あれから数日の時が経ったが、私はあの真っ赤な血の海を忘れずにはいられなかった。彼らは武装をしていた訳でも、国家に叛逆した訳でもない。きっと人間を殺すことはいけないことだが、そのような人間であれば、殺されても仕方がない。だが、あの場にいた人間の殆どは、それに値しない人物だっただろう。私の兄や弟のように、家族がいた者だってあの場に何人いたことか。そう考えている時は必ず、誰かがドアをノックするのだ。
「おはよーう、そろそろこんにちはの時間かな?どう?この家には慣れた?セレンが恋しい?今日は仕事探しに行こうよー」
私がドアを開けると、アトラがにこにこと笑みを浮かべて私の前へ現れる。
「帰って貰えるか。人殺しと話す趣味はない」
「毎回君ってそう言うよねー。慈悲をかけていつもは言わないどいてあげたけど、君だって人殺しだろう?それに今回のをやったのは私じゃないのにどうして私が人殺しと言える?私が誰も殺さずに清く正しく生きてきたってのもあり得るだろう、違うか?」
私より少し背の低いアトラは、口元だけを緩めて、私をその眼に映している。緑色の美しい、そしてその中に秘められた狂気のようなものに、私は何も言えなかった。何よりもセレンのおかげで私の素性はとうの昔に彼に伝わっている。対してこちらは彼をどこかの滅亡した国の王としか知らない。情報戦と言われる21世紀の世の中で、これほどの情報不足は、単に致命的だ。
「とはいえ、君が殺したのは軍人時代の数人と、あの国の内戦で再開しちゃった若い子四人でしょ?まあそのくらい誰でも殺すことはあるし、気にすることでもないよ。あの時代、あの場所では、殺されても仕方がなかったんだからさ。さぁ、これ以上君の殺人歴を声高に叫ばれたくなければ、私を中に入れたまえ!」
私にしか聞こえないくらいの声量で話していても、声質というものの問題なのか、アトラの声は聞き取りやすい。それで周りの人に広められては、必死に否定してアトラを狂人のように扱うしかない。だが、私がそう行動することを彼はとっくに見抜いて、策を練っている筈である。私はそう判断すると、閉じようとしていたドアを開けた。
「君って賢いねー、ちゃんと私を入れてくれるなんて」
私の部屋のソファーの真ん中に堂々と座り、ジャムを口に含んで、紅茶を飲むアトラはそう話した。
「ところで、君出身ロシアとかあっち?外見的に北欧系だと思ってたけど、その割には身長低いよねー、顔も相まって女の子にも見えるよ」
私は自分の分の紅茶を持って腹の立つ自称王族の隣に座ると、何も答えずに紅茶だけを飲む。自分のことなど、知られたくない。
「そのようなこと聞かずとも、あなたは存じているのでしょう」
呆れているとわかるように私がそう言うと、アトラはうんと頷いて
「でも、私はそれをセレンから聞いただけで、彼は私に虚偽の情報を流しているかもしれない。だから君自身に直接確認してるの。もう一度聞くよ、君の出身はロシアで合ってる?」
「仲間の情報も信用なさらないのですか?」
私はそうやって聞き返してやる。人殺しに話す内容など何一つないのだ。
「仲間だけど、仲間だからって絶対に裏切らないとは限らないし。まあ答えたくないなら良いよ、こっちで独自に調べさせてもらうから」
「生まれはソビエトだ。ロシアではない」
端的に答える。余計な情報まで調べられるのは大変不愉快だ。加えて、私には彼を調べられるほどの技術はない。情報を秘匿すればするほど、私が不利な方向へと引っ張られていく。この男は私の他者へ対する態度を利用しているのだ。相手に何も教えたくない、私を知られたくない、そんな人間であれば誰しも持っているようなものを。
「ソビエト出身……ね。なるほど。今で言うとどこ?とは聞かないでおいてあげる」
余裕そうに私をジャムがたっぷりと塗りたくられているのだろうスプーンを加えたアトラに、私は踏み込む事とした。
「では、次はあなたについて教えて頂けますか?あなたが私を知っていて、私があなたを知らないというのは落ち着かない。それに、私はあなたに情報を提供したのだから、その対価くらい求めさせてもらっても良いだろう」
アラブ系の顔立ちの高貴な青年は、ジャムを飲み込み、スプーンを口から出すと、くすりと笑って
「なるほどね、気に入った。じゃあ私が知っている分の君の情報と同じくらいの私の過去でも教えてあげよう」アトラは話を続けて
「えーっと紀元前3200年ごろの話だけど、当時今のイランがあるメソポタミアにはシュルッパクって名前の都市国家があってね、そこの王子として生まれたのがこの私だ。ここまでは知ってると思うけどね」
私が頷いたのを確認すると、彼は話続け
「んで、私が大人だった頃に、聖書のあれと同じ大洪水が起きて、全部パーになったんだ。その時に方舟に私も乗ってて、収まったー!って思ったら何もなかったんだ。父の姿も、跡形もなくね」
