜鷹は進んで行く。向けられる視線の中には純粋な好意と憧れが多く込められていると知ったところで進む足の速さが変わることはないだろう。
伝説の金メダリスト、夜鷹純。
どうしてそんな人物が俺なんかの手を取ってくれたのか、いまだにわからない。
「………いくよ、二度も言わせないで」
それでも司が足を止めると、振り返ってくれる。
頑張れという励ましも応援もなに一つなく、ただ自分が立つ場所に早く来いとだけ告げる。隠れたサングラスの奥の瞳を司はずっと見てきた。そして今も見ることを許されている。それがたまらなく嬉しくて、幸せで。
司は慌てて月を追いかけた。
「うわ、本当に夜鷹純だわ……」
「誠二くん」
「噂は聞いてたけど、実際に見ると驚くな」
「噂?」
「氷の上に戻ってくるのは何となく予想できてたけど、まさか未経験の成人男子のコーチ引け受けるか?」
慎一郎の先輩スケーターの一人。慎一郎自身がノービスBの頃からの知り合いであり、現在は同じ西ブロックの愛西ライドでヘッドコーチを務める五里誠二が顔を顰めて立っていた。
五里には選手間の試合後に共に飲みに行くことも多く、新一路もよく可愛がってもらっている。
すでに廊下には夜鷹の姿はない。一眼見て善人だとわかる大型犬みたいに素直そうな青年だけがその背を追っていた。持っていたスケート靴の袋とあの夜鷹が共にいるということは、あの青年が噂の人物だろう。
良くも悪くも五里には見覚えがない。まるで彗星のように氷上に現れた、イレギュラー。
「あぁ……明浦路司選手のことですね」
「何だ慎一郎、お前あの選手のこと知ってんの?」
「以前バッジテストの会場でお会いしました」
「へぇ……」
「純くんにも会いましたよ」
「なに、意外とちゃんとコーチやってるんだな。正直面倒ごと嫌いそうだし、コーチの雑事は全部慎一郎に投げてスケートだけ教えてもおかしくないと思ってた」
それは流石にない、と慎一郎は苦笑する。ない………はずだ。多分、恐らく。それで、と五里は少し声のボリュームを下げた。
「慎一郎から見てそいつはどうなんだ?」
「……とても才能のある方、ですね」
「うっわ、お前がそういうレベルなのかよ」
なら一部の噂のような、記念での参戦ではない。本気で表彰台を狙える実力ってことじゃねぇか。五里は意識を切り替える。慎一郎は基本的に穏やかであり、どんな相手にも長所を見つけそれを臆面もなく伝えられる人間だ。生徒への接し方も細やかで年齢関係なく、一人の選手として誠実に接しているのがよくわかる。善人で、何より腰が低い。誰より氷に誠実で、そして勝利の執念が並外れている男。そんな慎一郎の評価なら間違いはない。
「それと……」
「それと?」
「スケートがとても純くんに似ています」
「そりゃ悪夢だな」
一番長く夜鷹と共に戦った慎一郎の言葉は重みが違う。五里は肩をすくめた。
「では私は生徒のもとに向かうので一旦失礼します………」
「ん。夜鷹のやつにもよろしく言っといてくれ。コーチだった梟木さんも話したいって言ってたから今度飲みにでもいこうぜ」
「声をかけてみます」
コーチ同士の意見交換会といえば夜鷹は参加してくれるだろうか。肉を好き……というより育てるのことが好きな五里と、そもそも肉どころか食事が嫌いな夜鷹、基本的に肉より甘いものをメインとしている慎一郎。
夜鷹の指導をしていた過去がある梟木が肉が好きなことを祈るしかなかった。
喫煙室でタバコを一本吸い終わって尚、教え子の最終滑走まではだいぶ時間がある。開会式の間にコーチは参加しないため、滑走順が決まるまでやることはない。人気のないところで時間でも潰そうと廊下を歩いていると、同じ日の丸を背負い戦った慎一郎の姿を見つけた。
「久しぶりだね、純くん」
権力も実力も持っているのだからもっと傲慢になっても誰も文句は言えないだろうに。相変わらず腰が低い。そんな性格だから信頼に足るのだが。
バッジテスト以来だね。そう微笑まれ、素直に「……そうだったっけ」と言えば苦笑いが返ってくる。
「今日は名港ウィンドの選手もシニアに出るんだ」
「そう」
慎一郎がここにいるのはわかっていた。というよりも名港クラウンは地元でも優秀な選手を多く輩出している。来ない方がおかしい。
慎一郎の視線が、一度夜鷹の周囲に逸れる。
「明浦路選手は一緒ではないんですか?」
「開会式に出てる」
「開会式は随分前に終わって滑走順も発表されたけど……」
「そう。なら会場のどこかにいるよ……司に何か用?」
「この間のバッジテストの件で明浦路選手にお礼を言いたかったんだ。理凰の無礼な発言への親としての謝罪と、感謝を伝えたくて。理凰自身、明浦路選手の演技を見てスランプから抜け出せたみたいで。今日は来ていないんだけど本人も直接謝罪したいと言ってるからご都合の良い日を教えていただけたらと思っていたんだけど……」
「いらないよ」
夜鷹はその提案を一蹴した。
「けど……」
慎一郎が食い下がる、というより本人の気質的に礼を言わずにはいられないのだろう。ふいに司が慎一郎の姿を見て「本物だ……ッ」と目を輝かせていたことを思い出す。憧れの人物からお礼を言われたら平身低頭で困惑するだろう司の姿が容易に想像できた。まぁいいか、どうでも。
「せめて試合の後にして」
「もちろんです」と笑った慎一郎なら悪いことにはならないだろう。話はそれで終わりかと思ったが、慎一郎は言葉を重ねた。
「どうですか、明浦路選手の様子は」
「……普段通りだよ」
「今回が初めての大会だよね。バッジテストの時の演技も素晴らしかったけど、今大会ではフリーの曲を変えたみたいだったから一体どんなプログラムなのか私も楽しみで」
「……そう」
楽しみにできるのはいつまでだろうか。一度も勝利を諦めることなく渇望し続け、骨を折っても氷の上に戻ってきた執念を持つ慎一郎にはできるだろう。だが、周りもそうとは限らない。
「あっあの!夜鷹純さん……ですよね?」
滑走順が決まったのならと司のもとに戻ろうとした夜鷹の前に、それは突然現れた。
進もうとしていた方向に立ちはだかる見ず知らずの女性。そしてその背後に立つ一人の少年。
その女性の狂気を宿した瞳には見覚えがある。幼少期から始めなければならないほどに狭き門であるスケートの世界に足を踏み入れる多くの理由は本人ではなく親の選択だ。まだ子供のうちに本人の可能性を広げる、といえば聞こえはいいが無自覚で無意識のうちに自分の心の中にある後悔か夢を子供に見せようとする。子供のために、それが全ての免罪符であるように言葉を振りかざす大人は少ない。
夜鷹は何の反応も示さなかった。
「引退後の今はコーチを務めてるっていう話は本当だったんですね……!」
女性は興奮しきりだった。サングラスの奥に隠された視線すらまともに向けることなく、反応すら返さない慎一郎だけでなく誰の目から見ても絶対的な拒絶の姿勢にも一歩も引かない。むしろさらに熱量が増す。
