「えー! マジで? サイアク!」
教室中に響きわたる高い声。
小さな紙切れを握りしめていたあたしは、空想の世界から、ずりっと引き戻された。
午後の日差しが差し込む、にぎやかなホームルームの時間。黒板の前でくじを引いた生徒たちが、仲のよい友だち同士で集まっ
ている。
あたしもいつものメンバーの後ろに立ち、息をひそめて様子をうかがう。
「図書委員なんかやりたくなーい!」
「あはは、がんばれー、瑞穂」
「あんたらねー、他人事だと思ってるでしょー!」
「そんなこと思ってないって」
このグループの中心にいるのは瑞穂だ。彼女のまわりの女の子たちが、白紙の紙切れを、ほっとしたように見せ合っている。
むすっと顔をしかめた瑞穂の紙にだけ、「図書委員」という文字。
あたしは自分の持っている真っ白な紙を、手のなかでぎゅっと握りつぶした。
「じゃあ図書委員は、世良瑞穂さんに決定ってことで」
黒板の前に立っているクラス委員が言う。教室内が、安堵の空気に包まれていくのがわかる。けれど瑞穂は、大げさに首を振って反論した。
「ちょっと待って! ぜったいあたしより適任のひとがいるはず!」
「えっ、瑞穂?」
「平等にくじ引きで決めることになったんじゃ……」
まわりの子たちが戸惑い、ぽつぽつと文句を言いはじめる。だけど本気で怒っているわけではない。
中一からメンバーの変わらないこのクラスで、瑞穂に反論できる子なんていないのだ。
ここはみんなに合わせておこうと、あたしも口を開こうとしたそのとき――振り向いた瑞穂と目が合った。
瞬間、小さく心臓が跳ねる。
「ねぇ、うららん?」
瑞穂の甘ったるい声が、制服の上からあたしの肌を、すうっとなでた。
あたしは瑞穂の後ろに突っ立ったまま、ごくんと唾を飲み、ぎこちなく微笑む。
「なぁに? 瑞穂」
すると瑞穂は、少し肩をすくめ、あたしの前で両手をパチンッと合わせた。瑞穂がひとになにかを頼むときの、小学生のころか
ら変わらないお決まりのポーズ。
ほら、思っていたとおりだ。
「うららん、お願い! あたしの代わりに、図書委員やってくれない?」
あたしは黙って瑞穂を見つめる。胸の奥から、もやもやした気持ちが湧き上がってくる。
まわりの女の子たちが「瑞穂、ずるいよー」「うららん、かわいそー」なんて言っているけれど、内心どちらでもいいのだろう。
みんなは自分さえ当たらなければ、誰が面倒な役になろうと関係ないのだ。
「ねっ、ねっ、うららん、お願い!」
瑞穂が手を合わせたまま、ちょっと首をかしげて、あたしに笑いかける。
大きな瞳に長いまつげ。ふんわりと巻いた髪を高い位置でポニーテールにし、お気に入りのシュシュをつけている瑞穂。唇にこ
っそり塗っているのは、校則違反の色つきリップだ。
瑞穂はどんな表情をすれば、自分がさらにかわいく見えるかって、ちゃんと知っている。そして、あたしみたいな、地味で平凡
な子より、自分のほうがずっとかわいいと思っている。
「だってうららん、国語得意でしょ? あたしなんかよりずーっと、うららんのほうが適任だと思うんだよねー」
力を込めて言ってから、瑞穂はポニーテールを揺らして、まわりのみんなをぐるりと見まわした。
一瞬の沈黙。そのあと、女の子たちが口をそろえる。
「そうかもねー。うららん、読書感想文も上手かったし」
「うんうん。うららんが適任だよ!」
瑞穂の後ろでおまけみたいに突っ立っていたあたしに、突然たくさんの視線が集まった。なかには、ちょっぴりあたしを憐れん
でいる視線も混ざっているけど、こんな場面で反対意見なんて言えるわけがない。
そのなかで一番強い視線を送ってくるのは、このグループの、いやこのクラスのぜったい的リーダー、瑞穂だ。
「えー、でも、あたしなんか……」
苦笑いしながら出したあたしの声に、瑞穂が言葉を重ねてくる。
