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外套の青年は、ミリエットを守るように、振り上げられた隣家の女性の手を掴んでいた。
目深に被ったフードのせいで、その表情はわからない。
「事情は知らないが、手荒な真似はよくない。せっかくの良い朝が台無しだ」
「な、なんだいあんたは!? わかったから、さっさと離しとくれ!」
「ああ、失礼した」
青年が手を離すと、女性は足早に家の中へと戻っていく。
ミリエットは慌ててその背へ声をかけた。
「あの、おばさま! お祭りまであと何日でしたっけ!?」
「三日だよ!」
短く吐き捨てられた言葉と、乱暴に閉まる扉。
それらを見送り、外套の青年が肩を竦める。
「ふぅ、すごい剣幕だったな。君、怪我はないか?」
「は、はいっ。その……助けていただき、ありがとうございました」
ミリエットは咄嗟に、深々と頭を下げた。
(ど、どうしよう。まさか、夢に出てきた人と、こんなに早く会えるなんて)
「では、俺はそろそろ失礼する」
「あ、あのっ!」
ミリエットは慌てて青年へ声をかけた。
「見慣れない方ですが、旅人さん……ですよね? 宿はお決まりですか?」
「いや、これから探そうと思っていたところだ」
「では、よければ案内させてください。助けていただいたお礼です」
「そこまで大それたことをしたつもりはないが……せっかくだ、御厚意にあずかろう」
青年がミリエットを見下ろす。フードの内側、微かに覗く口元は、優しく微笑んでいた。
「私はミリエットといいます。よければ、あなたの名前も教えてください」
「俺のことは……ヴォルフ、とでも呼んでくれ」
「わかりました。では、ヴォルフさん。宿はこちらです」
まずは一歩前進だ。
ミリエットはヴォルフと名乗る青年を連れ、宿屋への道を歩き出した。
「先ほどのことだが。……あのご婦人は、いつもああなのか?」
「何がですか?」
「その、君のことを追い出したがっているように見えた。本当なら、こういうことは余所者が首を突っ込むことではないのだが……ただならぬ雰囲気だったのでね」
フードの隙間から、気遣うような視線を感じる。
「気にしないでください。……私も、この村では余所者のような存在なんです」
どう答えようか悩んだが、ミリエットは素直に事情を話すことにした。
流れ者の母を持つこと、両親亡き今、村に居場所がないということ。
「それは……辛かったな」
「そうですね。でも、もう慣れました」
ミリエットは微笑んだ。ヴォルフの声に、こちらを本気で気遣う響きを感じたからだ。
「ところで、ヴォルフは旅の方なんですよね」
「ああ。この村には、今朝着いたばかりだ」
「収穫のお祭りのためにいらしたんですか?」
ここは小さな村ではあるが、祭りの日には商人たちが出店を出したり、作物を買い込んだりするためにやってくる。
そして、商人の中には護衛を連れている者も多い。
夢で見たヴォルフは随分と腕が立つ様子だったので、そういった職に就いている人物ではないかと思ったのだが――。
「いや。先ほど君とあのご婦人が話しているのを聞いて、初めて知ったよ」
「なら、どこかに向かう途中なんですか?」
「それは……」
ヴォルフと名乗った青年は言葉を濁す。隠さなければいけない理由があるのか、それとも大したことではないのか。声の調子からは前者のように思えるが――。
「ごめんなさい。私、質問ばかりですね」
ミリエットははっとした顔で、慌ててヴォルフに謝罪した。
初対面の人間にこうも根掘り葉掘り尋ねられたら、気分が悪くなるに決まっている。
「いや、かまわないよ。こういうことは、変に隠しても怪しくなるだけだからな。……俺は、アルタール王国へ向かう途中なんだ」
「まあ……」
ヴォルフが、そしてミリエットが声を潜めたのには理由がある。
アルタール王国。それは、ここ、ルドロス帝国の隣国のひとつであり――帝国と明確な敵対関係にある国家だからだ。
(アルタール王国が帝国との国境を侵略したせいで、緊張関係にあるのよね)
そのため、二国間の国交は断絶状態。
国境はこの辺境の村の先にあるが、帝国軍の精鋭によって厳しく監視され、通過することはおろか、近付くことさえ難しいと聞いている。
(でも、まさか……国境へ向かうために、この村へ……?)