「うちの子のッ!コーチになってくださいませんか!?」
連れてこられてたのだろう、母親の後ろに立っていた少年は夜鷹とサングラス越しに目があった途端慌てて目線を逸らした。
司ほどではないにしろそれなりの身長と黒一色の威圧感が子供に恐怖を与えている自覚は夜鷹にもあるが、特に子供に好かれたいと思ったことはないので今のところ改善するつもりはない。
懇願する人物を前に夜鷹はようやく口を開いた。
「今何級?」
「いま初級で……まだスケートを始めて浅いんですけどクラブの先生からも褒められていて!この間の初級クラスの大会で表彰台に乗ったんですよ!」
答えたのは母親だった。我が子の肩を抱きながら自慢げに告げられる戦歴。身長などから考えても小学校低学年程度。
「才能ないよ」
「…………え、っと、うちの子は、2回転アクセルもすぐに跳べるようになったんです!他のクラブの子達よりもずっと綺麗に滑れていて、」
「それでも表彰台に乗っただけ。君自身が言った言葉が全てだよ」
娘自慢に付き合うほど暇じゃない。時間の無駄だと夜鷹は歩き出す。放たれた言葉の意味を理解した女性は俯く我が子への侮辱だと声を荒らげた。
息子には才能がある。幼少の頃よりとはいかなかったが、スケートを始める最低ラインと言われる年齢には間に合った。教えられたステップやジャンプも周りの子よりも随分と早くできるようになった。大会で表彰台に登った我が子が誇らしかった。初めてまだ間もないというのに表彰台に登れたのだ。うちの子には才能がある。それこそオリンピックという狭き門に挑む価値はある。これから時間をかければ、努力すれば、絶対に大成する。
息子を持つ慎一郎はそっと目をふせた。我が子の成長を望む母親として、できることをしてあげたいと願うのは当然のことだ。成功する一番の近道は、成功者からの正しい答えを教えてもらうことだ。どうすれば成功したのか、それを示せる先生がいればいい。夜鷹に白羽の矢が立ったのは当然のことではある。だがその輝かしい受賞歴と金メダリストと言う肩書きの前で、眼前の女性のように夜鷹が一人の人間であると忘れてしまうものは多かった。
去って行く背中に、母親は叫んだ。だって母親は知っていた。ここに夜鷹純が来ることを知った上で探していたのだ。
なら夜鷹純の教え子は、二十歳からスケートを始めたという曰くつきの青年はどうなるのだ。辻褄が合わないではないか。なんで、どうして、
「ならどうして今日大会に出る選手のコーチは引き受けたんですか!?お金の問題なら―――ッ」
「いくら積んでもメダルと才能は金じゃ買えない」
水をひっくり返したような静寂だった。
その言葉の重みと絶対零度の瞳が、頭に登っていた血を一瞬で冷ましきる。その威圧感に思わず母親は後ずさる。
「初級のバッジなんて誰でも取れる……それこそ独学でもね。その程度なら溢れるほどいる。初級の段階で優勝できないようなら先なんてないよ」
「純くん、それは言い過ぎじゃ………」
思わず庇おうとした慎一郎を夜鷹が視線で止める。
「それに、その子がスケートで一位になることは絶対にない。誰も司には勝てないよ」
その場に立ち尽くす母親と子供はもう夜鷹に言葉を向けなかった。呆然と立ちすくむ姿を傷める心すら持たない夜鷹は気にせずに廊下を再び歩き出す。
覚悟を決めたように、慎一郎は夜鷹の背中に問いかけた。
「純くんは、明浦路選手をどうするつもりなの?」
「金メダリストだよ」
―――僕と同じね。
短く、それでいて絶対的な回答だった。バッジテストで見た教え子のスケーティング技術。何の反論も許さないほどにオリンピックの金メダリスト――つまり世界で一番スケートが上手い選手の滑りをトレースするかの如く氷上に描き出す姿を慎一郎は見てしまっている。
きっと、この大会で何か起こる。そう感じた慎一郎の感覚の正しさはすぐに証明されることになった。
「純さん、一体どこに行ったんだろ……喫煙室にも姿がなかったし………」
いつもふらりと風船よりも不安定にどこかへ行ってしまう夜鷹を探すのにも慣れてしまった。
「スマホ、は……純さんが見てるわけないしな」
あまりしつこく連絡をするとまた癇癪でスマホを投げ壊すかも知れない。というか今もうすでに壊している可能性すらある。
スケート用の衣装の上からいつもの上着を羽織った司は探し人を求めて会場を彷徨う。廊下にまで聞こえてくる拍手の音。まだ自分の滑走順までは余裕があるが、こうして意識してしまうと気がせいてしまう。
人生で初めての大会で自分が思っているよりも緊張しているのかも知れない。
スケートを始めて、夢見ずにはいられなかったオリンピックの大舞台。衣裳を身につけ夢への入り口に立っている。
どこか夢心地の浮かれる足で、司は夢の語り部を探して進む。
「夜鷹純がコーチで来てるってまじ?」
「さっき歩いてるの俺見たぜ」
「うわっまじ?俺サイン欲しいかも!」
曲がり角付近から聞こえてきた声。
司にとっても自慢のコーチへ賞賛に、気持ちはわかると思わず頬が緩む。
夜鷹純は司が想像していたよりもずっと困った人で生活能力がなくて今まで出会った人間の中で一番手のかかる大人だった。けれど誰よりもスケートが上手く、誰よりも不器用で、誰よりも傷ついてきた人だった。
司にとって夜鷹純は人生を変えた人物で、夢見る資格をくれた人物。この場にいる全員が、夜鷹純の名を知っている。
それがどれだけ凄いことで、誇らしいことか。俺は、こんなすごい人にスケートを教えてもらってる。それは確かな優越感だった。
「俺コーチから聞いたんだけど、今教えてるの大人になってスケート始めた奴なんだろ?」
その後に続く言葉に滲む明確な侮蔑に角を曲がることなく司の足は止まった。
「あれ本当なのかな」
「らしいよ」
「どのクラブからも引くて数多だろうに、なんでわざわざそんなハズレ引いたんだろうな」
「自分がメダル取りすぎて飽きたんじゃない?それか親が死ぬほど金積んだんだろ」
「金でメダル買ったのかね」
「うちの親も言ってた。いくらで引き受けたんだろうって。だってそれ以外に理由なんてないじゃん。そもそも二十歳すぎてスケートやるような道楽者だぜ?才能以前にそもそも持ってなきゃいけない運すらない。目をかけたって無駄だろ」
「言えてる」
「そんな奴が金メダリストの指導を受けられるなんて、世の中って理不尽だよな」
耳が笑い声すら正確に拾い上げる。
彼らが言うことは間違っている。司には夜鷹に金銭的なお礼をできるような余裕はない。実際にコーチ費用だって満足に払えていない。今司が負担しているのは使用しているスケートリンクの使用料だけだ。
学校卒業後は毎日のスケートリンク代を稼ぐためにアルバイトを掛け持った。スケートにはお金が掛かる。上にいくなら尚更だ。始めるタイミングもだが、金銭的にも司は恵まれなかった。親にすらスケートをやりたいと言えない臆病者だった。
(純さんは、お金なんかで動く人じゃない)