アトラは反射的にティーカップを握る手に力を込めていた。私は、確たる証拠は無いが、彼の中に潜む人間を垣間見たような気がしていた。
「その後に、私は王として即位した。シュルッパク王としてね。でも統治って意外と難しいって分かって、民に信用されなくなった私はどこか遠くに行くしかなかった。後はその辺の図書館でギルガメシュ叙事詩読めばわかるよ、以上!」
「そうか」
私はそう答える事しか出来なかった。正直なところ、ギルガメシュ叙事詩にはあまり詳しくもない。だが、彼もまた人間で私と同じように生きていたことだけは分かった。王族とただの軍人一家では、事情はだいぶ異なっているのだろうが。
「あれー、結構反応薄いねー、なんか驚いたりそういうのってない?」
「そうだな、もう少し情報を頂ければ、それ相応の反応はしますよ」
「じゃあ君がもっと喋らないとあげないよ。でも君は過去を教えたくないタイプだろう?私も同じだ。でも私は有名人だから、調べればいくらでも出てくる。聞くより調べるほうが早いよ」
最後の方はヤケになっているかのようにぶっきらぼうにアトラはそう言って私の方から視線を外す。彼は人間性を失っていると私は考えていたが、案外そうではないのかもしれない。大事なものを守るために心に蓋をした結果、現在のように振る舞っているのではないか、そんなふうに感じられた。きっとアトラの弟子というセレンも同じ事だ。心の中に残る人間を守るために、人外の体で人外の仮面をつけて、剥き出しの人間と戦っているのだ。私もそのように戦うべきなのか、或いは剥き出しの人間を最大限使って戦うべきなのか。たった半世紀しか生きない私には判断はつかず、アレクシアのように人間を全面的に押し出すような生き方もできる間はやっていても悪くはない、なんて思っていた。いつもであればそろそろ話を再開するだろうと思えるタイミングになっても、アトラが口を開くことはなかった。もしかしたら問い詰めるようなことをしてしまったのかもしれない。私はずっと視界に入れないように苦戦していたが、自分に降伏すると、彼へと視線を向ける。するとすぐに、エメラルドのような碧が、私を見つめ返してくる。あー、そろそろ話さないと、という感じにアトラは話始め
「あー、えっとトイレ貸してくれる?そろそろお腹の中に違和感あってさ、ついでに吐く練習でもどう?」
私は彼に首を横に振って意思を示すと、トイレの場所だけを教えた。
アトラの苦しそうに呻く声に重なるように、扉を三度ほど叩く音がした。トイレノックを避けてきたあたり、まともな人がきたのか、アトラの仲間なのかはわからなかったが、私はドアを開ける。するとそこには、シンとアレクシアが来ていた。今日はこちらで仕事だと聞いていたのに、一体なぜここに居るのだろうか。
「こんにちは、どう?元気にやってる?」
「アトラだけでは心配だって話になって、きてやった」
シンとアトラは理由を説明すると、後は何も言わずに部屋の中へと入っていく。そのまま二人はソファに座ると、私かアトラが来るのを待っているようだった。彼らもまた、アトラと同じように厄介なものであることは変わりなかったが、一応私は二人の隣に座った。私が座ったのをシンの先にいるアレクシアが確認すると、話を始め
「で、アトラに何された。絶対に普通に役立つことだけを得られたわけではあるまい。答えろ」
「現段階でトイレに嘔吐をされている事と、既知の情報を確認としょうして、私に語らせました。私の方からも、彼について聞き出しましたが」
私がそこまで話すと、それに真っ先に反応を見せたのはシンだった。
「へー、あいつから話をね。すげーじゃん。あいつ歳取ってから全く色々語らなくなってさ。昔は純粋だったんだけど……あーそう言うことか」
「私と話す気があるのなら、どういうことなのか教えて頂けます?」
「あーごめん、まあ簡単に言うと、お前と若い頃のアトラがくっそ似てるってことだ。あいつも大真面目で自分の信じるもの以外認めない!みたいな頑固な奴だったから」
ええという声を、私は隠しきれなかった。あの何を考えているのかろくに読めなくて、ヘラヘラと笑っている、自由人のようなものが、そういう人間であっただなんて信じられない。シンは私の直感だと嘘をつくようなものではないが、彼の方が私の何倍も多くの経験を積んでいると考えれば息をするように嘘はつけるだろう。それでも、私はその言葉を信じてみる気はある。確かに、アトラが自身の出生を語る時、怒りを表しているのを見た。あれこそがやはり、彼の中の人間なんだろう。ただいまーと言いながらこちらに戻ってくるアトラが見えたので、私は一度思考を中断する。
「アレクシアとシンも来たの?新入りの育成は一任するって約束だったじゃーん。人殺しの二人は嫌われちゃうって思ってたのに仲良くしてるしー」
「お前だけだなんて心配だからな。監視に来て何が悪い」
