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物見の塔の屋上に巨大な鷲の巣があった。枝の隙間から身をねじ込んで、ユカリは鷲巣にたどり着く。
尋常ならざる大きさで、木の幹までもが材料だ。幾千幾万、木の枝重ね、築き上げたる倨傲の塒が塔の頂を占拠する。大いなる影、自由の脅威、大鷲の姿はどこにもない。季節が季節、卵も雛もどこにもいない。
クチバシちゃん人形は枝の隙間に押し込まれ、哀れな姿で見つかった。足場の悪い巣の中を這い寄るように近づいて、ユカリは人形を拾い上げる。円らな瞳を覗き込み、ちょっと試しに揺すってみても、人形が動きだす様子はない。鷲巣をかぶる塔の端へ、えっちらおっちら這い寄って、下で待ってる甲冑を得意そうに見下ろして、手を振り手を振り、歌うたう。
「あった、あった、見つけたよ。ここにあったよ、人形は。今から下に降りていく。あと少しだけ待っててね」
その時、人形動きだし、ユカリの腕を這い上る。頭の上で踏み切って、ユカリの背後へ跳んでいく。鷲巣の方へ跳んで行く。
「哀れ、哀れ、這いずる者よ。我が嘴に貫かれ、相応しき処に戻るが良い。叫べ、叫べ、不遜な者よ。我が腹の内に収まるが、分不相応の栄誉と知れ」
クチバシちゃん人形は襲い掛かる大鷲の嘴の先に取りついた。驕り高ぶる空の歌、悲鳴に変わって暴れ狂う。格闘の末に人形は暴れる大鷲に振りほどかれ、中庭の森へ落ちていく。
滅びた砦の王にして、見渡す湖に浮かぶ幾つかの岩の主、および湖を取り巻く野原の支配者にして、方々の猛禽を従える長であらせられる大鷲は何とか体勢を立て直し、暗殺者が愛用する短剣のように鋭いその眼差しでユカリを睨みつけた。
「おのれ! 人間如きが我に逆らう愚を知るがいい!」
それは大鷲の言葉であり、空では広く通じる翼持つ者たちの言葉であり、ユカリには言葉の意味するところがことごとく分かった。そこに豊かな旋律も激しい律動もなく、再び歌は失われている。それは同時に、ユカリがいくつかの――自分のものとは言えないが自分が御することのできる――魔法を取り戻したことを意味していた。
ユカリは【鷲の鳴き真似をする】。
瞬く間に体が膨れ上がり、物見の塔の屋上からはみ出すほどに大きくなる。伸びた両腕は巨大な翼に、塔に立つ足は塔を掴む足に。全身が透き通る玻璃の羽根に覆われ、夏の太陽の光線を乱反射すると、塔も砦も野原も湖も強く照らし出される。砦を塒にしていた大鷲も玻璃の大鷲に比べると雛鳥に過ぎない大きさだった。砦の支配者は真の王を前にして歯向かう気力も沸くことなく、一目散に空の彼方へと飛んで逃げた。
不遜なる大鷲は逃げ去ったが、魔導書の気配は消えない。ユカリは念のために木の枝の入り乱れた鷲の巣を入念に調べたが、やはり魔導書はない。
ふと歌の消えた瞬間が二度あったことを思い出す。一度目は大鷲が中庭に舞い降りた時、二度目はクチバシちゃん人形が中庭に落ちた時だ。
再び季節も土地も無視した木々が並び立つ不思議な中庭の森へとユカリは戻る。不思議で荘厳な歌は止んでいたが、鷺に山鳩、白雉に鶫、帰依千鳥のような多種多様な美しい鳥たちが騒ぎたてている。
ユカリはすぐ近くで可憐に鳴いていた艶めく瑠璃嘴に【話しかける】。
「この騒ぎは何? 何があったの?」
瑠璃嘴は興奮冷めやらぬ様子で美しい嘴をかちかち鳴らしながら、まくし立てる。「救いの主が降臨したんだよ。あの大鷲を討伐して、僕らを導いてくれるんだ。真なる王国に君臨するんだ。こうしちゃいられない。捧げものを持って行かなくっちゃ」
瑠璃嘴は小さな羽根をばたつかせ、大慌てでどこかへと飛んで行った。
