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後部座席に押し込まれたヒョヌは、シートに背を沈めたまま
ジホの背中を見つめていた。
運転席にいる男の背が、
ネオンの残光で紫に滲んでいる。
「……どこに行くんだ。」
ヒョヌは絞り出すように問う。
ジホはバックミラー越しに
軽く目だけを合わせた。
「だから、新しい部屋。」
「何を……させる気だよ。」
車内に低い笑い声が転がる。
「別に。
ちょっと面倒なことを、
代わりにやってもらうだけ。」
ヒョヌは息を詰める。
「……薬、か。」
ジホは短く笑った。
「それもあるな。
でも俺が欲しいのはそれだけじゃない。」
信号が赤に変わると、
ジホはシートに片肘をついて
後部座席のヒョヌを振り返った。
「お前はさ、
嘘つくのが下手だろ?」
ヒョヌは答えられない。
ジホの笑みがゆがむ。
「いいんだよ、それで。
嘘のつけないお前を、
俺が使いやすくするだけだからさ。」
青に変わると、車はゆっくりと
夜の街を抜けて走り出した。
着いたのは、
歌舞伎町から少し離れた雑居ビルの
古びた一室だった。
無機質な白い壁、
カーテンは薄いグレー、
空気には消毒液と香水が混じる。
「……ここが、俺の部屋か?」
ヒョヌがつぶやくと、
ジホは背後から抱くように肩を掴んだ。
「ここでお前は俺の“代わり”になる。」
耳元で、甘い声が落ちる。
「客の相手も、
薬の受け渡しも、
ちょっとした言い訳も。
俺が直接やるより面倒が減るだろ?」
ヒョヌは首を横に振った。
「無理だ……そんなの、俺には……。」
ジホはヒョヌの髪を指に巻き取って、
優しく引き寄せた。
「無理なら教えてやるよ。
大丈夫。お前は“俺のもの”だから。」
膝が抜けそうになるのを、
壁に手をついて堪える。
背後でドアの鍵がかかる音がした。
「……ヒョヌ。
いい子にしてれば、
何も怖くないからさ。」
そう囁くジホの息が、
ヒョヌの首筋をくすぐった。
ヒョヌの足元に、
ジホが無造作に小さな銀色の袋を投げ落とした。
「ほら。落ち着け。」
ヒョヌはしゃがんで袋を拾い上げた。
指先が震えてうまく切れない。
「……これ、何。」
ジホは笑って、
ヒョヌの後ろ髪をそっと撫でた。
「お守りだよ。」
ひどく優しい声だった。
ヒョヌは封を切り、
薄い粉を舌の上に落とした。
苦味が広がって、
すぐに頭の奥がじんわりと熱を帯びる。
視界がふわりと滲んだ。
ジホの顔が、近いのに遠い。
「……そうだ、それでいい。」
ヒョヌの頬を片手で包んで、
ジホはゆっくりと顔を寄せた。
「これで取引成立な、ヒョヌ。」
唇が触れた。
苦い薬の味と、
甘い煙草の香りが混ざった。
ヒョヌは抗えなかった。
頭の奥で何かが切れたみたいに、
膝が力をなくしていく。
ジホはその体を支えながら、
耳元に小さく笑いを落とす。
「これでお前は俺のもんだ。
……いいだろ?」
返事は声にならなかった。
体の奥がじわじわと熱くなる。
足の先から頭の奥まで、
濁った水みたいなものが
ゆっくりと満ちていく。
床に座り込んだヒョヌの耳に、
低い笑い声が遠くで弾けていた。
見上げると、ジホの紫の髪が
部屋の薄明かりに揺れている。
「……見ろよ、その顔。」
ジホの指がヒョヌの頬を撫でる。
「なあヒョヌ。
気持ちいいだろ?
お前、もう戻れねぇよ。」
言葉が染みていく。
胸の奥が、少しだけ楽になる。
どうせ全部投げ出したかった。
あの街にいた頃も、
何をしても埋まらなかった。
「……もう、いいか……。」
ヒョヌの口から、
かすれた声が漏れる。
ジホは満足そうに目を細めて、
膝をつき、ヒョヌの髪を乱暴に掴む。
「そうだ、それでいい。
楽になれ。俺に全部くれてやれ。」
熱い吐息が耳元をなぞる。
ヒョヌは薄く笑った気がした。
何も考えられない。
何も怖くない。
ただ、
ただ、
何かに沈んでいく――
床の冷たさが、
どこか遠くでヒョヌを繋ぎ止めていた。