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❖ プロローグ|遠くへ行ってしまう君
by ウタハ
11歳の冬
少年院。
無機質な灰色の塀に囲まれた、正門。
――自分の居場所を見つけた。
長年、隣にいた片割れが、そう言った。
まるで、前から決めていたことを告げるみたいに。
迷いも、躊躇いもない声だった。
待ってよ。
どこへ行くの?
置いていかないで。
──横浜だよ。
それだけを言い残して、あの子は行ってしまった。
振り返ることもなく。雪が降っていたかどうかさえ、もう思い出せない。
ただ、胸の奥がひどく冷えていたことだけは、覚えている。
───────────────
第三者視点
神社の境内に、低い排気音が流れ込む。
重たいエンジン音が夜の空気を揺らし、次の瞬間、野郎どもの怒号が境内いっぱいに跳ね返った。
冬の夜気は、肺の奥まで刺さるほど冷たい。
真っ黒な特攻服に身を包んだ東京卍會の面々がずらりと並ぶ中、ウタはふと、自分の左腕に視線を落とした。
そこに巻かれた腕章。
「……あ、一だ。一番隊」
小さく呟く。
以前、二番隊にいた名残で、集会のたびに自分の立ち位置を見失いそうになる。
二から一へ。ただ数字が変わっただけなのに、その意味の重さだけが、まだ自分の足に馴染んでいない。
どこか地面を踏み損ねているような、ふわついた感覚のまま歩みを進める。
そのとき。
紅梅色の瞳が、見慣れた金の刈り上げを見つけた。
「千冬、おはよ!」
声が弾む。
夜の冷え込みなんて、忘れたみたいに。
「おはよ。……じゃねぇよ、今は夜だろ」
松野千冬は、呆れたように溜め息を吐きながら振り返った。
吐いた息が、白くほどける。
四年前。
長姉を亡くし、ひとりになったウタを引き取ったのは松野家だった。血の繋がりのある親戚。
朝になっても起きない千冬の布団を、ウタが容赦なく蹴り飛ばす。
そのままリビングで、枕を武器にした乱闘が始まる。
そんな日常が、もう何年も続いている。
千冬にとってウタは、年上として敬う相手じゃない。
手のかかる――どうしようもなく世話の焼ける姉貴分だった。
「……で?」
千冬の目が、わずかに細くなる。
「お前、昨日なんで帰ってこなかったんだよ」
ジロリと射抜く視線。
ただの心配じゃない。何かを――期待している目だった。
「あー、マイキーの家に泊まったんだよね」
ウタは悪びれもせず言う。
「ほら! エマと女子トークが盛り上がっちゃってさ! 恋バナとか?」
「……」
一拍。
「ふーん。相変わらずだな」
千冬は鼻を鳴らし、前を向いた。
少しだけ、ほんの少しだけ、残念そうな顔をして。
(早くくっつけ、アホ星人。)
そこへ、一番隊隊長――場地圭介が現れた。
乱暴に髪をかき上げながら歩いてくる姿は、まるで縄張りを巡回する獣みたいだった。
「なんだウタ、エマと話し込んでたのか?」
声が太い。腹の底から出ている。
「夜遊びもいいけどよ、風邪ひいて集会休むんじゃねぇぞ」
その言葉に、疑いは一切なかった。
恋愛なんてものが、ウタと総長の間にあるなんて。そんな発想すら、場地の頭にはないらしい。
その鈍感さに、千冬の目には敬愛だけでなく、どこか呆れがあった。
(バジさんも相変わらずだな……)
「おーい! マイキーが来るぞ!」
誰かの声が飛ぶ。
その瞬間、境内の空気が一段、張り詰めた。
階段の上。
常夜灯の光を背にして――佐野万次郎が現れる。
その姿が見えた瞬間。
ウタの心臓が、昨夜と同じリズムで跳ねた。
特攻服を羽織り、ゆっくりと歩く。
足音は静かなのに、存在だけが妙に重い。
整列した一番隊の横を通り過ぎる、その一瞬。
誰にも気づかれない速さで、彼はウタハを横目に見た。
「……集会、始めるぞ」
低い声が落ちる。
空気が揺れ、一瞬で静寂。
ウタは慌てて、背筋を伸ばした。
まるで、何もなかったかのように。
⸻
境内の静寂を切り裂くように、マイキーの声が響いていた。
低く、感情を削ぎ落とした声だ。
彼女は気づいた。
壇上に並ぶ幹部たちの間に、見慣れぬ男が一人立っている。
三番隊隊長代理として紹介された男――稀咲鉄太。
細い目。
貼り付いたような無表情。
笑っていないのに、なぜか口元だけが歪んで見える。
