テラーノベル
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鋭い声に振り返ると、支配人の内田がワインセラーの入り口に腕を組んで立っていた。
「……っ」
美玲の胸が一瞬で凍りつく。
「秘書の嵯峨さん、だったか?」
「……」
「いや、違うな。――美玲、だよな? 大学の同期を見間違えるはずがない」
余裕を滲ませた笑みを浮かべる内田。その眼差しは、眼鏡越しの仮面などとうに見透かしている。
「相変わらずだな。昔から、余計なところを嗅ぎまわる癖は治ってない」
背筋に冷たい汗が伝い落ちる。彼は、ここに並ぶワインや倉庫の異常に私が気づいたことを察しているのだ。
「見てしまったんだろう? 俺の――秘密を」
低く重たい声が胸を圧迫する。逃げ場を探す美玲の耳に、館内の奥から「ガシャーン!」とガラスが割れる音が響き渡った――
「なんだ⁉」
内田の意識が一瞬それた。その隙を逃さず、美玲は扉に向かって駆け出す。
「おい! 待て」
キッチンを抜け、バックヤードから廊下へ。背後から足音が追いかけてくるのがわかり、捕まるわけにはいかないと必死で走った。
「おい! 内田、出て来い!」
今度は邸宅の玄関の方から、どすの利いた怒鳴り声が響く。何が起きているのか、状況が掴めない。
「お前たちは誰だ? ガラスを割ったのはお前たちか!」
「ああそうだ。内田に用があってな」
この廊下の先を曲がれば颯斗たちがいる。助かった――そう思った瞬間だった。
――ガシッ
背後から腕を掴まれ、身体が固まる。
「きゃあっ! 離して!」
「うるさい! 騒ぐな」
羽交い絞めにされ、口を塞がれて身動きが取れない。「んんっ」と必死にもがいても、男性の力に敵うはずがなかった。
「静かにしろっ」
耳元で囁かれ、恐怖に震えながら首を縦に振るしかない。
「内田が何をしたって言うんだ?」
「俺たちに借金があるんだ。お前は内田の上司か? 代わりに返してくれるってんなら、それでもいいぞ」
「借金だと?」
「ああ、三百万ほどだ」
その声は、美玲の耳にも届いていた。やはり内田は昔と変わらず性懲りもなく、金にルーズなままだ。一見すれば爽やかで人当たりも良さそうに見えるが、実際には女関係にだらしなく、金持ちの令嬢を見つけては貢がせていた――そんな印象しかない。
ここで支配人という立場に就いているからには、多少なりとも改心して真面目に働いていると思っていた。少なくとも認められているのだと信じていたのに……
借金と高級ワイン――転売、横領。すべてが一本の線で繋がった気がした。
どうにかして内田から逃げ出さなくては。だが正攻法で男性の力に勝てるはずもない。以前習った護身術を思い出し、その瞬間を待つ。
「早く、内田を出せ。庇うなら、俺たちもっと暴れるかもなぁ」
借金取りがガラスを割っただけでは飽き足らず、周囲を荒らそうとしている。
「脅しには屈するつもりはない!」
「ふんっ、そんなカッコつけてられるのも、いつまで持つかなぁ」
――ガンッ、ガシャン
借金取りが近くの置物を蹴り飛ばし、地面に落ちて割れた。甲高い音が響いた瞬間、内田の肩がビクッと揺れる。同時に、美玲を押さえる力が緩んだ。
今だ――!
美玲は内田の足を全力で踏みつけ、そのまま急所を蹴り上げた。
「ぎゃあっ!」
悲鳴を上げて内田が倒れ込み、痛みに悶える。その声は玄関にいた颯斗と借金取りの耳にも届いたようで、こちらへ足音が近づいてきた。
「どうした⁉ 大丈夫……か? これは一体……」
「すみません。もう少し手加減するつもりが、思い切り急所に入ってしまったみたいで」
美玲の言葉に、男性陣は一斉に顔を歪め、痛みを想像したのか苦悶の表情を浮かべていた。
「内田! 見つけたぞ。逃げ回ってないで借金を返せ」
「くっ、金なんかない!」
「ここにはお宝が眠ってるんじゃなかったのか?」
「それはっ……」
高級ワインや館内の備品のことを指している。
「一体どうなってるんだ?」
内田の裏の顔を知らない颯斗だけが、困惑の色を浮かべていた。
「あの、先ほどのガラスが割れる音は……」
「こいつらだ。内田を呼び出して脅すために窓ガラスを割ったらしい」
「救いようがないですね……」
「なんだと!」
美玲の冷ややかな言葉に、借金取りが反論する。
「きっちり修理代を払ってくださいね」
「なんで俺たちが! 悪いのは内田だろう」
「だったら最初から内田だけを相手にしたらいいじゃないですか」
「それはっ……」
正論を突きつけられ、言葉に詰まる借金取り。
そこへ――
「遅くなりました! あの……この惨状は……」
警察への届出に行っていた運転手の剛田が、驚愕の表情で駆け込んでくる。
「ああ、ご苦労だった」
「まもなく警察の方が事情を聞きに来られるのですが……」
「け、警察⁉」
反応したのはもちろん借金取りたちだ。
「くそっ、出直すぞ。内田! 逃げんなよ」
わかりやすい捨て台詞を吐き、慌てて逃げ出していく。
「おい」
まだ床に倒れ込んだままの内田へ、颯斗がゆっくりと歩み寄り、冷たい視線を落とした。
「俺はお前に期待していたんだが……見る目がなかったってことだな」
「す、すみません。これからは! これからは必ず期待に添えるように……」
必死に颯斗の足へ縋りつく内田。その姿は滑稽にしか見えない。
「おいっ美玲、お前からもっ――」
内田が余計な一言を叫んだ瞬間、颯斗の表情がより一層険しく変わった。
この場に緊張感が張り詰めた、そのとき――
「た、大変です!」
慌てた様子の女性社員が駆け込んできた。顔は真っ青で、声が震えている。
コメント
1件
美玲ちゃん護身術まで!それも急所に一発ググッとクククッ とにかく無事でよかった!それにしてもバレてたとは… 内田が美玲って呼んだ時女性社員の大変ですで免れたけど、颯斗がその事を忘れてくれるといいね🙏っでもちろん内田はクビよね?