今の話の流れでは、そうとしか思えない。
となれば、ヴォルフにはよほどの事情があるのだろう。
「宿はあれか?」
ミリエットが考えているうちに、道の向こうに宿屋の看板が現れた。
「ここまででいい。案内ありがとう、ミリエット」
「あ、あの……!」
ミリエットはヴォルフの外套の裾を掴んだ。
もう少し、彼について知りたい。だが、なんと声をかけたものか。
「どうした? ……やはり、あの女性が怖いのか?」
「ええと……その……」
「隠さなくていい。気丈に振る舞うのは立派だが、そればかりではやがて限界が来る」
答えに困るミリエットを、ヴォルフは好意的に解釈してくれたようだった。
「俺はあと数日ここに滞在する。困ったら、いつでも相談に乗るよ」
「あ、ありがとうございます……」
ミリエットが驚いたように瞬きすると、ヴォルフはひとつ頷き、宿屋へ去っていった。
(……優しい人、なのかな)
助けてくれたこと。気遣ってくれたこと。
どちらも掛け値なしの本音だったように思う。
(いいえ、まだ判断するには早いわ)
ヴォルフもまた、何らかの下心があってミリエットに近付いたのかもしれない。
そう、かつてのヨハンのように。
だとしたら、騙されるわけにはいかない。むしろ、こちらから騙すのがちょうどいいくらいだ。
(でも……あの優しさが、本物だったら)
ミリエットは、何も知らない、無関係のヴォルフを利用することになるのだろうか?
そう――かつて、ヨハンが聖女の力を利用するため、彼女に近付いたときのように。
(……駄目。こんなことで悩むようじゃ、ルドロス帝国には敵わない)
今、必要なのは強さだ。どんなことでもする、そんな決意。
母のため、滅ぼされたという故郷のためにも。
――何よりも、三年後に殺される自分のためにも。
わかっているのに、ミリエットの胸は、ずきりと痛んだ。
* * *
やがて――収穫を祝う祭りの当日。
ミリエットは夜明けと共に起床し、早々と身支度を整え、家を出た。
鞄に詰めたわずかな荷物を片手に、たくさんの思い出が残る自宅を見上げる。
(お父さん、お母さん。……いつかまた、ここに帰ってくるわ。それまで、見守っていて)
鮮やかに飾られた家々。村の中央にある見張り台には、祭りの日にだけ掲げられる、特別な飾り布がはためいている。
その中を進むミリエットの足取りに、迷いはない。
聖女の力を使った夢を通して、彼女は今日についてのさらなる情報を得ていた。
(ヴォルフは、今日の朝早くに出立する。とにかく、まずは彼と合流しないと)
夢にはいくつかのパターンがあった。
最初に見たのは、ヴォルフと一緒に逃げるが、帝国兵に追い詰められて戦いになるという展開。
次に見たのは、ヴォルフとの合流をあきらめたせいで、帝国兵に家を包囲されてしまう……というもの。
祭りの前日に村を出たら、帝国兵と鉢合わせ……という流れもあった。
(なら、祭りの当日にヴォルフと合流して、かつ、一緒に帝国兵から逃げられたとしたら?)
