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念入りに磨き上げたグラスを机に二つほど並べる。この日のために取り揃えた高級ワインを棚の下から引っ張り出す。キャンドルに火を灯し、ソファに働き者の体を預けるとしばし客人の到着を待った。時刻は夜の8時を回っており、少し遅めのディナーを共にするための準備はすでに整っている。
三ヶ月前、雇われ傭兵の身であるキムは新たな依頼を受けた。その内容は「デスゲームが行われている島の捜索」という、なんとも馬鹿げたものであった。デスゲームといえば少し前、映画にもなった大衆向けの娯楽ジャンルのひとつである。その人気っぷりは、普段家に帰る暇が無い身辺多忙のキムでも一度は聞いたことがあるほどだった。話半分で聞いていた彼はその頼みを一度は一蹴したが、依頼主は目に涙を貯め必死に訴えてきた。
───デスゲームを主催している連中の一人に俺の兄貴を殺された、俺と兄貴がじゃんけんをして俺が間違えてグーを出したから、兄貴はパーを出していればナントカカントカ……。
とにかく残虐非道の鬼畜野郎どもだ、金ならいくらでも払うと念を押された。先払いで振り込まれた報酬額は普段の月給をはるかにこえる大金であり、それまで返事に渋っていたキムは二つ返事で引き受けることになった。
突然の依頼で人を集めるのも武器を揃えるのも中々骨のある仕事だったがそれでもやはりプロの傭兵だ、キムは何とか約束の日時に手配をすませ船に乗り込むことができた。
4日以内にゲームを行っている島を見つけ出すこと。そしてゲーム参加者の保護と、敵勢力の殲滅が今回の依頼内容だ。広大な海から小さな島を探し出すのは容易ではないが、先払いで受けた資金を元にいくつかの船を借り、荷物をかつぎ込むとすぐにでも出航した。船にはキムの他に依頼主であるチェ・ウソクという男、そして信頼できる部下たち、ボランティアで島の捜索を手伝ってくれるという船長が乗り込んだ。
そこで出会ったのがファン・ジュノという男だった。聞けば依頼人の友人だそうで、彼もまた同じ任務を共にする仲間なのだと知らされた。幾多の死線をくぐりぬけ、戦場での生き方を知っているキムには彼が戦闘の場で活躍できるようには見えなかった。細身の体に日焼けしたことの無いような白い肌。ほどよく鍛え上げられ、毎日のトレーニングをかかさないキムの身体と比べるとその差は歴然だった。そんなジュノを軽視するキムだったが、のちにジュノは彼の命の恩人となった。
ゲームを主催する運営側の回し者だった船長が、ジュノもろともゲームを嗅ぎ回る人間を始末しようと動き出した時だ。船長に心を許していた部下たちは即座に射殺され、キムも足を撃ち抜かれ絶体絶命の危機に陥っていた。死を覚悟したキムに銃を向ける船長を、ジュノはなんなく打ち倒したのだ。それからジュノは参加者1名を保護すると一人で島に向かい、敵勢力を見事大きく削った。初めはジュノを見くびっていたキムだったが、彼の評価を大きく塗り替え、尊敬の念を抱くと共に彼をひそかに慕い始めた。
そして今日、キムはジュノを個人的に食事に誘う事にした。船で彼に救われた感謝を彼なりに告げるために。
8時15分を回る頃だろうか、ドアベルが鳴った。
「すいません、少し遅れてしまって」
ドアを開けると、息を荒らげながらも爽やかな笑顔を作るジュノが立っていた。カジュアルな服装だがとても様になっている。
「本日はご足労いただきありがとうございます、ジュノさん」
さあ、上がってください、とキムは彼をにこやかに招き入れた。
リビングにはほのかに香るアロマキャンドルの良い香り、そしてキムが予期しなかった酒の匂いが部屋に充満している。カチ、カチと時計の針が時間の流れを嫌にでも感じさせた。この気まづい静寂を先に破ったのはキムだ。
「………………あの、ひとつ聞いてもいいですか。………どうして理事がここに?」
「すみません、すみません……」
すでに顔を赤くはらし、酒臭くなった理事がなぜか自分の家の高級革製ソファに倒れ込んでいる。
「酔っ払ったチェ理事と道ばたでばったり出くわして、事情を話したら俺も行くんだーって聞かなくて」
「はあ」
「ほんとにすいません……」
ジュノが必死に謝罪する間もソファでいびきをかきながら爆睡しているウソクをチラリと一瞥し、キムは何とか笑顔を取り繕った。
「……ジュノさん。そんなに謝らないでください。理事はこうして寝ているようなのでそっとしておきましょう。それより、せっかくの料理が冷めてしまいますよ」
