夜はすっかり深まっていた。
孤児院の中庭には
しんと冷たい風が流れていた。
木々の葉が揺れ
時折、草むらを駆ける
小さな獣の気配が通り過ぎる。
だがその中心、石畳に足を組んで座り
双刃を膝に乗せたまま
目を閉じているライエルは
まるで石像のように微動だにしなかった。
その光景を
夜闇に溶けるようにして
見つめていた者がいた。
──烏の群れ。
電柱や枝、屋根の上。
さまざまな位置から
黒い瞳がじっと中庭を見下ろしている。
そして、その中に。
一人の男の影があった。
──櫻塚時也。
風も音も感じさせないまま
ただそこに〝居た〟
足音も、気配もなく──
まるで彼自身が
〝この闇の一部〟であるかのように
ただ中庭の隅に立っていた。
木の影を背に
彼はしばらく無言でライエルを見つめる。
その鳶色の瞳には、慈しみと──
微かな翳り。
そしてやがて、低く、穏やかに口を開いた。
「⋯⋯護る為に振るう刃があるという事は
僕にも理解できます」
声は、夜気に溶けるように柔らかく。
だが、どこか深く、重く。
「ですが⋯⋯昼間のあれは⋯⋯
些か、やり過ぎですよ。アラインさん」
誰に向けた言葉でもないように聞こえる。
けれど──それは確実に
〝その奥〟に届いていた。
言葉は優しくとも
そこには静かな〝揺るぎ〟が含まれていた。
表面に出ることのない
だが確かに存在する〝怒り〟の輪郭。
─不快ではない。だが、許容できない─
その思いが、はっきりと込められていた。
その瞬間、月が雲に隠れた。
夜が、一段と深くなる。
返答はなかった。
静寂のまま、風だけが吹き抜けていく。
だが。
中庭の中央に座るライエルの睫毛が
わずかに震えた。
誰の目にも気付かれないほど
ほんの一瞬。
けれど──時也は、それを見逃さなかった。
(⋯⋯微笑んでいますね、アラインさん)
そう、彼の心の奥。
その水面の下に、確かに
〝誰か〟が微笑んだ気配があった。
そして、再び沈黙が落ちる。
夜は、まだ明けない。
⸻
夜が深まり、世界が静寂に飲まれていく。
孤児院の中庭では
月明かりに縁取られたひとつの影が
ゆっくりと立ち上がった。
ライエル──
目を閉じたまま
精神世界からの帰還の余韻を残したその姿は
どこか儚げで
それでいて、何かを噛み締めるような
静かな決意に満ちていた。
よろよろとした足取りで
彼は石畳を横切り
木々の間を抜けて玄関へ向かう。
誰に気付かれることもなく
月に照らされたその後ろ姿を──
影の奥から、じっと見つめる一対の目。
時也だった。
一羽の烏が肩に止まり
瞳を通して広場中の視界を共有している。
彼の姿は物音一つ立てずに
木の影に溶け込んでおり
まるでそこに〝存在しない者〟のようだった
その穏やかな目で
ライエルがゆっくりと
館内に消えていくのを見届ける。
そして──
烏の視界を通じて
二階の部屋で
彼がベッドに倒れ込む様子を確かめた時
時也は何も言わず
ただその場から身を翻す。
夜の風に着物の裾を揺らしながら
静かにその姿を消し去った。
⸻
やがて──
眠る彼を見つめながら
その部屋の窓辺に止まっていた烏が
隣室から微かな音を拾う。
──カツン、カツン。
硬い物が繰り返し何かにぶつかるような音。
首を傾げた烏が
隣の部屋の窓辺に飛び移って覗き込む。
そこには
壁際にぶつかっては後退し
また進み──を繰り返す
一台の古びたラジコンカー。
どうやら
たまたまスイッチが入ったまま
放置されていたのか
電池が切れかけたように
とぼけた動きで前進と衝突を繰り返していた。
室内には誰もいない。
問題がないと判断した烏は再び飛び立ち
ライエルの部屋の窓辺へと戻る。
毛布は人の形に膨らんでおり
彼がそのまま眠っているように見える。
そして──
その時だった。
バシュッ!
乾いた、低い破裂音が──
孤児院の敷地の南端、雑木林の奥から響いた。
雷鳴とは違う。
銃声のようでありながら
異常なまでに小さい。
しかし
確かに〝殺意〟を孕んだ一撃の音だった。
瞬間──
広場の各所、屋根の上
街灯の上、木々の枝──
潜んでいた烏たちが一斉に飛び立つ。
ばさっ──と羽音が夜空を埋め
その無数の瞳が一斉に
音の発信源へと焦点を合わせた。
空を駆けるその影の群れの中──
ライエルの部屋を監視していた一羽の烏も
鋭く視線を向ける。
雑木林の方向へ、瞬時に判断を下すが──
それでもなお、室内へと目を戻した。
微動だにしないその布団の下──
烏はそれが本当に人かどうかを
確かめる術もなく、静かに監視を続けた。
⸻
同じ頃。
孤児院の南棟にある一室の窓。
雨戸の隙間から
わずかに突き出された異様な影があった。
──それは
艶消しのセラコートを施された
精密な銃の銃身。
マズルブレーキが、わずかな光を弾く。
銃身は長く、マウントには大型のスコープ。
折りたたみ式のストックには頬当て。
グリップには滑り止め。
バイポッドが展開され
壁際の書棚に設けられた
即席のサンドバッグの上に
安定して設置されていた。
それは──
.338ラプア・マグナム弾仕様のAI AXMC。
極めて静かに、人を殺すために生み出された
狙撃のための機構。
その銃に頬を寄せていた人物が
スコープから静かに目を離す。
──アースブルーの双眸。
それは、アラインだった。
(⋯⋯ふぅ。誘導できたね)
誰にも聞かせない、心の奥でだけ響く独白。
彼は慎重にセーフティを戻すと
ボルトを引き、薬室から排莢。
小さく音を立てた薬莢をグローブで受け止め
ポーチに収める。
そして、無言で分解を始める。
スコープ、ストック、マズル
グリップ、マガジン。
それぞれが、無音のまま
専用ケースへと収められていく。
床には一切の跡を残さず
彼は椅子を戻すでもなく
自然なままの動作でその場から立ち上がった
──羽音が、探るように雑木林の上に重なる
アラインは裏口の鍵をわずかに開け
月の陰を縫うように
気配すら風に溶かして姿を消す。
向かう先は──かつての〝根城〟
フリューゲル・スナイダーの本拠地だった
あの寂れた倉庫街。
夜はまだ、終わっていない。
アラインにとっての〝始まり〟は
寧ろ、ここからだった──⋯