今日は、この国での初めての仕事であった。どうしてイタリアのヴェネツィアからのスタートなのかは誰に聞いても答えてもらえはしなかった。それに理由があるのかも正直なところ怪しい。それにアレクシアに手を引かれて半ば歩かされている以上、まともな仕事をさせてもらえるのかすら危ぶまれる。
「そういえば、アトラから仕事内容は聞かされているか?」
「いいえ、全く」
アレクシアが、ふとそう話し始め、私は反射的に答える。
「ったく……まあそんなところだろうと思っていたが。聞いておきたいか?」
「ええ、まあ」
私の返答にアレクシアは頷くと、より強く私の腕を握り
「悪く思わないでくれ。逃げられれば困るからな。それで、仕事だが、お前にはボランティア企業で我々と労働をしてもらう。ああ、会社の方にはこっちに来たばかりのイタリア語がまだ理解しきれないロシア人と伝えてある。で、詳しい内容などは向こうで聞いてもらおう。質問は」
「何故ボランティアを?という問いには、答えないでしょう。特には。それと手を離していただきたい。逃げようにも、私の後ろを歩いている方には勝てまい」
アレクシアは舌打ちをすると、私の後ろを歩くシンの方を見る。彼がどんな応答をしたのか私は見なかったが、アレクシアは私の腕から手を離した。血が圧迫されていた腕に、一気に温かさが戻ってくる。食事も呼吸も必要のない体に、温かさがあるなどとんだ皮肉ではあるものの。
「信用していただいたことは感謝します。では、可能であれば」
アレクシアの隣に歩み出て、私は思い切って言ってやる。彼らに良いように飼育されるのは、心地良くない。
「分かった。ボランティアを選んだ理由は、人間と関わらせる為だ。生きていく上で我々は数多くの人間を見てきた。その経験は人間社会に溶け込む、人間らしく生きるといった点で大変身を助く。その中で多くの人間と密接に関われる職業で考えて、ボランティアが良いだろうと我々で判断した。異論は受け付けん」
人と関わる仕事は一番嫌いだ。元々はそんな性格ではなかったはずだ。しかし、誰かを助けるということは別に嫌いではない。その助けた相手が敵に回るなんてことがなければの話だが。「……何も言わないのだな。何かしら言ってくると思っていた」
「異論は受け付けないのでしょう。言っただけ無駄と考えたまでです。ご自身の言ったことに統一性を持ったらどうです?」
「最後のは納得いかん。私は一貫としてお前に話しているつもりだ。不愉快だ、取り消せ」
アレクシアが悔しそうに歯を食いしばるのが見える。やはり彼女が一番感情的だ。しかし、セレンも喜怒哀楽豊かだったように思える。
「二人とも会って数日で喧嘩すんなよー。アンドレイは挑発しない、アレクシアはすぐに苛立たない。いがみ合われるとなんか悲しいからやめてくれよな」
アレクシアは納得していなさそうに私を睨むと、下を向いたまま歩き出す。ああにも私情を述べただけでもそれに従うのなら、一番まともに見えるシンが、本当に一番長く生きてそれなりに私を含めた五人の中でも発言権があるのだろう。それならば、彼がリーダーとして新しい仲間を入れた方が上手くいきそうにも感じる。まあそれでも、私は彼らに気を許したいとは思えまい。
「うーん何というか、俺らにも知性がある以上、合う合わないてのは理解できる。それでも数少ない仲間なんだし、喧嘩とかして欲しくないんだよ。人間なんて多過ぎて争ってんだし、俺らみたいな少数の生き物が争ってちゃ種の存続にだって多分関わるよ。今は納得できないところ多いと思うけど、何百年何千年と時間はあるし、分かりあってくれ」
私がシンの方を振り向くと、彼は人の良さそうな笑みを浮かべてくる。誰に対しても敵意を持たず、外見相応の態度を取ってくるあたりが。人の信頼を得ているのだろうか。人間に擬態したところは見たことは無いから推論でしか無いが、その可能性が一番高く見える。アレクシアは私とは異なり、シンの方を一切振り向かず
「理想論甚だしい。長く生き過ぎて脳が逝ったんじゃないか?それに我々は何らかの行動を取らない限り不滅だ。種の存続もクソも無い。だが、そっちの若造と上手くやっていく点でのみ賛成だ」
反対的であるが、全面的に食ってかかりはしないような意見を述べていた。シンはどんな顔をしていたのか、私は目を背けていたので分からないが、私が見た時と変わらず微笑んでいたように思える。それからしばらくして、職場と呼ばれるところへと着く。何というか、小さなお店のような場所だった。しかし、店では店員のいる所謂奥までが椅子などが置かれて利用できるスペースだったので、大して狭いという印象は受けなかったが。どうやら私が来るということは事前に伝えられていたらしく、座るように促されたので円形に用意された席のアレクシアとシンの間に座ると、会社の社長らしき女性の話に耳を傾ける。その四十代くらいの女性の話によると、ここは若い人を中心としたボランティアを各地域に派遣し、我々はその働きで給料を得られるらしい。就職や進学時の履歴書に書ける仕事というわけなのだろう。どちらかというと儲けるという類では無い。食費は生活に一切掛からないと考えると、家賃や消耗品の維持費を考えなければならなくなる。そうなれば、この生活はかなり苦しいようにも感じられる。元々富むことに良い印象は無いが、生活ギリギリレベルというのも少し引っかかる。今の時代は店に行っても何も売ってないなんて、先進国では滅多に無いのだから。今日は話を聞くだけであったが、話によると私は二週間後にヴェネツィアにある小さな家族経営のホテルの手伝いに行くらしい。シンは同行するが、アレクシアはその日はどっかの市場の手伝いに回されていた。