今日という日のために行きつけのレストランから取り寄せた高級料理を指さしキムは答える。肉厚のステーキや旬の野菜をふんだんに使用した豪華なサラダ、海鮮物のマリネ、そしてもちろん主役のパスタも忘れずに。食後のデザートから、奮発して買ったオールド・ヴィンテージワインまで、それらを惜しみなく並べられたテーブルは一段とシャレて見えた。そして二人は向き合うように椅子に腰掛ける。
「わざわざ予定を空けてくださってありがとうございます」
「いえ、感謝したいのは俺の方です。こんな素敵な席を用意してくださって……」
申し訳なさそうに、でも照れくさそうに笑うジュノを見て思わず頬が緩む。グラスをかかげ、美味しい食事にしたつづみを打ち、世間話や身の上話などで会話を楽しみながら無事食事を終えるとジュノは感嘆のため息をついた。
「俺、こんな豪華な食事初めて食べました……すごく美味しかったです」
「ジュノさんのお口に合って良かったです」
とてもいい雰囲気だ。多少予定は狂ったもののキムが焦がれた景色はそこにある。
ほどよい酔気に頬を染め、しばらく余韻に浸っているジュノはいつもより色っぽく、思わず胸が高鳴った。そんなキムの様子に気がついたのか、ジュノがまたニコリと笑いかけてくる。
いままでは考えもしなかったこんな幸せを、自分なんかが受けていいのか───と男は心のうちに僅かばかりの罪悪感を抱いていた。
汚れ仕事ばかりしてきた人生だった。金さえ受け取ればなんだってするし、いままで殺してきた人間だって数え切れない。時には自分を庇い、懇意にしている部下を失うこともあった。悔やんでも悔やみきれない事ばかりだ。
そんな自分が今はこうして、密かに好意を寄せる相手と共に時間を過ごしている。それだけで、キムは救われた気がしたのだ。
そうだ、こうして月に一度食事を誘うのはどうだろう。まだまだ話したいことは山ほどある。優しい彼はきっと承諾してくれるはずだ。キムにはこの、自分の想いを伝える気はなかったが、少しばかりジュノの優しさにつけこもうと思った。彼と関係を持ちたいなんて願わない。ただ、もっと彼を知りたい。
「ジュノさん───」
キムが口を開く瞬間、リビングからけたたましい破砕音がなりひびいた。
「うわっ!ちょっとチェ理事、何してるんですか!?」
すぐさまジュノが席を立ち、今なお眠りこけているウソクを揺さぶった。何か楽しい夢でもみているのか、ウソクは笑いながら「も〜兄貴、そんなんじゃジャンケン世界大会に出られませんよ」などと意味不明な寝言を口走っている。ジュノがソファから引き剥がそうとするものの、ウソクは物凄い力でシーツにしがみつく。
「すいません、このグラス弁償します」
と一旦ウソクを起こすのを諦め、ガラスの破片を集めながらジュノはまた謝った。リビングテーブルから落下したブランド品のグラスが粉々に割れ、いまや見る影も無くなっている。
「安いものなのでお気になさらないでください。素手でガラスに触れると指を切ってしまうので、後始末は自分が」
キムがダストパンにガラス片を集めるなか、ジュノは大きなため息をつき、ありがとうございますと言うとウソクをより強く揺さぶった。
「チェ理事、チェ理事!いい加減起きてください!」
う〜ん、と唸り声を上げながらようやくウソクが体を起こす。脇下に腕を通しなかば無理矢理彼を立たせると、ジュノはキムの方を向き会釈をした。
「今日は美味しい食事をありがとうございました。チェ理事がこんな様子なのでこれ以上迷惑はかけられません……本当にすいませんでした」
再度深く頭を下げるとジュノはウソクを抱えそそくさと玄関に向かう。
「あっ、チェ理事のおかげですっかり忘れてました。キムさんのお口に合えばいいのですが……」
と、ジュノがウソクに靴を履かせる途中、彼を押しのけキムに紙袋を手渡した。中を見ると高級そうなワインボトルが入っており、それはキムの好きな銘柄のものであった。
「わざわざこんなものまで、お気遣いありがとうございます」
「では、これで。次は、俺がご馳走しますよ。とっておきの店を紹介しますから」
別れの挨拶を口にするとジュノはキムの家を後にした。部屋には微かに酒の匂いと甘い香水の香りが男を余韻に浸らせた。皿を洗い食器棚に並べ、ソファに座り込む。
次の機会があるということをジュノに告げられ、いまやキムの胸には静かな喜びに満ちていた。
ただの決まり文句かもしれない。その次があるかどうかは分からない。
しかしジュノの言う「次」をキムは待ち遠しいとさえ感じていた。
次からは理事が介入してこないことを願うキムだったが、その願いは次もまた、叶うことはなかった。