彼らの言うことは正しくない。けれど根本的なところは間違っていない。
無意識に込めていた拳の力を抜く。
本来であればなんの結果も残していないどころかスケートを学んだことすらなかったような人間が、指導を受けられるような存在ではない。
その一点において、彼らの言葉を否定するものを、司は何も持っていない。
「でも記念受験も終わるだろうし、うちのクラブに来てくれねぇかなー」
「夜鷹純にスケート教わってみたいよ俺も。四回転見せてくれるだけでもいいし」
「あか、あき……なんて読むんだこいつ?」
「さぁ?別にいいだろ。どうせこの先見ることなんてないんだから」
司がいかに本気でも、結果がない今挙げる声は誰にも伝わらない。結局話し声が遠ざかって聞こえなくなるまで、司の足はその場から動かなかった。
音がこちらに向かってこなくてよかった。気づけば足元を見ていた視線を戻す。
「……戻ろう。試合前にストレッチしておかなきゃ」
司はただ来た道を戻った。滑走まではまだ時間がある。それでも無駄にできる時間なんて司にはなかった。
最終滑走前、リンクサイドに司と夜鷹が並んで立つ姿に観客の囁き声が増す。
実際の夜鷹を見つめる視線の多さは、それだけ彼のスケートが芸術的で人々に感動をもたらしたということの証拠だ。司のこれからの演技を色眼鏡無しで見るものはいないだろう。誰もが司に夜鷹純を見ている。
フリーはシングルの順位で滑走順が決まる。厳選なる抽選の結果、運良く一番滑走を免れた。すでに他の選手の点数が出ている。まだフリープログラムがあるとはいえ、ショートプログラムの結果は表彰台の順位に大きく影響する。ここで逆転できないほどの点差をつけられてしまえば一位には手が届かなくなる。
「普段通りにやればいいから」
上着を脱いだ司とリンクサイドで向かい合う。
氷の上にいる司と、陸地にいる夜鷹の視線が朝焼けのように交わる。きっと本来であればあり得なかった互いの立ち位置。
「…………司?」
「きっと、俺以外にも純さんの生徒になりたい人はたくさんいたでしょうね」
夜鷹純という存在がどれだけ偉大で尊いものなのか。夜鷹が残した伝説と金メダルの数がそれを物語っている。
人生で一度も勝利を手放さなかった男。勝利の女神に愛された――いや、氷に魂を売った男。
コーチすらも置き去りにするように、たった一人で戦い抜いた孤独の全てを司は知らない。そしてそんな夜鷹のスケートに人生を狂わされた司がその苦悩を理解できる日は来ない。
「俺よりもスケートが上手い人は沢山いて、俺よりも才能のある人も沢山いて。俺は貴方がコーチになってくれたお陰で救われたけど、きっと純さんにとっては俺じゃなくてもよかった」
それこそ、もっと幼いうちからスケートを始められる、未来の可能性にあふれた子供でだってよかったはずだ。
司でなければならない理由なんて何ひとつない。それは他でもない司自身が一番よくわかっている。
あの日、司は願った。
夜鷹が気まぐれで願いに応えてくれた。正に奇跡だ。
スケートの神様に愛されなかった俺に、与えられた最後のチャンス。誰に何と言われようとこの幸福を、手離せるはずがない。この幸福に縋るしか、スケートを続けられる道はない。
(それでも俺は―――)
だから司は誓いを立てる。拳を握り、顔を上げる。
「俺が証明します。俺を選んだ夜鷹純の目は間違えてなかったんだって、純さんに俺を選んでよかったって言わせてみせる。俺を見つけて手を取ったことが正解だったって世界中に証明してみせます」
犠牲がなければ強くなれないとコーチである男は言った。
師事を受けてなお司はその考えが理解できていない。だって司のスケートは全て夜鷹純から与えられたものでできている。それまでの人生を一変させるほどのスケートへの感動も、誰かに自分の人生を肯定欲しいという弱さも、憧れの人の唯一の教え子でいられる幸福も、その全てを夜鷹純がくれた。己の中になかった何もかもを、貴方がくれた。
司のスケートの根幹は犠牲ではない。もちろん氷の上に立ち続けるために犠牲が必要だと言うのならその代価を払う覚悟はできている。それこそ躊躇いなく魂だって差し出すだろう。
司は犠牲で強くなったわけじゃない。少なくとも司自身はそう思っている。だからこそ証明したい。俺は犠牲ではなく、貴方に救われて強くなったのだって。貴方のくれた光で輝くことができたんだって。貴方の月のように孤独に寄り添う優しさが俺を救ってくれたんだって、声を大にして世界中に叫びたい。
だから負けられない。
負けたくない。
―――夜鷹純のスケートは、誰にも負けたりしない。
「貴方がコーチでいてくれる夢みたいな現実を、誰にも覚まさせたりしない」
また外野の声が入ったな。司の発言に夜鷹は確信を持った。大衆の無責任さをよく知る夜鷹は、心の中で本当にろくなことをしないと吐き捨てる。
何に影響されての司の言葉かは容易に想像ができた。周囲の雑音に耳に傾ける必要なんてないのに、この子は耳がいいのかようそう言った言葉を拾ってきてしまう。人が良すぎるのだ。慎一郎くんの息子のこともそうだ。あれを気にかける必要はないし、根拠のない希望的な言葉に価値はない。それでも心ある彼はそれを一つ一つ拾い上げてしまう。
本当に、邪魔だな。
周りも、この子自身も、夜鷹がコーチを引き受けた理由を何一つわかってない。
「……何か勘違いしているようだけど、俺が君を選んだんじゃない。君が僕に選ばせたんだ」
俯いていた司の顔が上がり、サングラス越しに視線が交わる。
「最初から君以外の面倒を見る気はないよ。確かに他にもいたかもしれない。けど他の誰でもなく、君のコーチを僕は引き受けた。僕の選択に間違いはないよ」
呪いのような、輝く金色が夜鷹の正しさの証明であり、それは数学の公式のように絶対的なものだ。誰ににも何にも覆せない。
「オリンピックで金メダルを取るために、何の結果も出していない君が日本代表に選ばれるには全日本選手権大会で優勝するしか道はない。そしてその大会に出場するにはこの予選ブロックを勝つしかない。君には勝つ以外に道はない。それは前にも言ったよね」
「……はい」
「ここで勝てないようならどうせ世界じゃ通用しない」
「はい」
「他人の言葉に心をさくような余裕は君にはない。君が今すべきことは自分の演技に集中することだけだよ」
「はい」
「君がずっと憧れていた場所に今君は立ってる。わかっているならもう言うことはないよ。普段通り滑るだけでいい。それだけで君は必ず優勝する」
「はい」
「……僕の言葉が信じられない?」
「……いえ、俺は貴方の言葉を信じてます」
貴方が俺を金メダリストにしてくれると言ったあの雪の日の約束だけを、ずっと。
まっすぐな、揺れることのない瞳が夜鷹を射抜く。この瞳が、夜鷹に自分を選ばせた。
わかっているのならこれ以上言うことはない。逃げ場の無い氷の牢獄へ、進むその背を言葉で押す。約束を果たすために、夜鷹はサングラスを外した。
