その笑顔は結葉が偉央と付き合い始めたばかりの頃にはよく自分に向けられていた懐かしい笑みで。
(偉央さん……)
結葉は、この笑顔を長いこと見ていなかったことに気が付いて、胸がキュッと切なく疼いた。
(私たちはどこで間違えてしまったの?)
泣きそうな目で偉央を見上げたら、
「そんなに気にしなくて大丈夫だよ、結葉。この雪で今日は患者もほとんど来ないんだ。ハムスターのこともあったし、何かあったら連絡もらえるよう受け付けに言って、少し抜けてきただけだから。――こう言うことができるのってさ、やっぱり家が職場の前だからこそ、だよね」
そこまで言ってスッと瞳を眇めると、偉央の声のトーンがほんの少し下がったのを感じた結葉だ。
「それに……帰ってきたの、ある意味正解だったなって思うよ」
それは、結葉が弱っていたから面倒が見られて良かったという意味なのか、それとも想と一緒にいる現場を押さえることが出来て、間違いが起こるのを未然に防ぐことが出来て良かったという意味なのか。
偉央の言葉の真意を測りかねて、結葉は思わず俯いた。
頭頂部を、偉央の窺うような視線が撫でている気がして、結葉はキュッと身体を縮こまらせる。
「――さぁ、部屋も暖まってきたし、着替えてベッドにお入り」
チリチリとこめかみが痛むような、そんな張り詰めた空気を断ち切ったのは偉央のその言葉だった。
結葉は「はい」と小声で答えると、ロビーから上がってきた時のまま、着っぱなしになっていたコートをそろそろと脱いだ。
***
結葉が服を着替え始めたのを確認した偉央は、「ハムスターのことをしてくるね」と声をかけて寝室を後にした。
ベッドの上の結葉がうなずくのを確認して扉を閉めると、偉央は玄関先に置きっ放しにしていた箱とビニール袋を手に取る。
リビングに入ってすぐのローチェストの上に置かれているアクリルケースの布を取り去って、中を軽く掃除してから、持ち帰った床材を敷き詰めて、ケージの中に入ったままになっていた小さなフードディッシュを洗って、用意してきた餌を入れた。
ケージの中にはフードディッシュのほかに、福助が使っていた回し車や小屋もあったから、それらも綺麗にしてから適当に配置してやって。
最後に、中からカサカサと爪音のしている小箱のふたを開けてそっとケージの中に置いてやると、恐る恐るハムスターが顔を出すところまでちゃんと見届けた。
きっと、今から新しい環境を一通り偵察してから自分で過ごしやすいように工夫し始めるだろう。
そう思った偉央は、とりあえずそのままそっとしておこうとケージ前を離れて――。
ふとリビングの一角。
毎日結葉と食事を囲んでいる食卓に視線を転じたら、そこに客用のティーカップと、いつも結葉が使っている、自分とペアになったマグカップが置かれたままになっているのが目についた。
中を見ると、ティーカップにはまだ少し白茶色の液体が残っていて――。
おそらくにおいからして中身はミルクティーだろう。
偉央はそれを見つけるなり苦々しい気持ちがこみ上げてくるのを抑えることが出来なくなった。
結葉はさっき、想を家に上げたりはしていないと言ったはずだ。
なのに、何故〝客用の〟カップが出ているのだろう?
そう思うとソワソワと心がざわついて。
客用のカップがひとつだけならば、百歩譲って結葉が使ったと思うことも出来たのに、ご丁寧に結葉のカップまでもが別に出ているとあっては、そこから導き出される答えはひとつしかないように思えた偉央だ。
(結葉、キミは今まで何度ぐらい僕をあざむいてあの男をこの家に招きいれたの?)
そんな思いがふつふつとこみ上げてきて、偉央は胸がどす黒い感情で埋め尽くされていくのを感じずにはいられなくて。
(結葉、僕はキミを信じてたんだけどな)
心の中で苦いものを吐き出すように小さくそうつぶやくと、偉央はスマートフォンを開いて、年齢制限のかかった通販サイトを開いた。
***
結葉が目覚めたとき、偉央はリビングに置手紙だけを残して仕事に戻っていた。
別にそんなに体調が悪いわけではなかったし、自分では寝込むほどではないと思っていたけれど、実際は寝巻きに着替えてベッドにもぐり込んだらあっという間に眠りに落ちてしまっていたみたいだ。
(……私、思ったより疲れてたのかな)
思えば、このところ偉央の横では緊張してよく眠れていなかったことを思い出す。
ノロノロと立ち上がってリビングに行くと、偉央が連れ帰ってきたハムスターと目が合った。
たまたまあちらも起き出してご飯を頬袋に詰め込んでいたらしい。
望んだ癒しとは違ったけれど、自分以外の小さな生き物が家の中にいるというのはやはりいいなと思ってしまった結葉だ。
「――仲良くしようね」
こちらをキョトンとした顔で見つめてくるつぶらな瞳に声を掛けてから、まだ名前が決まっていないことをふと思い出した。
偉央は何も言わなかったけれど、結葉が名付けてもいいのだろうか?
そんなことを思いながら室内を見回したら、食卓の上に折りたたまれた白い紙が置かれているのが目に付いた。
コピー用紙を四つ折りにしただけのそれには表に『結葉へ』と書かれていて、偉央から結葉に当てた手紙だというのが分かった。
広げてみると、見慣れた偉央の几帳面な筆跡で、
『結葉、目が覚めたかな?
ハムスターの名前は結葉が決めてくれたらいいからね。
ちなみに男の子だよ。
今日はなるべく早く帰るようにする。
夕飯は作らなくていい。
たまには一緒に何か食べに行こう。
外出に備えてしっかり身体を休めておいて。
――偉央』
としたためられていた。
文面からも、結葉が眠りにつく前に感じた優しい偉央の姿しか浮かんでこなくて。
結葉はギュッと胸を締め付けられる。
偉央のことをただただ恐れている自分が、とてもいけない気がして。
何とか気持ちを切り替えて、偉央さんと向き合いたい、と思った結葉だったけれど。
ふと宛名が書かれていた側とは逆側の一面を見て、何故か胸騒ぎを覚えてしまった。
『追伸
食卓の上のカップふたつ、洗っておいたからね』
内容としてはなんと言うことのない連絡事項だ。
だけど――。
いつも結葉がダウンしているときには、偉央は何も言わずに家事をこなしてくれるはずで……。
わざわざこんな風にやってくれたことを報告してくること自体ないことだったから物凄い違和感を感じてしまう。
「偉央、さん?」
そこに偉央がいないことは分かっているのに、結葉はそうつぶやかずにはいられなかった。
コメント
1件
嫉妬深いのって怖い😱