テラーノベル
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―─カシャン。
アニスの前に立ったアネモネは、おもむろに己の腕にはめていた腕輪を外すと、それを軽く頭上に放り投げた。
「…… なっ」
アニスが驚きの声を上げると同時に、腕輪が淡い光を放つ。そしてアネモネの手に落ちた時には、腕輪は形を変え、蔦の彫刻が美しい笛となっていた。
アネモネは敢えて、記憶を届ける手段をアニスに伝えなかった。もちろん腕輪が笛の形に変化することも。
人は、虚を突かれると心に隙が生まれる。それが、これから届けようとしている記憶が入る最初の空間となる。
心は自在に大きさを変えることができる。でもいきなり膨大な量を受け入れることができない。そして、隙間がなければ、どれだけ強く訴えても、弾かれてしまう。
アニスは今起こったことが信じられなくて、きょとんとしている。まるでその心の隙間に、お爺様の記憶を注ぎ入れてくださいと言わんばかりに。
そんな彼にふわりと微笑みながら、アネモネは笛を奏で始めた。
冬の終わりの明け方に、アニスは生まれた。
凍てつく季節は、何もかもが灰色に染められる。そんな色彩が消え失せた風景の中に差し込む一筋の光のように、アニスが生まれた瞬間、ブルファ家を取り巻く闇は黎明の風によって遥か遠くに追いやられた。
家族の誰もがアニスの誕生を心から喜んだ。満面の笑みで彼を迎えた。
『あなたは、望まれて生まれてきたんですよ』
真っすぐな家族の想いを伝えるべく、低く重い旋律は次第に温もりを感じさせる優しいものへと変化する。
アネモネは一度も笛の指導を受けたことはない。今、奏でている曲には譜面などない。
心を無にして、受け取った記憶をただただなぞっているだけだった──これまでの自分は。今は、違う。
自分を真っ白なキャンパスだと思い、感情を消して笛を奏でていたのは過去の事。
アネモネは、これを受け取るアニスの未来が幸せでありますようにと祈り、願い、確実に届けたいという意志を持って演奏している。
今回の一連の出来事を通して、紡織師は依頼主の過去に目を向けるのではなく、届けた先の未来を想像することが大切だということを知った。
(……ああ、師匠。私はまだまだ未熟者でした)
行き急ぐあまり、アネモネは最も大事な”寄り添う”ことを見落としていた。
演奏する手を止めることなく、深く自分を恥じたアネモネの笛の音色に深みが増す。
愛しい我が子がすくすくと育ち、毎日が新鮮で美しい驚きを繰り返す軽快な旋律がより一層、彩られる。
目を閉じて音色の響きに身を委ねているアニスの口元は、ほんのりと弧を描いていた。
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