「見てるよ、ちゃんと」
「―――はいッ!」
言葉に背中を押された司はスケートリンクを一周して中央でブレードを止める。
その場に片膝をつき腕を十字にクロスさせ、片手の親指と人差し指だけを伸ばす。まるで弓を引き絞るようなポーズで手で作った照準の先を、審査席に向ける。
『――――番、明浦路司選手』
ふっと短く吐かれた息。そして音楽が溢れ出す。
誰もが摂理を思い出す。
月が沈めば太陽が昇るのだ。
『――――現在、第三位です』
「よっしッ!!!」
演技後にキスアンドクライで得点が発表され、思わずガッツポーズが出た。
ジャンプの転倒が響き自己ベストには及ばなかったがそれでもステップには加点がついた。残るは最終滑走の一人、このままいけば表彰台に登れる。
キスクラでほっと肩を撫で下ろす。この日のために努力を重ねてきた。コーチと共に何度も試行錯誤を繰り返し、調整をしてきた。5歳からスケートを始め、シニアになった今自分の進退がかかっていることも自覚している。今回の全日本がこの先の人生を決めるだろう。
普段から演技に影響がないようにと自分の試合が終わるまでは他の選手の演技は見ないようにしていた。最終滑走は……あぁそうだ、あの夜鷹純がコーチを務めるイレギュラーな男だ。
伝説のメダリスト、夜鷹純。過去一度の敗北もなく引退したその演技に憧れないスケート選手はいない。
それはちょっとした好奇心だった。選手としての実力はコーチとしての実力とはイコールではない。選曲も今までの夜鷹純のものとは違う。リメイクではなく、夜鷹純が選んだオリジナル。夜鷹純のコーチとしての力を見てやろう、そんな気やすさで視線を向けた。
それが、地獄への入り口であるとも知らずに。
音楽が溢れ出す。
引き絞った弓矢が放たれるように、そのスケートは始まった。
曲は―――歌劇『魔弾の射手』序曲
たったステップ一つで、その男は観客の意識を変えた。
恐ろしいほどの加速だった。風を切る音すら聞こえてきそうなスピードと裏腹に、指先までもが視線に残る。それだけ丁寧に、端部まで神経が通い切った演技をしている証拠だ。
(うまい…………)
その恵まれた手足の長さがなければ生み出せない迫力と、相対する割れ物のような繊細さ。
ステップ一つで人を感動させられる選手はそうそう多くはいない。音と混ざり合う振り付けが、まるで花開くように氷の上に咲き乱れていく。その表情一つ一つにすら目を奪われる。
音楽に乗り、氷上を横断するステップ。スケートに関わるもの全員が憧れずにはいられなかった夜鷹純のスケーティングとそっくりで。
(いや、ステップだけなら夜鷹純よりも――――)
頭を振って、浮かんだ思考を払いのける。そんな馬鹿なことがあるもんか。あの夜鷹純だぞ。勘違いだと思おうとして、ステップ中にさらに速度が上がった瞬間を見てしまう。
「うそ、はや……」
夜鷹純がコーチをしている男は二十歳からスケートの指導を受けた青年だと噂になっていた。やっぱりあれはデマだったんだ。だってそんなわけない。スケートの指導を受けてまだ片手以下の数年の人間に、こんな演技ができてたまるものか。
幼い頃から全てを犠牲にしてきたスケートだ。全てを賭けて磨き上げてきた氷の上の技術だ。そうまでしなければ、世界は目指せない。スケートは幼くして始めなければ門が開かれないほど過酷に他人を排除する競技なのだ。どれだけ足掻こうが、積み重ねた年数と減らしつづけたブレードの数による経験の差は埋められない。最低でも幼少期から始めた選手たちが現役である限りは絶対に。
そのはずだ。それがスケートだ。それが残酷な氷の世界の常識だ。
だから、きっと間違えてるのは噂の方だ。噂の方であってくれ。それはもはや懇願だった。
(前を、向いている)
「え、アクセル?」
そして彼はーーー跳んだ。
シュッと氷を削る音すら澄み切っていた。一切濁りのない、ジャンプの中で唯一前から跳ぶ無駄のない4回転アクセル。
着氷した。間違いなく、前を向いて跳んだ。
そんなことができるビギナーなんているわけない。
世界でも数人しか滑れない最難関のジャンプであり、公式な大会で成功したものはさらに少ない。少なくとも今大会でそれを跳んだ人間は、否、跳べる選手はいなかった。
「嘘だ…………」
次の4回転ルッツも文句のつけようがない。
跳んだ瞬間に着氷を確信させる程に安定した重心はスポットライトの光も相まって天から糸でも垂れているのではとすら思ってしまう。
粗を探すのが困難な、完璧な空中姿勢。回転数で周りなんて碌に見えていないはずなのに、着氷後十分な加点姿勢を取った後はなに事も無かった様に美しく氷の上を滑っていく。頭の上で音を鳴らして組まれた手がゆっくりと解かれていく。
その後も次々と繰り出されていくジャンプ達に、言葉が出ない。
「ねぇ、まだコンビネーション跳んでなくない……?」
背筋が凍りついた。
確かに後半のジャンプは大きな加点に繋がる。しかし加点があると言うことはそれだけ難易度が高いということだ。しかも後半に全てのジャンプを持ってくるなんて構成は、加点目的だとしても多くの選手は選ばない。いや、選べない。後半になるにつれて体力が消耗し、ジャンプの成功率は下がる。失敗しやすいコンビネーションとなると相当の自信がないとできない戦法だ。
確かに夜鷹純はそうしていた。夜鷹純のプログラムはそもそもが人間が滑ることを想定していない、加点のみを追求されたものだった。そのため誰も再現などできず、彼だけにしかできないプロとして伝説のまま誰にも汚されずに今なお歴代最高得点を譲らない。
けれどあれは夜鷹純だからこそできた芸当だ。他の誰にも真似できない代物だ。そんなことができるのならば、この時代に再び〝夜鷹純〟が凱旋することになってしまう。それこそ天変地異だ。
天に二つ、月が昇ることはあり得ない。もしもそんなことになれば再び氷河期がスケート業界を襲うだろう。氷に愛された者しか生きることの許されない極寒の世界が、再び芽吹いたはずの春を終わらせる。
スケートは奇跡を見守るスポーツだ。なのにどうしてこんなにも胸がざわつく。期待や希望にではない。底知れない恐怖にだ。
〝夜鷹純の再来〟
そんな化け物が世の中に二人もいてたまるかと、その噂を笑い飛ばした。
しかし現実は空想より残酷だった。美しかった。これが師事を受けて数年の演技であると信じたくはなかった。まるで羽が生えているような軽やかさで再び空を恵まれた体躯が舞う。
4回転サルコウ――着氷。
しかしそれで終わらない。勢いを殺さないままにシングルオイラーそこからの3回転フリップ。あまりにも沈むことのない、加点必須のコンビネーションジャンプ。
「……は?」
そして3回転ルッツからの3回転トゥループ。
そのジャンプの勢いのまま、長すぎる片足が持ち上がる。
(着氷の衝撃で足の感覚なんてわからなくなっているはずだろ?)