ユカリは騒ぎの中心となっている、切り拓くことを知る者のいない時代の森のような中庭の奥へと進む。進むにつれ、色とりどりの様々な形の鳥が増え、鳴き声が耳に蓋をする。麗らかな春のようなぼんやりとした鳴き声や、涼やかな秋のようなはっきりした鳴き声が聞こえる。
集まる鳥たちの好奇心と憧憬の視線の先には、鳥の巣のように枯れ枝を集めて拵えられた玉座があった。そこにクチバシちゃん人形が手足を投げ出すように座っている。
「よお、ユカリ。我が王国へようこそ」クチバシちゃん人形が偉そうに言った。
「はいはい。随分とご機嫌な様子だね。そんなことより、さっきは大鷲から助けてくれてありがとう」
「なに、気にすることはない。魔導書が散逸しても困るからな。それは、誰の望むところでもなかろう。下賤なる娘よ」
ユカリは呆れ、集まる鳥たちをを見渡す。「ところで誰か羊皮紙を知らない? ここら辺にあると思うんだけど」と鳥たちに呼びかけた。
鳥たちが口々に鳴き交わす。何羽かの鳥に覚えがあった。どうやらまさにその鳥の巣玉座の材料にしたらしい。ユカリが玉座の周りを巡って、目を凝らして探すと確かに羊皮紙があった。破れはしないはずだがぐちゃぐちゃになっている。ユカリは何とか玉座が壊れないように羊皮紙を引っ張り出す。
間違いなく魔導書だった。幼い文字が魔法を解説している。歌うと周りの皆も歌う魔法。鳥の歌声でも魔法が行われると確かに書いてあった。人の声に聞こえたのは、万物と会話できる魔法のせいだろう。グリュエーとクチバシちゃんに聞こえなかったことも説明がつく。しかし、それだけだ。他の魔法と違って、記述されていること以上の力もなさそうだ。ただ皆で歌う魔法。はた迷惑な魔法には違いないが。
ユカリは魔導書を合切袋に片づけて、玉座の上にふんぞり返るクチバシちゃん人形に向き直る。
「ところで、思い出したんだけど聞いてもいい?」
「くるしゅうない。申してみよ」とクチバシちゃん人形が言った。
「この騒ぎが起こる前にグリュエーをからかってた歌。歌詞は出鱈目だけど、『羊の川』を歌っていたよね。あれをユーアに教えたのは私なんだよ。何でその曲を知ってるの?」
クチバシちゃん人形はユカリを見、鳥たちを見、再びユカリを見る。
「何かおかしいか? ユーアがよくこの曲を口笛で吹くんだ。ユーアは物覚えが良いからな。一度見聞きした物事は絶対に忘れない。天与の賜物だよ。そして、何度も聞いている内にあたしも覚えた、というわけだ」
「ああ、そっか、なるほどね。それもそうか。でも何だか見覚えがあるんだよね」
ユカリの透徹な瞳が疑いの眼差しを向ける。
「見覚え? それを言うなら聞き覚えだろ」とクチバシちゃん人形は呆れる。
「ううん。見覚えがあるんだよ、いや、よく覚えてると言っていいね。一度か二度見ただけだし、私の頭は絶対に忘れない、なんてことはないんだけど。その座り方、まるでバダロットみたい。ねえ、いつからユーアのそばにいたの?」
それに対してクチバシちゃん人形は何も答えない。作り物の瞳では何を考えているのかも読み取れない。
ユカリはクチバシちゃん人形から目を離さずに真っすぐ玉座に近づく。「隠していることが沢山あるみたいだね。私にも、それにたぶんユーアにも」
その時、鳥たちが一斉に鳴き叫び始めた。どうやらユカリの行動が不敬だと非難しているらしい。クチバシちゃん人形を掴もうとユカリが玉座に近づくと同時に、鳥たちも一斉に飛び掛かってきた。しかしその嘴も爪もユカリには届かず、鳥たちは旋風に巻き上げられる。
「ユカリ! 走って!」とグリュエーが叫ぶ。
クチバシちゃん人形を引っ掴むとユカリは跳ねるように駆けだした。木々を通り抜け、通廊を走り抜ける。
「いつから、そばに、か」とクチバシちゃん人形が呟くのをユカリは聞き逃さなかった。「あたしたちも知らないね。気が付けば存在したんだ、ユーアの中に」