テラーノベル
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「瞼の裏の世界」
眠っているあいだ、僕は家の中にいる。
起きているときの家とは、少し違う。
壁は呼吸をしている。天井は低く垂れ下がり、廊下はどこまでも長い。床板の軋む音が、僕の名前を呼んでいる。
――こっちへ来い。
そう言われると、僕は歩く。
歩いている、という感覚はない。足の裏が勝手に床を探し、膝が曲がり、腕が揺れる。僕は僕の身体の後ろを、いつも少し遅れてついていく。
窓の向こうには、夜がある。
夜は黒い水のようで、家全体がその中に沈んでいる。カーテンを開けると、ガラスに僕の顔が映る。目は閉じている。口だけが、誰かに許しを乞うみたいに動いている。
ごめん。
何に対して謝っているのかは、わからない。
朝になると、母は僕の手首を見て泣く。赤い痕が残っている。爪の間に土が詰まっていることもある。玄関の鍵が開いていた夜もあった。僕の靴が、家から遠く離れた用水路のそばで見つかったこともある。
「何も覚えてないの?」
母はそう聞く。
僕は首を横に振る。
本当に覚えていない。
だからこそ、怖い。
眠る前の僕は、自分が何をする人間なのか知らない。目を閉じた途端、別の僕が現れる。僕よりも力が強く、僕よりも迷いがなく、僕が隠しているものを全部知っている。
あの夜、母が泣いていた。
夢の中で、僕は廊下の端に立っていた。先には、昔の子ども部屋がある。そこは何年も使われていない。壁紙の剥がれた跡が、黒い手形のように残っている。
部屋の中から、弟の声がした。
「兄ちゃん、まだ見つけてくれないの?」
僕には弟なんていない。
そう思った瞬間、頭の奥で何かが軋んだ。
知らないはずの名前が、喉の裏までせり上がる。
僕はドアノブに手をかけた。
冷たい。
回すと、部屋の中には古い布団が敷かれていた。布団の中央が、誰かが横たわっているように膨らんでいる。
「兄ちゃん」
声がする。
僕は近づいた。
布団をめくる。
そこにいたのは、僕だった。
幼い僕が、目を閉じたまま横たわっている。頬に泥がつき、唇が青い。胸は動いていない。
その子どもが、目を開けた。
「どうして置いていったの?」
僕は後ずさった。
けれど、眠っている身体は止まらなかった。
子どもの首に、僕の手が伸びていく。
やめろ、と叫んだつもりだった。
声は出なかった。
指が細い首に触れた。柔らかく、冷たかった。子どもは抵抗しない。ただ、僕を見上げていた。
「今度は、起こしてくれる?」
そこで目が覚めた。
朝だった。
僕は子ども部屋の前に立っていた。手には、母の古いスカーフを握っていた。ドアは開いている。部屋の中には、何もない。
母は階段の下で倒れていた。
首に、赤い痕があった。
救急車の音を聞きながら、僕は自分の手を見ていた。震えているのは、起きている僕だった。
母は助かった。
けれど、目を覚ましてから一度も僕を見ない。
病院の白いベッドの上で、母はずっと窓の外を見ている。
「あなたじゃないものが、夜に来るの」
そう言って、母は毛布を握りしめた。
「あなたの顔をしてるけど、あなたじゃない」
僕は眠るのが怖い。
眠らなければ、あれは出てこない。
そう信じて、何日も起き続けた。カフェインを飲み、冷たい水で顔を洗い、部屋のドアに椅子を積み上げた。
でも、身体は僕の味方ではなかった。
ある朝、僕はベッドの上で目を覚ました。
両手が、血で濡れていた。
目の前には、開いた窓。
床には、母のスカーフ。
そして壁に、爪で引っかいたような文字が残っていた。
――次は、起こさないで。
僕はその文字を見て、初めて思い出した。
弟は、いなかったんじゃない。
弟を忘れたかった僕が、いなかったことにしたのだ。
あの夜、弟は僕を起こしに来た。
家が火事になっていると、何度も叫んでいた。
僕は眠ったふりをした。
布団の中で耳を塞ぎ、弟の声が消えるまで待った。
だから今も、夜になると廊下が伸びる。
弟が、ずっと向こうで立っている。
僕が眠るのを待っている。
今夜、僕は眠らない。
そう決めていた。
けれど、まぶたが重い。
部屋の外で、床板が軋んだ。
ひとつ。
また、ひとつ。
誰かがこちらへ歩いてくる。
僕はベッドの端に座り、動かないように両手を縛った。
それでも、足が立ち上がる。
僕の身体が、僕を置き去りにする。
廊下の向こうで、弟が笑った。
「兄ちゃん。今度は、ちゃんと一緒に寝ようね」
僕は叫ぶ。
僕は叫んでいるはずなのに、口から出たのは小さな寝息だけだった。
コメント
1件
うわあ……めっちゃ怖かった😭💦 最初は「夢の中の不思議な家」かなって思ってたのに、弟の存在が明らかになるにつれてどんどん重くなって……「どうして置いていったの?」のセリフが刺さりすぎる… 最後の「一緒に寝ようね」が本当にゾッとする。眠りたいのに眠れない主人公の気持ち、すごく伝わってきたよ…!続きが気になりすぎるけど、このままホラー突っ走るのかな? 待ってるね!