夢の中でけっして見ることのなかった展開。ミリエットはそれこそが、この状況を打破する鍵ではないかと考えていた。
帝国兵の配置図とその後の移動経路は、既にわかっている。
やがて、宿屋が見える頃。
「くそっ、どうして今日はこうも兵士がいるんだ。祭りの警備にしては多すぎる」
ミリエットは、その裏口で難儀する様子のヴォルフを見つけた。
彼はアルタール王国へ向かっているという。詳しい事情は知らないが、ここで帝国兵に見つかることは避けたいのだろう。
「まさか、見つかったのか? だが、それにしては兵士の数が……」
「ヴォルフ、こっちへ」
ミリエットは足早にヴォルフへ近付くと、人気のない方へ彼を誘導する。
「ミリエット? どうしてここに」
「ついてきてください。兵士に見つからない道を案内します」
その手を掴み、強引に走り出す。
二人がその場を立ち去ると、少し遅れて、複数の足音が近付いてきた。
「いたか!?」
「いや、見つからない。クソッ、あの女、いったいどこへ……」
幾度となく夢に見た、帝国兵の声だ。
ミリエットはちらりと背後を仰ぎ、見つかっていないことを確かめた。
(ここまでは大丈夫。あとは……)
「ミリエット。まさか、追われているのは君なのか? 俺はてっきり……」
「話は後です」
ヴォルフの手を引き、ミリエットは縦横無尽に村を駆け抜ける。
夢で得た情報が功を奏し、二人が帝国兵に見つかることはなかった。
やがて、村の出口が見えてくる。
鮮やかに飾り付けられた門の近くに、人影らしいものはない。
(もう少しで……!)
だが、そのとき。ミリエットは建物の陰から現れた人影にぶつかってしまった。
「きゃっ……」
思いがけない衝撃に、ミリエットはその場に尻もちをついた。
「これは失礼しました。怪我はありませんか、お嬢さん」
(この、声は……)
差し伸べられた手と、その声に、ミリエットはなかなか顔を上げることができなかった。
冷や水をかけられたかのように、頭が、全身が一瞬で凍りつく。
「……ミリエット?」
ヴォルフが屈み込み、動く様子のないミリエットを気遣うようにそう声をかけた。
「ミリエット……それが君の名前ですか? なんという偶然だ! 僕は今日、その名前を持つ女性を探していたのです!」
(……ええ、知っているわ)
忌々しい現実を確かめるように、ミリエットはゆっくりと顔を上げた。
目の前に現れたのは、豪奢な金の髪と切れ長の藍色の瞳。優美に整った顔立ち。
ただそこに立っているだけであらゆる人間を魅了する、一人の青年の姿。
「僕はヨハン。ルドロス帝国の皇太子です。ここで出会ったのも何かの縁。ぜひ、僕と一緒に来ていただけませんか」
優しげな微笑と、丁寧な言葉。
だが、その背後に、有無を言わせない強引さが滲んでいる。
出会いたくなかった。けれど、出会ってしまった。
胸の奥から湧き上がる憎しみに、たまらず唇を噛む。
(どうしよう、どうすれば)
混乱するミリエットを抱き寄せたのは、背後に立つヴォルフだった。
「悪いが、彼女は渡せない。困っているのがわからないのか?」
「……君は?」
ヨハンの問いかけと同時に、強い風が吹いた。
その拍子に、ヴォルフの顔を覆っていたフードが外れ、その顔が露わになる。
よく日に焼けた褐色の肌。深い、深い漆黒の髪。黄金色の瞳。
すべて、夢に見たとおりだ。その横顔の美しさに、ミリエットは思わず息を呑んだ。
「その顔は……もしや!」
ヴォルフラムを見つめ、ヨハンが瞠目する。
「俺の名はヴォルフラム。……お前が大罪を押し付けた、アルタール王国の王だ」
ミリエットを背に庇い、ヴォルフ――ヴォルフラムは、冷たくそう告げた。
(まさか……)
思いがけない名前を耳にしたミリエットは、驚きに目を見開く。
アルタール王国の王、ヴォルフラム。
この先、彼がどんな結末を辿るか、皇后だったミリエットは既に知っていた。
(アルタール王国は、ルドロス帝国との戦争の末……滅びる。王の死によって)
ミリエットは吸い込まれるように、ヴォルフラムの横顔を見つめるのだった。
(3話・終わり)