夜の帳が、孤児院をしんと包んでいた。
街の明かりは遠く
ここには人の気配も車の音もない。
ただ風のそよぐ音と
夜の草木が吐息のように揺れる音だけが
静かに響いていた。
その中庭の一角に
ひとつだけ、揺れる影があった。
ライエルだった。
月光に照らされたその姿は
白銀に縁取られた幻のようで
手には黒の神父服の腰──
目立たぬホルスターに収められた
双刃の裁定人──Zwillingsrichterの柄を
そっと握っていた。
──カシュリ
右手で抜き出したのは、受け流しを担う
Schuld──罪。
その刃は鈍く艶を押さえ
月を飲み込むように黒く沈んでいる。
続けて、左手で抜いたのは
刺突に特化した鋭い刃
Urteil──裁き。
二本の刃が
夜の空気の中で静かに交差した。
その瞬間
空気の温度がわずかに変わった気がした。
ライエルは、小さく震える吐息を漏らす。
「⋯⋯私は⋯⋯こんなものが⋯⋯
着いているなんて⋯⋯知らなかった」
神父として、人を導き、癒し
祈りを与える者の象徴であるはずの衣服。
だがその中には
命を絶つための〝裁きの刃〟が
二本、潜んでいた。
──その事実に、彼の両手は重く感じていた。
だがそれは、刃そのものの重みではない。
それを手にする〝意味〟が──重かった。
『ねぇ、ライエル?』
その声は、頭の奥ではなく
心の深い鏡面から聞こえた。
『キミもね、ある程度は
闘えるようになるべきだと思うんだよ』
「⋯⋯私は、そんな⋯⋯」
『あの子たちを──
キミの綺麗事で殺すつもり?』
言葉が、痛いところを突いてくる。
ライエルは、刃を見つめたまま
答えを見つけられずにいた。
『護身だよ。違う?
〝護るため〟の力がなければ
優しさなんて、ただの虚構さ。
今のキミは──
丸裸なのに
誰かにパンを分けてやりたいと
言ってるのと同じなんだよ』
「それでも⋯⋯
私は、暴力で正しさを示したくは⋯⋯!」
『あっはは、正しさ?
それ、どこからどこまでが正義で
どこからが悪なんだろうね』
アラインの声が、鏡の水面から
ゆらりと笑うように、揺れて広がる。
『世界中の国が争ってる。
でも、どっちが悪だなんて言えるかい?
戦争なんてものは
〝正しさ〟のぶつかり合いで出来ている。
正義と悪なんて、所詮は立場の問題さ。
今日、キミを襲った奴らも同じ。
キミが与える〝理想〟に
生き残る術を奪われたと思ったから
敵意を向けた』
刃を握る手が、わずかに震える。
『キミは子供たちを護る
それを正義だと言う。
けど、アイツらからすれば
キミこそが〝悪〟なんだ。
善と悪の境界線なんて
そんな曖昧なもんさ』
『そして⋯⋯結局、一番理不尽なのは
巻き込まれる子供たちだ』
ライエルの表情に、苦悩の影が落ちる。
『キミが正義を語ったせいで
手を出す事も逃げる事もできず
ただ犠牲になったら?
薬漬けにされ、臓器を抜かれ、快楽に殺され。
正義を盾に動かなかったキミが
彼らにとって
最も冷たい〝悪〟に見えるだろうねぇ?』
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯っ」
答えは出なかった。
だが、心が揺れていた。
いや、揺れてしまった。
『⋯⋯キミは、あの時も逃げた。
アリアを〝護りたい〟って言いながら
〝共に闘おう〟と言いながら──
何もできなかった。
自分が見た地獄に、目を逸らして
ただ〝善良〟であろうとした。
今度こそ──護りたいんだろ?