底の見えない威圧感に、一番隊の列に並ぶウタも思わず息を呑んだ。
「……なんか、あの人、怖い」
隣の千冬にだけ届くような声で呟く。
だが、その直後――
列が大きく揺れた。
誰かが飛び出した。
壇上へ向かって一直線に駆け上がる影。
見覚えのある金髪。
「……え、!?」
ウタが目を見開いた、その瞬間
乾いた音が境内に弾けた。
――バキッ。
武道の拳が、稀咲の顔面を真っ向から捉える。
「あ……」
短い声が、喉から漏れた。
何が起きたのか。
理解するより先に、背筋が冷える。
総長が決めた人事に逆らう。
しかも、この場で拳を振るう。
それがどういう意味か――
ウタにだって、わかる。
周囲が一斉にざわめいた。
「東卍の集会をぶち壊しやがって、今すぐつまみ出せ。」
怒号が飛ぶ。
空気が一気に荒れていた、
ウタは思わず、特攻服の裾をぎゅっと握りしめた。
「ちょっと、ひよこあたまくん何やってんの……!?」
声が震える。
視線が、壇上へ向く。
マイキーは、動かない。
一歩も。
指先ひとつも。
ただ、冷たい。
凍りついた水面みたいに、静かだった。
千冬もまた、険しい目で壇上を睨んでいる。
「……アイツ、何考えてんだ……」
だが、彼女にはマイキーの考えの方が理解できなかった。武道の行動よりも、ずっと。
騒ぎは止まらない。
次の瞬間。
横から飛び込んできた影が、武道を殴り飛ばした。
――場地圭介。
拳が振り抜かれ、武道の体が大きく崩れる。
ウタの思考が追いつかない。
一番隊隊長である場地が、
自分の隊員を殴り飛ばす。
さらに――
「東卍を辞める」
その言葉が落ちた瞬間。
空気が、凍った。
頭の中が真っ白になる。
昨夜。
マイキーの部屋で笑い合った時間。
「ずっと一緒」だと交わした言葉。
あの温度が、
まるで幻だったみたいに遠ざかっていく。
壇上のマイキーは、まだ動かない。
だが――
その背中。
そこから、何かが滲み出ている気がした。
黒く。
重く。
触れたら指が汚れそうなほどの、濁った何か。
「……マイキー……」
小さく呟く。
だが、その声は怒号の中に沈んでいった。
ウタは、怖かった。
あのまま――戻ってこない気がした。
場地が去り――
集会は、最悪の空気のまま解散した。
⸻
「待ってよ、バジ……っ!」
ウタは地を蹴った。
特攻服の裾を翻し、石段を駆け下りる。
その先を歩く、一番隊隊長――場地圭介の背中へ。
小さな手が、分厚い肩を掴む。
ガシッ、と鈍い音がした。
「何考えてんの……っ!
あんなに東卍が好きだったじゃん!
全国制覇するんじゃなかったの!? ねぇ!」
場地の足が止まる。
振り返った瞳は、鋭く尖っていた。
いつもの、あの笑いを含んだ光はない。
それでもウタは怯まない。
頬をいっぱいに膨らませて、場地を睨みつける。
「何か、考えがあるんでしょ……?
一人で抱え込んだら、お腹痛くなるんだよ!
いつも言ってるじゃん……私たちが半分こするって!」
その言葉に。
ほんの一瞬だけ――
場地の表情が揺れた。
「……離せ、ウタ」
低い声。
「やだ! 離さない!」
掴んだ手に、さらに力がこもる。
「一番隊はどうするの?
千冬はどうすんのよ……!
私は、バジがいない一番隊なんて……」
喉が詰まる。
「……そんなの、幾つの隊だか分かんなくなるよ……!」
紅梅色の瞳から、大粒の涙がこぼれた。
場地は、ウタの手を見下ろした。
そして――
ゆっくりと。
けれど、はっきりと。
その手を振り払った。
「……ウタ」
一拍。
「お前は、アホのままでいろ。
余計なこと考えんな」
冷たい声だった。
だが。
その背中が、ほんのわずかに震えているのを――
ウタは見逃さなかった。
場地は、そのまま歩き出す。
一度も振り返らない。
闇の中へ、まっすぐ消えていく。
「バジ……バカっ!」
声が裏返る。
「ほんとにバカなんだから……っ!」
足から力が抜けた。
その場にへたり込む。
視界が滲む。
昨日。
あんなに笑っていたのに。
あんなに、温かかったのに。
ウタは、自分の薬指をぎゅっと握りしめた。
「……どうしよう」
掠れた声。
「マイキー、千冬…どうなっちゃうの……」
暗い境内の隅で。
ウタの嗚咽だけが、長く残った。
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