その恵まれた体格だからこそまるで世界を切り裂くような迫力で転回される、観客の頭を金槌で殴りつけるようなフライングキャメルスピン―――からの足替えコンビネーション。
夜鷹純だけが当たり前のようにやってみせた、頭のネジが外れているとしか思えない振り付け。スケートに愛された、スケートの悪魔に魅入られた者にしかできない技。
「ははっ……」
そのフライングキャメルスピンの一蹴がひいた、確かな一線。越えられない、天才と凡人の境界線。
この場に立つ誰もが、幼い頃からスケートを始めた。上手くなりたいと、メダルを取りたいと足掻いてきた。それこそ文字通り人生の全てをスケートに捧げてきた。シニアもなれば今更引き返すことはできない。
なぜもっと、早く現れてくれなかったのだろうか。もっと早く、それこそジュニア時代に出会っていれば、きっと違う未来があった。才能がないと早く見切りをつけて、スケートをやめていれば違う道をいくらでも模索できたはずだ。多分泣いた。泣いて苦しんで、それでも諦められた。
何で今なのか。もうスケートしかないのだと足掻きもがいた先で、こんな絶望と出会ってしまったのか。悲劇―――いやこんなものは喜劇だ。もう笑うしかない。
「こんなのに勝てるわけない……」
二十歳からスケートを始める。そんなのは異常だ。趣味なら何も問題ない。そこから始めてオリンピックを目指そうなんて考えを持つ人間の思考回路がイかれているのだ。そこで自分には運がなかったと諦めきれない時点で、完全にタガが外れている。
確かに紙面上は予選大会の参加資格はバッジの有無のみで、それさえ満たせば誰にでも門は開かれている。それこそ過去の戦歴など一切関係ない。けれど現実はそうじゃない。
記念的な参加ならまだ理解できた。だが、この演技構成が何より雄弁に物語っている。
これはオリンピックで金メダルを取るためのプログラムだ。
ただそれだけの目的のために踊るのが人間であることを考慮に入れていないと思ってしまうほどの、人間離れした技の選択。
最初からオリンピック優勝にだけ焦点を絞った高すぎる難易度のそれは、予選であるこの大会にはある種相応しくない。ブロックを勝ち抜くにしたってリスクがあまりにも大きすぎる。下手したら全てが無為になる可能性すらある。
確かにこれを踊り切れる選手がいれば、間違いなく頂に立てるだろう。けれどそんな人間はいない。過去銀メダルを取り4回転を跳んだ鴗鳥慎一郎でもここまでではなかった。いないはずだ。いないばずだった、のに。
「なんで……」
なのにそれは突然、このリンクに登ってきてしまった。
どうしようもないほど理不尽に、逃れようのないほどの眩しさで、それはリンクの上を照らした。
最後まで、その演技は完璧だった。おざなりになりがちなステップシークエンスは審査員資格のない人間の目にも上手さと言う形で加点が約束されたことをわからせる。回転数をさらに上げていくフライングシットスピンから手が上に解け、足が後ろに下がる。繋がったブロークンレッグ。
美しいスケートだ。目を奪われる、誰が見ても美しいと感じさせる瑕疵のないスケート。夜鷹純を完璧にトレースした、約束された勝利のスケート。
夜鷹純は良くも悪くも日本の、いや、世界のスケートを変えた存在だった。そしてその輝きの裏で、多くの人間が氷の上を去っていった。夜鷹純が存在する限り絶対に1位は取れないのだと思い知るから。それでもその輝きに魅入られ、スケートを始めた選手だって多くいるのも事実だ。
そんな夜鷹が見出した原石は、氷上を優雅に舞う。楽しいと身体中で表現しながら、難しい技を次々とこなしていく。捧げた時間を、費やしてきた努力を、才能という翼で軽やかに飛び越えていく。
難しいことを難しいと感じさせない。輝くその美しいスケートに観客たちは心を奪われる。息を呑む耽美なスケートに、きっと世界は再び発狂するだろう。夜鷹純がスケート業界に夜をもたらし、唯一の光源として天に君臨したように。
あれは月ではない。月が沈み、登ってきた太陽だ。
きっとその輝きは多くの人間の目を焼くだろう。そして男子フィギュアスケート界を蹂躙し、自分と同じような人間を数多く頓死させるだろう。逃げ場のない降り注ぐその光から誰も逃れることはできない。まるでアポロンの矢のように、その輝きが矢のように突き刺さり氷上を地獄に変えるだろう。
「そんなに楽しそうに踊るなよ……」
冷たい氷を溶かすようなそのスケートが、まるで地獄で鼻歌混じりにダンスを踊っているかのようで。自身が生み出す地獄を知ってか知らずか、溢れる笑みはどこか神聖すら感じさせるものだった。
きっとその目に自分たちは映っていない。ただ頂である金色のメダルだけを追い求めて滑る。ただ上だけを、前だけを進むその瞳が栄光への階段となった灰に気づくことはない。終盤に進むに連れて、音と共に会場全体に熱が広がっていく。炎のように、さらに燃え上がるステップ。
氷の上の常識をその身一つで燃やし尽くす、直視できないその存在。愛した氷の冷たさを、その存在が奪いさる。
「もっとはやく、スケートを始めていたら………」
始めてくれていたら、もっと簡単に諦められたのに。
座り込んでいたキスクラから立ち上がる。早く汗だくになった衣装を脱がなければ。もう点数を待つ意味もない。コーチと共に、ゆっくりとカメラに背を向ける。きっと二度と、ここに立つことはない。これが最後だ。
向けた背で、地鳴りのような拍手を受け止める。ふ
自分の肩を抱くコーチに支えられて、氷上に背を向けた。頬を流れた液体は、きっと汗だ。
一人で氷の上で滑ってきた。
その競技に惚れ込んだ時にはもう遅く、入り口は固く閉ざされていた。それでも諦めることなんてできなくて、何が正解かもわからないまま画面の中の映像と教本だけを頼りに氷の上でもがいた。