「良かったな、私と同じ仕事でなくて」
アレクシアは帰り道の中で、嫌味らしくそう言った。別に誰と仕事をしようと、仕事であれば構わない。依頼主の為に仕事はこなすものだ。仲間のためではない。私が何も答えないからか、アレクシアは不服そうな顔をしてそっぽ向く。その様子を、シンはまるで子供でも見るように呆れたような、我々の感情変化を手に取るかのように感じ取っているのか、微笑んでいた。人間にとってはそこそこ生きている方の私も、私からは古代の人間に相当するアレクシアも、彼から見ればずっと子供なのかもしれない。いや、それは考えるほどのことでもないだろう。
「いいや、そうでも。仕事は依頼主のために行う。同じ仕事をする者など考えたことも無い」
私が答えると思わなかったのか、アレクシアは驚いて私の方を向く。だがすぐに元の仏頂面に戻り
「それは良かった。こちらもお前など気にせず安心して仕事ができるよ。同じ仕事になった時はよろしく頼むよ」
「誰が同じだろうと関係ない、私の最善を尽くすまでだ」
アレクシアはそういうところだぞと私に返す。その時一瞬だけ、彼女は微笑んだように見えた。それが気のせいなのか、何らかの意図で笑ったのかは、分からない。夕日に照らされた水面が私の視界に飛び込んでくる。そのあまりの眩しさに、私は視線を陰る喫茶店のような建物に逸らした。
「良かったよ、お前らが仲良くしてくれそうで。アトラもセレンも喜ぶよ」
私とアレクシアは同時にシンの方を向く。彼はその様子を可笑しそうに笑い、
「まあ、最初のうちは俺もアレクシアも嫌われる覚悟してたんだぜ。人殺しは嫌いな人って聞いてたから。それにアレクシアは頭が固いし。別に悪いことじゃないけどな」
そういえばそうだ。あの喫茶店にいた人を私のせいで殺してしまった。後のニュースで、遺留物からテロ組織による犯行とされていたが、真実のところは人間によるものでは無い。それだからか、捜査も難航しているらしい。しかし、あの場で虐殺を止められなかったのは私にも原因はある。一貫として彼らだけを人殺しとして非難することは出来ないのでは?彼らとやっていくことを選んだ理由にはそれが大きくある。
「まあ細かいところは何でもいいけど、いつか人間は死んじゃうんだし、それが早いか遅いかってだけだよ。そんな奴らとっとと忘れて、この複雑化していく世界で頑張ろうぜ」
私たちも日陰に入り、沈んでゆく夕日から夜空へと目を向ける。やがて二人は私を家まで見送ると、どこかの闇へと消えていった。一人きりの部屋で、テレビをつけると、またニュースはシンとアレクシアの大虐殺で持ち切りだ。あの日イタリアに入国したテロリスト達の犯行ということになっているらしい。きっと私が人間であったなら、自分も捕まる覚悟で、真実を伝えただろう。だが今は真犯人を警察へとつきだし、私も捕まったところで、彼らは真実を屈折させて、私だけが虚偽通報を咎められるに至るだろう。加えて彼らに私の今の正体をバラされてしまえば困る。こちらが弱味のある限り、絶対に通報など出来ない。それを知ってあの人達もああすることを選んだのだ。
「手強い人達だ。そう思わないか……」
誰に語りかけるでもないが、私はそう吐き出す。強いていえば、短命で死んでいった兄と弟だろうか。私が彼らと同じ楽園へと行くにはまだまだ時間がかかる。もしかしたら、一万年以上そうするのかもしれない。伝承の人々のように、最後の審判が来る頃には、長き放浪を終わらせられるのかもしれないが。でもそうなると異教徒のシンやアトラはどうなる?そもそも神すら信じていなさそうに見える。恐らく神よりも長く生きている、自分より歳下の神など信じられるのだろうか。到底理解できない。
「労働者か……悪くない立場かもしれない、そう思うよ」
渡された資料をめくり、アトラが置いていった英露辞典を開いた。内容をなんとか解読していくと、話の通り家族経営のホテルの手伝いに行くらしい。パーティの予約が入ったから、その人手を念の為に欲しいということであった。人と接するのは得意なことではないが、どんどん発展していく人間社会を生き抜くのに必要なのは、コミュニケーション能力だ、と皆口を揃えて言っている。であれば、二週間後までにコミュニケーション能力を鍛えておくべきだろう。練習台には……彼らに頼めば承諾してくれると願いたい。
コメント
2件