「悪いに決まってる!君たち組んで私の昔の話とか余裕でしそうじゃないか」
「ほお、お望みか?」
笑みを浮かべながらも敵意を丸出しにしている二人を、シンが止めている。関係性として完成された、バランスの取れたコミュニケーションだ。私は思わず感心してしまう。
「ったく……人の家で喧嘩するなよ、するなら路上で切り合っててくれ。それじゃあ、人間だった頃の暴露大会でもする?アンドレイが話した分だけ俺らも話す。つまりアンドレイがたくさん喋れば喋るほど、俺らから情報を聞き出せる。俺らも君のことをもっと知れるってわけ。まあ、知られたくない過去とかもあると思うから、どのくらい話すかは任せる。少なくとも俺はちゃんと話すから、どう?」
「断ります。私はあなた達に必然的に大量の情報を話さなければならなくなる。不平等だ」
「いや、俺とアレクシアに別々の話をする必要はない。同じ内容を喋っても構わない。俺らは情報共有するつもりはないからな」
甘いねーと言いながらアトラがソファの前に置かれた机に座る。制止しようと思ったが、私の言うことなど聞かないのだろう。
「それで、話してくれないか?俺らも、仲間のことは知りたいし、それはアンドレイも同じだろ?」
私はため息を吐く。どうせ嫌だと言っても向こうは別のメリットを提示して何としてでも納得させにかかる。アトラとは別の意味で厄介なやつだ。
「分かった。全てをお話しする気はないが、ある程度のことは話しましょう。それと、そちらの方はこの話に乗るおつもりで?」
ジャムの小瓶を手に持って観察するアレクシアへとそう尋ねてみる。彼女は不機嫌そうな茶色の瞳をこちらに向けると、小さく頷いた。
「では話そう。私はソビエトで生まれた。現在のロシアに該当する。私の家は皆軍人で、私は三人兄弟の真ん中だ。祖父はロシア革命の関係者なのもあってか、あの国へ対する忠誠はかなりのものだった。そこは帝政ロシアを引き継いでいたのかもしれない。それで、私もまた、祖国の為に力を尽くそうと東ドイツで西へと逃げる人を何人も殺していた。それが私の国の為になると信じて。だが、たった数年後、私の忠誠を誓った国は崩壊した。私はあの国から逃げて、同じ思想の国を旅した。その果てに辿り着いた国で内戦になり、ニコラス……いや、あなた達の言うセレンに会った。後はご存知の通りだろう」
二人は何も言わずにその話を聞いていた。表情すらひとつ変えない。流石にこの手の人間の話は聞き飽きているのだろうか。まだ何か話す必要でもあるのかと話出そうとすると、シンが話し始め
「なるほどな。なんというか、そこまで国家へ忠誠を誓って愛する人なんて、絶対王政の崩壊以降減るばかりだったから、珍しいなーって。でもそこまで愛されたソビエトって幸せもんだな。どれだけ嫌われても、一人でも好きだって言ってくれたら、それだけで嬉しいって思えるし」
そう言って私に笑いかけてくる。本気でそう思っているのか、私の心へ踏み込んでやろうというのか。何が目的なのかまともに読めそうにもない。
「それじゃあ次は俺が話すよ。とはいえ、俺二十歳より前の記憶ないんだけどさ、一万年くらい前?取り敢えずある時なんもないところで目覚めて、集落を目指して歩いてたんだ。そしたら、今のトルコのあたりにある集落に辿り着いて、そこで後の親友に会った。まあ最終的には敵同士になっちまったけどな。その状態で結構長続きして、もう一回味方になった時には死んじゃったんだ。彼の死が俺らに死ねるかもって希望をくれたんだけどね。……とまあこんな感じ」
シンは足を組んでアトラに机から降りるように指示する。アトラは納得しない様子で机から降りてアレクシアの隣に立つ。
「じゃあ次はアレクシアだね!どこまで話すのかなー」
アトラはそうアレクシアをからかうと、彼女は心底嫌そうな顔で話し出し
「私はスパルタの生まれだ。ギリシャの都市国家。言わずとも分かるな?それで十六くらいの頃だったか、結婚して子どもだっていた。まあ夫は戦争で、子どもはスパルタの教育についていけなくて死んだ。で、私の夫を殺したのはセレン、セレニウスだ。あいつの生まれはアテネであの頃はペロポネソス戦争の真っ只中だった」
仕方のないことだったんだが、許せないとアレクシアは付け足して、ジャムの小瓶を開けて、その中を全部口に入れる。シンが小声で彼女なりのストレスの発散法だと一連の行動を教えてくれたが。アレクシアがいかにも怒っているという雰囲気を出し始めたところで、アトラがそうだ、と呟き
「私たちは死に方探そう仲間だけど、知ってる分なら他の仲間のことも聞く?後は死に方探し以外の生きてく上での目標とかも。ああ、それと、君の職場はシンとアレクシアも一緒だから、頑張ってね」
何かを察したかのように、アトラは私の家を後にした。
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