その中でもジャンプは特に成長が見込めなかった。転倒すると馬鹿でかい音がリンクに響き渡る。身長がある分それは余計に大きく、リンクに所属できず貸切練習にも参加できなかったため滅多にジャンプの練習はできなかった。一般参加の客に混ざって危険な技を試すこともできず、陸地で一人飛ぶだけの日々。地面に足はついても、氷上の成果にはつながらなかった。
スケーティングについては他の先生方にも指導を受けたが、ジャンプは全て夜鷹純から教わった。夜鷹純の代名詞である4回転アクセルも間近で見た。勝手に見て覚えろ、という指導スタイルのため一度手本を見せた後、
「見た?やって」
そう氷の上を指さされる。目にしたばかりのイメージと自分の動きを脳内で重ね合わせる。限界まで齟齬をなくし、振り切りのタイミングを確認して、そして跳ぶ。
何回も転倒した。衝撃で体はあざだらけになった。それでも飛び続けた。がむしゃらだった。けれど今の司には夜鷹という光明があった。正解が目の前にある。答えがわかっている。そのために必要な過程を、計算式を探し求めていく日々は、答えがあっているかもわからず苦悩した日々とは雲泥の差だった。
ただ正しい答えを導けるように、それだけを求めて滑り続けた。
夜鷹は司の失敗を見ていた。
「………できないね」
呆れられたと思った。それはそうだ。失敗ばかりで飛べない、貴方になれない俺に価値はない。
その次の日から夜鷹はスケートリンクに現れなくなった。夜の貸切も匠先生が付き合ってくれた。
「気にしなくていい。勝手に時間が経てば戻ってくる」
匠先生はそう言った。まるで渡り鳥みたいな言い方だった。鷹に帰巣本能はあっただろうか。そう考えて、別に彼の帰るべき場所がこことは限らないと思い至る。
匠先生は俺はジャンプは教えられないと言い切り、スケーティング技術を磨く日々が続いた。連絡先も知らなかった。本当は4回転アクセルを飛べるようになりたかった。それさえできれば、また夜鷹が帰ってきてくれるんじゃないか。そんな焦燥感から一人飛び続けたが答えはもう司の前にない。脳裏に焼きついた光に手を伸ばして跳んだが、そんなやり方では疲労骨折に繋がるだけだとジャンプを禁止された。未来が閉じる音だけがした。
それから一ヶ月後、何事もなかったように夜鷹はリンクに現れた。存在も知らなかったさすらいのハーネス師だと名乗る人物を引き連れて。魚淵に吊られたその日に司は4回転アクセルを跳んだ。最初は何とか飛べただけだった。着氷姿勢だって酷いもので、足の開きも減点の対象だ。それでも、跳んだ。
4回転を着氷したと同時に子供みたいに泣いた。飛べた嬉しさもあったが、何よりもまだ自分はこの人に見捨てられていなかったのだという事実に流れる涙を止められなかった。
絶対に金メダルを取ること、そして曲かけ練習で1度も転倒しないこと。その絶対を守ることだけが司にできることだ。
そのどちらかでも守れなかった場合はスケートをやめる。そういう約束だ。だがその約束がなかったとしても司に次はない。他の選手と始まりが違う司には次なんて存在しない。いくらでも、何度でも、出来るまで、可能性だけに縋ることはできない。転べば終わりだ。立ち上がることを、司の年齢と環境が許さない。
スケートを始めた時、すでに夢見る資格すらなかった。
(勝てば、夢を見続けていられる)
それだけで構わない。月に手を伸ばすことが許される。それだけで構わない。それすらもできなかった、あの日の悲しみを抱いて、氷の上を滑る。
ここが好きだ。
氷上が好きだ。
スケートが好きだ。
夜鷹純の滑りが好きだ。
氷の上で生きられる今が好きだ。
呼吸が苦しい。休みない振り付けが酸素を奪う。足の感覚なんて随分前からもうない。
辛くて、苦しくて―――楽しくて。
夜鷹純のスケートが人生を変えた。
彼のスケートに憧れて平穏を捨てた。
そんな憧れの人に夢見る翼を与えられた。
だから、俺は跳べる。どんなに辛くても、苦しくても、息ができなくても、今ここで人生が終わっても、たとえ骨が折れたとしても、このジャンプだけは成功させる。
貴方がくれたスケートを滑り切れるのは俺だけだって証明したい。誰にも負けない。誰にも貴方を奪わせない。
(俺が欲しかったのは同情や優しさじゃない。今この時から現実を変える強さだ)
あの日貴方に縋りついて泣くことしかできなかった自分は氷の上にはもういない。体が燃えるように熱かった。体の中で爆弾みたいに心臓が跳ねる。
歯を食いしばり、ぐっと顔を上げる。照明に照らされた観客席がぼやけて見える。それでも。祈るように振り付けのままに手を伸ばす。
誰にも認められなくても、誰に必要とされなくても、それでも俺は滑りたい。氷の上に立ち続けることを許される人間でありたい。夜鷹純の弟子だと名乗っても恥ずかしくない自分でありたい。―――貴方を、他の誰にも譲らない!
この曲は夜鷹純が選び、あのレオニード・ソロキンが振り付けてくれた、世界で俺だけのプログラム。
(俺の人生の―――宝物)
この曲は、悪魔と契約をして絶対に命中する魔弾を7発手に入れた主人公の御伽話。彼と気持ちを重ねるのは容易かった。彼はどうしても射撃大会で優勝したかった。愛する女性との結婚と、将来のかかったその大会。当たらなくなった自分の弾丸。彼は勝利を欲した。何を捧げても、何を犠牲にしても、勝利が欲しい!―――たとえ悪魔に魂を売ってでも!!!
悪魔との契約は、男にとって唯一の希望だ。未来を夢見るために与えられた弾丸。最後の一発の行方などどうだっていい。どうなったって構うものか!神にすらとっくに見放されてるんだ!勝ちたい、勝たなきゃ、勝てなきゃ!
〝―――そこに僕の未来はないのだから!!!〟
最後のジャンプのためにふっと息を吐く。一つ一つ成功までの道筋を確認していく。氷の上に散らばった成功へのピースを集めて、踏み切った。
1、2、3……4!
(降りる、降りる、降りろッ―――降りろ!!!)