「そういえばさ、うららん小学校のときも、図書委員やってなかったっけ?」
「あれはクラスの図書係だよ。委員会とは違うから……」
「大丈夫、大丈夫! うららんならできるって!」
瑞穂があたしの両手を握った。そしてその手にぐっと力を込める。
「ねっ、うららん! 一生のお願い!」
瑞穂は知っている。あたしがそれを断れないこと。
「あー、むかつく!」
家に帰ったあたしは、手に持っていたお菓子を、自分の部屋のベッドに放り投げた。
放課後、瑞穂がにこにこしながら、「図書委員代わってくれたお礼」とあたしにくれた、一個二十円のチョコだ。
「瑞穂ってば! いっつも偉そうに!」
小学生のころから、瑞穂はあたしよりテストの点数が低くて、中二になったいまだって、クラスのなかで下から数えたほうが早い。
だけど顔がかわいくて、コミュ力高くて、流行に敏感なため、彼女はいわゆる「一軍女子」なのだ。
そんな瑞穂の好きなものは、カワイイ雑貨、ノリの良い女子、メイクやヘアアレンジ、あまーいパフェ……嫌いなものは、ノリ
の悪い子、勉強ができる子……だからテストで高得点を取った子に対して、「勉強ばっかりしてて、なにが楽しいんだろう
ね?」なんて言っていたこともある。
あたしは内心「勉強がんばってる子のこと、そんなふうに言わなくてもいいのに」って思ったけど……
でも瑞穂に逆らうと、あの教室では生きづらくなる。それをまわりのみんなもわかっているから、瑞穂に合わせる。
あたしだって……「ありがとう。あたしこれ、大好きなんだ」なんてへらへら笑って、瑞穂からチョコを受け取っているし。
ため息をひとつつき、壁にかかった鏡を見る。そこには冴えない表情をした、自分の顔が映っている。
肩のあたりで跳ねている、まとまりにくい黒い髪。特徴のない地味な顔立ち。大嫌いなほっぺたのそばかす。
もしあたしが瑞穂みたいにかわいかったら、言い返すことができただろうか。
「瑞穂が当たったんだから、瑞穂がやって」と、はっきり言えただろうか。
そんなことを考えて、ぷるぷるっと首を振る。
「あー、もう!」
あたしは部屋に置いてあったスマホを手に取ると、制服のままベッドにダイブした。そしてうつぶせでスマホを操作し、いつも
の画面を開く。
小説投稿サイト。
ログインすると、今日もたくさんのコメントが目に飛び込んできた。
『いつも更新ありがとうございます! 今回もめっちゃ泣けました!』
『URARAさんのお話だいすきです。続きも楽しみにしています』
『すばらしい展開! ぐっときました! 感動です!』
あたしは口元をゆるめる。さっきまでのもやもやが、すうっと晴れていく。
いい気分。サイコーだ。
にやにやしながら、たくさんの褒め言葉を確認したあと、トップページへ移動する。
今日の小説ランキング。『URARA』の小説は、総合五位にランクインされていた。
「あははっ」
足をバタバタさせてから、スマホを持ったまま、ごろんっとあおむけに転がる。
「どうよ、瑞穂」
天井に向かってつぶやく。
「あんなちっぽけな教室のなかでマウント取ってる瑞穂より、こっちのほうがずっとずっとすごいんだから」
人気ウェブ小説家『URARA』。この投稿サイトで「泣ける小説」を書いている、ちょっと謎めいた人物。本名はもちろん、
年齢、性別、住んでいる場所、学生なのか社会人なのか……すべて不明。
『URARA』の投稿する小説は「ぜったい泣ける!」「100パーセント涙!」と評判で、たくさんの熱狂的ファンが応援し
てくれている。
ランキングは常に上位。フォロワーは二千人越え。更新するたびに、返事がしきれないほどの感想コメントが送られてくる、こ
のサイトでは、ちょっとした有名人なのだ。
そしてその『URARA』が、ここにいる『高月麗』だってことは、誰も知らない。
