「奥様、奥様」
後ろから声をかけられて振り向くと、須藤百貨店の営業部の課長がいた。
「奥様、人が増えております。お連れしますのでバックヤードへ行きましょう。お姉様はうちの社員が何人かそばについて、エスカレーターでお戻りになる手筈になっております」
奥様、つまり須藤ホールディングスの御曹司の妻である麗のことである。
須藤百貨店の人間にとって麗は佐橋児童衣料の社員ではなく、須藤明彦の妻だ。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
わざわざ課長に連れられなくとも皆、麗の存在など忘れていると思ったが、反駁することなく付いていく。
姉がさながらSPに守られたハリウッドスターのように須藤百貨店の従業員に守られながらエスカレーターに乗る姿が目の端に映る。
その姿もバシャバシャ写真を撮られ、新装開店に向けての話題性は抜群だろう。
「流石はお姉様、大人気でございますね。私もサハシの新装開店が楽しみではなりません」
「その節はご尽力ありがとうございました」
(いまのは嫌味っぽくなってしまったかも……?)
失敗したかと思ったが、課長はにこやかに微笑んだままだ。
責任者である姉が追い出されたためにこの店の改装工事の計画は家主の須藤百貨店側からストップがかかったらしい。
しかし、麗が明彦と結婚したことにより御曹司に恥はかかせられぬと一気に話が進んだ。
つまり、麗という人間の価値は、姉の付属物であり、明彦の付属物なのだ。
バックヤードに入ってすぐ、明彦が待っていた。
「すみません、課長。お手間をおかけしました。私が迎えに行けたら良かったのですが……」
姉に加えて、明彦まであそこにいれば大騒ぎになるから、ここで待っていたのだろう。
「いえいえいえいえ、奥様をお守りするナイトをさせていただけ光栄でした」
サラリーマンらしく自社の御曹司に腰を低くした課長に明彦も頭を下げた。
「本当に助かりました。ありがとうございます。明日の新装開店も、よろしくお願いします」
「ありがとうございました」
麗もまた頭を下げ、明彦に連れられるがまま改装中の店舗に戻るため足を動かす。
二人きりになるとすぐ、腰を抱かれた。
角田との件で麗に激怒してからというもの、明彦のスキンシップは減るどころか増えていた。
まるで、麗が誰の物であるか教え込むかのように。
「麗、大丈夫か? 人に囲まれて怖かっただろう」
「ぜんぜん、へーき。大丈夫」
「覚えているか? 麗はお義父さんの事件のときも、迎えに行った俺に同じことを言った」
そう、マスコミに囲まれてすごく怖かったあのとき、迎えに来てくれたのは姉ではなく赤の他人の明彦だった。
「ああうん、あのときはありがとう。でも私ももう大人やし」
「無理はするな。仕事は辞めたらどうだ? 会社にいれば今のように麗音に利用されるだけだ」
ヒュッと息を呑んだ。
明彦が麗を見つめてくる。とても真剣な瞳で。でもやっぱり、目の奥は爛々と輝いている。
「俺とのこと、麗音からなにか言われているだろう? 例えばそうだな、もう別れていいとか」
「あ、えっと、その……」
大当たりだ。
否定も肯定もできないが、これでは肯定したも同然だ。
「これだけは言っておく。俺はずっと麗に夢中だ。絶対に目を離したりしない」
「わ、たしは……」
「麗音なんか関係ない。麗のこと、俺に守らせてくれ。俺は麗を愛してるんだ」
その言葉はまるで、麗音と違って俺は麗を愛していると言っているかのようで。
「…………仕事のこと、考えて、みるね」
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