前は逃げることしかできなかったキミが
今のままで
また不死鳥に立ち向かえると思う?』
「⋯⋯それは⋯⋯」
『ボクが、闘い方を教えてあげる。
キミの為じゃない。
キミの手を握ってくる〝小さな手〟の為に』
アラインの声は、今や囁きのように、優しく
そして甘くささやく。
『さあ、構えてごらん、ライエル。
その手にあるのは、裁きの双刃──Zwillingsrichter。
キミの正義を証明する、唯一の〝言葉〟だ』
ライエルは、静かに呼吸を整えた。
『〝裁く者〟として、生きろ。
〝罪〟を受け止め
〝裁き〟を下せ。
そうでなきゃ、また全てを失う。
なら──護る者の手を握り返せ。
例え、血塗れになったとしても』
夜風に、神父服の裾がふわりと揺れる。
手の中には、双子の刃。
その重みは
善と悪の境界線を
自分の中に刻み込むように──
確かに、存在していた。
『この身体はね、ボクの動きを覚えている。
キミにできない道理はないんだよ。
──なら、問題は、精神さ』
アラインの声が
まるで耳元で囁かれたかのように
深く、染み込むように響いた。
ライエルは、静かに双刃──
Zwillingsrichterを握ったまま、瞼を閉じる。
その瞬間、風が止まり、音が消えた。
⸻
──精神世界。
周囲に何もない
あるのは足元の水面と
ただ果てのない黒の平原。
境界線も地平もなく
光はあるが太陽は見えない。
その中心に、二つの影が立っていた。
一人はライエル。
神父服を纏い、逆手でSchuldと
Urteilを構える。
もう一人は──アライン。
ライエルと全く同じ身形だが
その手には、全く異なる重みを持つ刃
特注の大太刀
Gnadenlos──慈悲無き者。
その名の通り
容赦のない質量と冷たさを帯びた刃だった。
『さて、始めようか。ライエル。
これは戦闘じゃない。教導だよ。
だから本気で来ていい。
ボクは──手加減はしないからさ』
そう言って
アラインはゆるりと大太刀を構えた。
一閃──
その姿が霞んだと思った瞬間
視界がぐらりと揺れる。
「──っ!?」
刃音が、ライエルの横を裂いた。
直線的な居合の踏み込み
まるで風を巻くような抜き打ち。
反応が一拍遅れていたなら
首筋は無防備だった。
ライエルは刹那の本能で身を捻り
Schuldの広いリカッソで受け流す。
だが──重い。
「ぐっ⋯⋯!」
受けた衝撃が、手首から肩
腰へと一気に抜けていく。
鍛えられていない神経が軋みを上げる。
〝受ける〟だけで、体が押し負けそうになる。
『おっと──逃げるなよ?』
アラインは刃を巻き上げながら反転する。
そのまま
回転の勢いを活かして
大太刀の腹で殴りつけるように
横薙ぎに振り抜いた。
空気が爆ぜた。
ライエルは地を蹴り、間一髪で身を翻す。
その軌道に自らの刃を差し込み
ナイフの短さで突きを返す。
だが──それも、アラインにとっては遅い。
『その手首の角度じゃ、切っ先が死ぬよ。
もっと腰を落として──!』
アラインの声と同時に、踵が地を打つ。
刃と刃が噛み合う音とともに
ライエルのナイフが跳ね飛ばされそうになる。
「⋯⋯っ!それでも⋯⋯!」
喉を焼く息を吐きながら
ライエルは構え直す。
「私は、護りたい⋯⋯!」
ナイフは小さい。
けれど、その分、刃は速く、狙いは鋭く。
彼は反撃に転じた。
──シュン!
音もなく、ライエルが飛び込んだ。
右手のSchuldで刃を絡め、軌道を逸らし
左手のUrteilで刺突を放つ。
刺すのではない。
皮一枚の隙間を狙う。
相手が受けるために構える前に
抉る〝先手〟
『いいね、その動きだ!』
アラインが笑った。
踏み込みを崩さず
左肘でライエルの腕を外す。
同時に大太刀の柄尻で肋を狙う打ち込み。
──だが、ライエルはそれを読んでいた。
肘を下げ、身体を低く回転させる。
そのまま、ナイフの逆手での払い──
相手の足首に向けて、リカッソを叩き込む。
一瞬、バランスを崩すアライン。
「ふふ⋯⋯やるじゃないか、ライエル」
アラインの目が細められる。
その視線には、狂気でも侮蔑でもない。
──〝嬉しさ〟があった。
「もっとだよ。感情を出せ。
怒れ。悔しがれ。
護りたいなら〝壊す覚悟〟も持ちなよ」
大太刀が、両手で握られる。
「キミは双子の刃を持っている。
〝裁く者〟であるなら
せめて自分自身にだけは──
〝赦し〟を与えちゃダメだ」
次の一撃が、空間ごと薙ぎ払う。
地面が割れるかのような重圧。
それでも、ライエルは踏みとどまる。
咄嗟に交差したZwillingsrichterの双刃。
一本は罪を受け流し
もう一本は裁きを穿つ。
その構えが、今まさに〝機能〟し始めた。
──対峙は続く。
教導は戦闘であり、戦闘は対話である。
互いの刃が、信念を交わし、思想を刻む。
そして──
ライエルはその中で、確かに
〝変わり始めて〟いた。
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