回転数は問題ない。閉めていた脇を開き、両手でバランスを取りながらしっかりと体重の重心をブレードで受け止める。足にかかる衝撃はそのままに、シングルオイラーで体制を変え、解禁された左脚で跳ぶ。自分が着氷するポイントを俯瞰で意識しながら、しっかりと氷をつかむ。
(降りれた―――ッ)
すこし手を開くのが早かったか。これじゃ大きな加点は期待できないかも知れない。後悔に浸る暇はない。いつだって、たとえ転んで絶望的な演技になったとしても絶対に笑顔は絶やさない。内側から溢れる感謝と歓喜のみを表に出す。
そのまま続けたフライングキャメルスピンは褒められることが多かった。アイスダンスの匠先生にだって褒められた。油断はするわけではないが、ミスを考えることはない。ジャンプは全て飛び終わった。反省点はあるが転倒はない。着氷姿勢も教えてもらった通り意識し切った。手持ち全部のカードを切った。
自分の全部をかけて、スケートのために命を燃やし切れるなら花火のような短い輝きでもいい。命を惜しむな。燃やせ。貴方のくれた奇跡で、この氷の上で輝きたい。
きっと俺は、誰かを照らせるような光にはなれない。誰かのためには滑れない。俺は俺自身のためにしか滑っていない。俺が、ここにいるために。俺が夜鷹純を手離さないために。俺が、夢を叶えるために。どこまでも自分勝手なスケートだ。
ここで生きていたいんだ。恵まれなくとも、遅くとも、可能性なんてほとんどなくとも、誰に諦めろと言われても、滑ることをやめられなかった。氷の上で生まれなかった。ならせめて氷の上で燃え尽きたい。
スケートをもっと早くに出会わなかったことをずっと後悔してきた。スケートをやりたいと家族に言えなかったことも。きっとこの先も一生後悔して生きていく。だからこそ、もうスケートで後悔したくない。
氷の上を絶対はない。転倒の危険は常にある。普段できていたことができないこともある。やり直しがきかないたった一回の演技が、どれほど重いのか。その入口に初めて立って思い知る。それでも、
(―――楽しい)
いいな、みんなはこんな楽しさを何度も味わってきたのか。
ずるい。いいな。スケートは、氷の上で滑ることはこんなにも楽しい。
自然と笑みが溢れた。キラキラと天井のスポットライトが輝いている。降り注ぐ光を浴びながら、ゆっくりと回転を遅めていき、曲の始まりのように氷の上には片膝をつく。右手を肩に添え、氷に誠意を示す。
そして音楽は鳴らなくなった。自分の荒い息だけが唯一の音源となる。
――――完走。
しばらくの静寂がその演技がもたらした衝撃を物語り、感動を人々が理解したその瞬間。
氷上の夜明けにゲリラ豪雨のような拍手が降り注いだ。
完走後、スタンディングオベーションの中で司はしばらく動けなかった。思い出したように四方向に頭を下げ、真っ直ぐに氷上を後にする。
リングサイドに向かって滑ってくる司は、夜鷹見つめてホッとしたように目尻を緩めた。その頬は上気しており、まだ興奮冷めやらぬ様子だ。
ブレードにガードをつけ、二人はそのままキスアンドクライに座り点数を待つ。滝のように流れる汗を拭いた司がふっと肩の力を抜く。
「今日は落ち着いてるね。昨日はあんなにキョロキョロしてたのに」
「昨日はその、夢にまで見た初めてのキスクラだったので!」
昨日とは違い落ち着いた様子ではあるが、緊張からかソワソワと体が動いてしまっている。じっとしていられない子供のようだ。司の視線は不安げに揺れている。
「そんなに緊張する必要ある?もう結果は出てるのに」
それでも本人としては不安なのだろう。はい、と返事が返ってくるものの夜鷹への返答もどこか上の空だ。
そして点数がアナウンスされる。夜鷹はそこに表示される順位ではなく、単純に点数だけを見ていた。自己ベストであることは間違いない。そもそも司にとって初めての点数なのだから今のところ一番しか存在しない。プログラムは完璧に滑れば現在のフィギュアスケート界でも最高の点数が出るように調整してある。実際予選とはいえ二位とは大差がついた。加点もついているし悪くない。けどもう少しさらに上を目指せる余地がある。
司が優勝することは夜鷹にとって当然で、驚くべきことは何もなかった。
確かに始めた時期は遅かった。けれど可能性を全て捨てるにはまだ若さがあり、そして圧倒的な才能があった。鷹の目と呼ばれる常人にはない空間把握能力。加えてイメージ通りに体を動かせる高い運動神経。恵まれた体格と手足の長さ。ジャンプをしてブレない体幹の良さに、突出した学習能力の高さ―――そして氷への異常な執着。
環境と運以外の、スケート選手に必要な全ての才能を余すことなく持って生まれてきた。凡人がいくら時間と金をかけても手に入れることができない圧倒的な才能。捨てるには惜しすぎた。
夜鷹のようになりたいと泣いていた冬の日、夜鷹は司と契約をした。司を夜鷹だけが知る地獄へと導いた。他の優しい誰かの手では絶対に辿り着けない、栄光と破滅の道へだ。司は躊躇いなくその手を取った。迷いなく地獄を選んだ。あの日の司の叫びのような演技は夜鷹の心を確かに焦がした。
「最後のジャンプは腕を開くタイミングが早すぎたね。落下点を意識できていたけど、その分脇の締めが甘くなってた。今回は減点はなかったけど次は回転不足を取られる可能性があるからそこは本番までに修正して……」
横にいる司に視線を向けた夜鷹は指摘の羅列を止めた。きっと今説明しても後で同じことを言うハメになる。
ぽたぽたと、流れる雫がライトに照らされてまるで宝石のようにキラキラと光り頬を伝う。泣きじゃくることすらせず、ただ真ん丸に見開かれた瞳からとめどなく液体が落ちる。
普段あんなにも感情がうるさいくらいなのに、氷の上とこう言う時だけは酷くこの子は静かになる。
結果なんて見る前からわかっていただろうに、泣く理由がわからない。加点が弱いところはあれど、ステップシークエンスはGOE+5を取れるものだったし、本来この点数差ならジャンプを三つ転んだとしても余裕があるほどにそもそもショートプログラムの時点で差がついている。その上で転倒もなし。司の優勝は彼の滑りを見た全てのものが確信していた。まだ予選であり、シード選手もいない。そもそも司の実力であれば優勝しないはずがない。それだけのお膳立てと準備もしていた。
本番に弱い可能性は大会でなければ確認できないが、普段の曲かけからプレッシャーに潰されるということはまずない。実際にショートの演技で本番でもなんの問題もないことは確認できた。
当たり前の、驚くこともない当然の勝利だ。
「……ぁ…………」
夜鷹には理解できない。わからないが、夜鷹は手袋をはめたままの右手で水分に濡れるその目尻を拭った。
「君は泣き虫だね。一人にしても泣くし、勝っても泣くし。予選の勝って当たり前の試合でこんなに泣いてたら本番はどうなるのか逆に少し気になってくる」
「ごめん、なさ………」
「別に謝らなくていいよ」
「これが、君が見続ける光景だ」
画面に表示された1位。惜しみなく送られる拍手と声援。夜鷹にとって見慣れた当たり前の光景。それをまるで宝物のような受け止める教え子は、震える手で夜鷹の服の袖を掴んだ。
「ありがとう、ごさいます」
「俺を見つけてくれて、あの日手を差し伸べてくれて、俺をこの場所に連れてきてくれて、俺に、俺にスケートをくれてッ」
「ありがとうございます……ッ」
あぁ、また泣いた。
夜鷹は何も言わなかった。
人を泣き止ませる方法なんて知るはずもない。何も言わずにただ泣き続ける司の横に座っていた。どうせもうこの後は表彰の準備で時間がかかるし、もうこのキスクラに来る選手もいない。
まだ入り口の段階の、勝って当たり前の予選でこんなに泣いて大丈夫かと言う気持ちはあるが、これで涙が枯れるならそれはそれでいい。
司が掴み取った勝利だ。好きにすればいい。
「……どういたしまして」
ただでさえ大きい眼がさらに大きく見開かれる。