あたしはスマホの画面を見つめたあと、のっそりと体を起こす。ベッドの上に、瑞穂にもらったチョコが転がっている。
ううん、違う。
ふと、頭のなかに、雨の降っていた放課後の教室が浮かんできた。
『URARA』があたしだって知っている人間は、この世界にたったひとりだけいる。
「あー、そこ、知ってる! 帰り道に新しくできた喫茶店でしょ?」
「うん。パフェがでかくて、めっちゃおいしいんだって」
「マジで? 行きたい! 行こうよ、今日!」
あたしたちの放課後の予定は、いつも瑞穂のひと言で決まる。ひとの都合なんておかまいなしだ。
「じゃあ家に帰って着替えたら、公園の前に集合! 決まりね!」
瑞穂の声にまわりのみんながうなずく。
どうやら今日はパフェを食べに行くらしい。誰も反対する子なんていない。
「うららんも行くでしょ?」
グループの後ろに立って、他人事のように聞いていたあたしに、瑞穂が声をかけてきた。
あたしはちょっと残念そうな表情を作って、瑞穂に答える。
「ごめん。あたし今日、図書委員会なんだ」
「あ、そうだっけ。悪いねー、うららん。今度うららんが掃除当番の日、あたしが代わるからさー」
瑞穂があたしの両手をぎゅっと握る。これは謝るときの、お決まりポーズ。掃除当番なんか、代わるつもりもないくせに。
瑞穂はすぐに手を離すと、もうあたしのことなんてどうでもいいように、背中を向けた。目の前でシュシュのついたポニーテー
ルが、ふわんっと揺れる。
「んじゃ、行こう! パフェ、パフェ」
「瑞穂、あんたどんだけパフェ好きなのよ」
「えー、だってでかくてめっちゃおいしいんでしょ? もう行くしかないじゃん!」
瑞穂をはじめ、みんながけらけら笑いながら、教室を出ていく。何人かの子がちょっと気まずそうに「うららん、ばいばい」と
言ってくれる。
あたしは偽物の笑顔で、みんなに手を振る。
「ばいばい。いってらっしゃい」と。
あー、もう、イライラする。
なにがパフェよ。なにが「あ、そうだっけ。悪いねー」よ。
図書室の席に座って、広げたノートにシャーペンの芯をつき立てる。
なんであたしが図書委員なんてやらなきゃいけないの? くじ引きで決まったのは瑞穂じゃん!
それを言えないあたしは、つき立てたシャーペンに力を込める。ポキンと細くて脆い芯が折れ、ノートの上で跳ねた。
「それでは第一回図書委員会をはじめます」
前に立った三年生がみんなに言った。ざわついていた室内が静まり返る。
だけど――あたしはカチカチとシャーペンの芯を出しながら考えた。
いつものように瑞穂たちの後ろをおまけみたいについて行って、食べたくもないパフェを食べて、つまらないのにへらへら笑っ
ているよりは、ここにいるほうがましかもしれない。
あたしはぐるりとまわりを見まわす。中学校の図書室は、小学校の図書室よりずっと広い。小説はもちろん、漫画や雑誌まで置
いてある。
たくさんの本に囲まれるのは、悪くないな。
休み時間や放課後は、いつも瑞穂たちとおしゃべりしていて、いままで図書室に来ることはなかった。
でもこれからは、気軽に本を読んだり借りたりできるかも。
面倒だと思っていた委員会を、ちょっといいかもと思いはじめたとき、その声が聞こえた。
「遅れてすみません」
低い声とともにカラリとドアが開く。あたしはなにげなくそちらを向き、背中を丸めた男子生徒の姿を見た。
ポキン。ノートにつき立てたシャーペンの芯が、再び折れる。
「……嘘」
思わず声がもれた。遅れてきた男子生徒が、静かに図書室に入ってくる。
「澤口……」
間違いない。
ノートを脇に抱えた、おとなしそうな男子生徒は、あの澤口比呂に違いなかった。
誰にも気づかれないよう、あたしは深く息を吸い込んだ。シャーペンを持つ手が、じんわりと汗ばむ。
嘘でしょう? あいつも図書委員だったの?