「う、ぁ……あッ………!」
司はさらに嗚咽をこぼして泣き出した。
涙を止める術を知らない夜鷹は、司が泣き止むまで隣にいた。
その泣き顔が映らないようにと、その頭を己の肩に押し当てながらただ愛し子が泣き止むのをまった。
結果が出た後はもうコーチのやることはない。少なくとも夜鷹はそう考えている。
目を離して問題になるような年でもないと、表彰式には参加せず喫煙室で時間を潰した。会場の方から聞こえてくる拍手の音に心はかけらも動かない。今表彰台に立っているであろう司がさらに泣いているかもしれない。そんなことを考えて、どうでもいいかと煙を吐いた。
しばらくして、廊下に人通りが増える。絡まれる前にどこかに移動するかとタバコの火を消した夜鷹の背に、
「純さん!」
「………なに」
振り返らずともその声の主を夜鷹は知っていた。
にしてもここにくるまでが早い。見ればまだ衣装も着替えてない。靴だけを履き替えて、表彰台から走ってきたのだろう。息が少しだけ上がっている。いや、それは興奮からかもしれないが。
「これ、受け取ってください」
差し出されたの見慣れた色のメダル。
「君のものなんだから、君が首から下げてなよ」
司が今日掴み取った、一番星が欲しいと泣いていたそれ。
一番星のような輝きを放つ、ただのメダル。
「ずっとほしかったんでしょ、それ」
司はその手の中のメダルに視線を落とす。そして愛しむように視線を細めて、そっとメダルの表面を撫でた。
「ずっとテレビで観ていたメダルってこんな重さだったんですね。思ってたよりは軽いですけど、すごく重いです」
「矛盾してるよ」
「ですね」
司は泣き腫らした目でくしゃりと笑って、
「俺一人じゃ絶対に手に入れられなかった、純さんがとらせてくれた金メダルです。だから貴方に渡したかった」
「…………」
「俺は、全日本選手権で優勝します。そしてオリンピックに出る。一つしかない一番のメダルを絶対に手に入れる。この後もずっと、スケートを続ける限り俺は絶対誰にも負けない。だから、初めての特別なメダルを、純さんに持っていて欲しいんです」
夜鷹からしてみれば見慣れた色だ。むしろそれ以外の色を知らない。氷の上を降りて、息ができなくなった。元々氷の上でしか上手く呼吸ができなかったし、それだけが自身の価値であるという自覚もあった。陸での生活は地獄だった。氷なんかよりもずっと冷たくて、寒くて、痛い。なんの感動と、熱もない、ただ死なないだけの日々。
そんな日々の中で偶然見つけた、今にも消えそうな灯火。暖を取るには弱く、それでも暖かいのだろうかと手を伸ばさずにはいられない輝きだった。
今や揺らぎは増し、全てを燃やし尽くす業火となった。この子は自分と同じ生き物になる。あらゆるものを壊し、氷の上を蹂躙する。逃げ場のない氷の上であらゆるものを無自覚に、そして人外の輝きを持って焼きつくす。人の心を穿つ、逃れようのない絶望の陽射し。その輝きは夜鷹よりも深く、濃く、苛烈に影を生み出すはずだ。自覚なく、笑いながら、ただ上だけをみて登る光源。
司の頑固さは、コーチである夜鷹を知るところである。これと決めたことに対する異常な集中力と、普段自分のことにだけは卑屈なくせにそこに他人が絡むと絶対に引かなくなるところも。一人で勝手に悩んで暴走して夜鷹が思わぬ方に思考が飛ぶことがある。
明浦路司は最低でも後3つ、メダルを獲得する。西日本、全日本、そして世界選手権大会。その一つ目の特別を笑顔で差し出した。金メダルを取ることに執着はあった。勝利することは絶対だった。それでも手に入れた金メダルに特段思い入れもなく、部屋で埃をかぶっているだろう。たくさんのトロフィーと共に並べられたそれらを見ても、心は少しも揺らぐことはない。物を大事になんてしたことはない。
けれど、なぜだろう。
部屋のどこかで埃を被っているメダルの中に、差し出された金メダルを並べたいとは思わなかった。
「……無くすから、その首にかけといて」
いらないと言おうとして、やめた。
先ほどまでそのメダルがあったであろう胸元を人差し指で示す。
「君ごともらった方が無くさないし楽でしょ」
「―――ッはい!」
金メダルがよく似合う笑顔だと、夜鷹は思った。
「ジュン〜〜〜!」
ノックもせず、レオニード・ソロキンは夜鷹の部屋のドアを開けた。返答を待つことなくそのまま室内にズカズカと上がりこむ。正確にはそこは夜鷹が使用している司のスケートの支援をしている加護家の一室であり夜鷹の家は別にあるのだが、入り浸りすぎてすでに夜鷹の部屋として認識されている。
部屋の明かりもつけずに、椅子に腰掛けた夜鷹はパソコンに映る動画から視線を外さない。夜鷹から突然日本に来て欲しいと連絡があったのは最近のことだ。現役引退後、疎遠になっていた夜鷹からの連絡に驚いたがすぐに面白いことが起きそうだと同じ船に乗ることにした。
「ジュンも食べる?美味しいよー加護が買ってきてくれたこのドーナツ!司の好物なんだって!」
「……いらない」
「えー?こんなに美味しいのに!じゃあ純の分も食べちゃお」
粉砂糖のついた指先を舐めとって、そっと夜鷹の背後に立つ。男が見ている動画の中では、一人の青年が踊っている。
まだまだ荒削りではあるが底知れない才能を感じさせる、氷に愛されなかった青年。自分への尊敬をちゃんと持ってくれているところも加点だし、絵に描いたような善人であるところも好感が持てる。そして何より自覚なしにイカれているところが面白い。ステップひとつひとつから氷への愛がしっかりと伝わってくるのだ。
彼の演技の振り付けを頼まれて、躊躇いなく引き受けた。夜鷹純とそっくりで、全く違う人生を歩んできた彼にはどんな振り付けが似合うだろうか。考えるだけでワクワクした。夜鷹とは違う光を、一体どんなふうに輝かせようかと。
「ツカサのフリーの曲、選んだのジュンなんだって?」
「…………」
「魔弾の射手。有名な歌劇だよね」
僕も嫌いじゃないよ。そう言いながら2個目のドーナツを箱から取り出す。
「射撃大会で勝利を求めた男は悪魔と契約し、6発は射手の臨むところへ……最後の一発は悪魔が望むところに命中する魔弾を与えられる物語。なるほど今の司にぴったりだ」
最初から曲だけは決められていた。
氷の滑り方をトレースした司なら、現役時代の夜鷹のプログラムも踊れただろう。そもそもこの曲はスケートで定番なものではない。
司が選んだものではないのはすぐにわかった。そして自分のプログラムについては加点以外ろくに興味をもたなかった夜鷹自身が選曲したものであることも、曲を聴いた時点で察した。あまりにも司に相応しく、そして裏にいる何者かの存在が分かりやすい。望む未来のために勝利を求めた男と、その術を与えた悪魔。まるで二人のための喜劇のようではないか。
共犯者である男はドーナツの穴から笑って悪魔を覗き込んだ。
「ジュン。君は7発目の弾丸で一体何を撃ち抜くんだい?」
その一発の弾丸の行方を、僕は知りたいんだ。
問いかけに夜鷹は視線を向けなかった。ただ画面の中で悪魔にみそめられた青年が踊り続けている。
宵闇の口角が微かではあるものの確かに上がった。
「………僕らの物語にはカスペールはいない。それだけだよ」
きょとんとレオニード・ソロキンは目を丸くした。
カスペール。主人公の射手であるマックスと共に悪魔と契約した男だったか。自身の助命のためにマックスを悪魔の存在を囁き売った。悪魔の弾丸には制約があった。2人のうち、最後の弾丸は必ずどちらかの命を奪う。
―――なるほど、的は最初から一つだけというわけか。
「ハハハッ!!!」
腹を抱えて思わず笑う。
「面白いね、ジュンもツカサも!うん……いいね、最高のプログラムが出来そうだ!」
それから一週間後、司のフリープログラムは完成した。
後に大衆が『伝説の再来』と称する最高難度のプログラム。しかしフィギュアスケート業界では『悪夢の再来』と囁かれる、悪魔のようなプログラムであった。