前より少し髪が伸びて、眼鏡をかけていないけど……猫背な姿勢は変わっていない。
澤口はあたしに気づいていないのか、まっすぐこっちに歩いてきて、あたしの右側の空いている席に腰かけた。
カタンッと椅子を引く、小さな音がする。あたしはあわてて下を向き、ノートの上に転がっている折れた芯を見つめる。
「これで全員そろったね。ではあらためて、第一回の図書委員会をはじめます」
心臓が、ありえないほど、ドキドキしていた。
三年生の声が、耳を素通りし、まったく頭に入ってこない。
だってまさかこんな状況になるなんて……必死になんでもないふりをしていたけれど、あたしは内心パニックになっていた。
「それでは最初に、自己紹介をしてもらおうと思います。ではまず、一年一組の委員さんから……」
正直、委員会なんて、もうどうでもよかった。それよりもあたしの全神経は、右側の席に集中していた。
ぎゅっとシャーペンを握りしめる。心のなかで、落ち着け落ち着けって、自分に言い聞かせる。
そして覚悟を決めて、ほんの少しだけ首を横に動かした。
となりに座る、澤口の横顔。開いたノートに視線を落とし、シャーペンでなにかを書き込んでいる。
こんなに近くでこの顔を見るのは、いつぶりだろう。
目にかかるほど、伸びた前髪。その髪は黒く、つやつやしていて、寝ぐせのねの字もない。
けだるげな横顔は、どこか大人びて見えて、教室で騒いでいるうちのクラスの男子とは、ちょっと違う感じがした。
……なんだか知らないひとみたい。
あたしは無意識に、自分の髪をなでつけていた。なぜだかすごく、肩の上で跳ねているこの髪が恥ずかしかった。
「では次……二年一組の委員さん」
「はい」
ガタンッと音を立てて、澤口が立ち上がった。いつの間にか、自己紹介が進んでいたのだ。
あたしの体がびくっと震えて、肘に当たったペンケースが、机から滑り落ちる。
ガシャンッ――
静かな図書室のなかに、大きな音が響き、あたしのシャーペンやマーカーが床に散らばった。まわりの視線が一気に、澤口から
あたしに移った気がした。
「す、すみませんっ」
椅子から立ち上がり、あわてて床に落ちたペンを拾う。
もうっ、もうっ、なにやってるの? あたし!
顔から火が出そうになりながら、拾ったものをペンケースに詰め込んでいると、目の前にすっと手が差し出された。
「え……」
あたしのピンクのシャーペンを持つ、男の子の手。
「あっ、えっ?」
思わず顔を上げると、シャーペンを差し出しながら、あたしを見下ろしている澤口と目が合った。
澤口は無表情だ。にこりともしない代わりに、怒っているふうでもない。
だけどそれが余計に、あたしを責めているみたいに思えてしまう。
長い前髪からのぞいた、澤口の瞳。その瞳はあいかわらずきれいで、はじめて会話した日を思い出す。
だけどいま、澤口の目に、あたしはどんなふうに映っているんだろう。
想像したらこわくなって、いますぐここから逃げ出したくなった。
あたしはとっさに視線をそらし、震える手でシャーペンを受け取る。
「あ、ありが……」
出そうとした声がかすれていた。澤口はなにも言わず、体を正面に向ける。そして低い声で、自己紹介をはじめた。
「二年一組の澤口比呂です」
しゃがんで、うつむいたままのあたしの耳に、その声が聞こえる。
「本を読むのが好きで、図書委員に立候補しました。よろしくお願いします」
澤口に拾ってもらったシャーペンを、ぐっと握りしめる。
本を読むのが好き――澤口はそう言った。みんなの前で堂々と。
胸の奥が、ひりひり痛む。
あたしの体は氷みたいにつめたく固まって、意識だけが二年前の小学六年生にタイムスリップした。