夏休みに入り、帰省することになったみこと。
開け放たれた窓から、虫の声と夜風がやわらかく入り込んでいた。
らんと一緒に帰省を果たしたみことは、リビングの照明を落とし、静かに冷たい麦茶を飲んでいた。
数日後にはまた街へ戻る。クラスメイトとの予定や短期バイトのシフトが詰まっていて、夏休みとはいえのんびりできる時間は少ない。
それでも、こうして実家の空気に触れていると、ほんの少しだけ心が休まった。
玄関のドアが、不意に開く音がした。
「……? すち兄?」
時計はもう23時を回っている。
足音とともに現れたのは、少し赤ら顔のすちだった。
シャツの襟をゆるく外し、手にはコンビニの袋。
ふらつく足取りでリビングに入ってきた彼は、目を細めてみことを見つけた。
「……みこと?」
「おかえり。飲み会だったの?」
「うん、ちょっと飲みすぎたかも……」
そう言いながら、すちはふらりと一歩近づき、
次の瞬間、ためらいもなくみことを抱きしめた。
「……!?」
柔らかなアルコールの匂い。
少し汗ばんだ体温。
みことの胸がどくん、と跳ねる。
「やっぱり……可愛いなぁ、みこと」
耳元に落ちたその声は、いつもの穏やかさより少し低く、 酔いが混じって甘く掠れていた。
みことは息を詰めたまま動けず、ただその腕の温もりを感じていた。
離れたはずの距離が、一瞬で溶けてしまうようだった。
「……もう、酔ってるんでしょ。部屋、行こう」
掠れた声でそう言い、みことはそっとすちの手を引いた。
廊下を歩く間、彼の腕が時折みことの肩に触れ、 そのたびに胸の奥が痛んだ。
部屋に着くと、みことはベッドの端にすちを座らせ、 靴下を脱がせて毛布をかける。
「おやすみ」と言おうとしたが、言葉が喉で止まった。
寝転んだすちは、子供みたいに安らかな寝顔をしていた。
その頬に触れる風が、カーテンをやわらかく揺らす。
――久しぶりに見る顔なのに、
――触れたら、また戻れなくなる。
胸が締めつけられる。
離れて生きてきたのに。
やっと「家族」として割り切れるようになったと思っていたのに。
なのに、今こうして目の前で眠る彼を見ると、 あの夜の温もりが、笑顔が、声が、 すべて胸の奥から蘇ってくる。
「……最後にしたのに」
小さく、かすれた声。
頬を伝う涙が、すちの腕に落ちた。
それを慌てて拭っても、止まらなかった。
――どうしてまだ、好きなんだろう
――どうしてまだ、離れられないんだろう
震える指先が、すちの頬に触れた。
あたたかい。生きている、その証のような温度。
「……ごめんなさい」
そっと俯き、唇を近づけた。
ほんの一瞬、触れるだけのキス。
それは恋ではなく、祈りのようだった。
――さよならが、ちゃんとできるように
唇を離すと、みことは息を震わせ、静かに微笑んだ。
「おやすみ、兄さん」
そう囁き、灯りを落とした。
暗闇の中、 彼の胸の奥で、消えない痛みが静かに脈打っていた。
翌朝。
カーテンの隙間から夏の光が差し込み、まぶしさで目を細めたすちは、額に手を当てて小さく唸った。
「……うわ、頭いてぇ……」
二日酔い特有の鈍い痛みが、こめかみをじんわりと刺す。
喉も乾いて、舌が重い。
寝返りを打つと、机の上には水の入ったコップが置かれていた。
横には整然と並べられた胃薬の袋。
その光景を見ただけで、なんとなく分かった。
「……みこと、か」
昨夜、確か――玄関で顔を合わせた。
それから、少し話をして……抱きしめた、気がする。
でもそのあとは、霞がかかったように記憶が曖昧だった。
夢だったのか、現実だったのか、分からない。
ふらつきながらリビングに降りていくと、
すでに朝食の香りが漂っていた。
テーブルには味噌汁、焼き魚、卵焼き。
エプロン姿のみことが、静かに配膳をしている。
「……おはよう、」
その声は穏やかで、何の変化もないように聞こえた。
まるで昨夜のことなど、存在しなかったかのように。
「あぁ……おはよう。昨日、なんか迷惑かけたか?」
「別に。酔ってただけでしょ? 水と薬置いといたから」
淡々と答えるみこと。
その横顔は柔らかい微笑を浮かべながらも、どこか遠くを見ているようだった。
「そっか……ありがとう」
すちは椅子に座り、食卓を見つめた。
みことの作る朝食は相変わらず優しい味がして、
口に入れるたびに胸の奥がじんわりと熱くなる。
――本当に、何もなかったのか?
――それとも、俺が覚えていないだけで……
ふと目を上げると、みことが洗い物をしていた。
陽射しがガラス越しに反射し、その背中を淡く包む。
細い首筋、指の動き、そしてふと漏れるため息。
すちは声を掛けかけて、やめた。
聞いてはいけない気がした。
たとえ何かがあったとしても、それを壊す権利は自分にはない。
「……俺、明後日戻るんだけど、みことは?」
「明日には戻るよ。バイト入ってるから」
「そっか…」
短い会話。
それだけで朝の時間が終わっていく。
みことは食器を拭きながら、ふと窓の外を見上げた。
その表情はどこか切なく、けれど穏やかだった。
――すち兄が覚えてないなら、それでいい。
――これで、ほんとに終わり。
胸の奥に沈めた想いを、もう誰にも見せないように。
夏の蝉の声が、静かな食卓に響いていた。
蝉の声が遠ざかり、鈴虫の音が夜を包むようになった頃。
らんとみことの暮らす部屋にも、秋の涼しい風が吹き抜けていた。
大学に通うらんは昼も夜も忙しい。
一方のみことは高校生活にも慣れ、勉強と家事を両立する穏やかな毎日を過ごしていた。
見た目は順調そのもの――けれど、ふとした時に咳き込むようになったのは、その頃からだった。
「みこと、また咳出てるじゃん。風邪?」
ソファに座っていたらんが、心配そうに顔を上げる。
「んー……たぶん季節の変わり目だからだと思う。寝てれば治るよ」
いつもの穏やかな声。
でもその声の奥に、かすかな掠れがあった。
らんは眉をひそめながらも、それ以上は何も言わなかった。
みことは、無理をしてでも「大丈夫」と笑う。
だから、少し強く言ってもきっと首を横に振る。
「無理すんなよ。明日も学校あるんだろ」
「うん。ありがとう、らん兄」
そう言って、みことは湯飲みを手にして立ち上がる。
寝室のドアが静かに閉まる音がした。
……だが、その夜。
ベッドに潜り込んでも、眠気は一向にやってこなかった。
天井を見つめたまま、時計の針の音だけがやけに大きく響く。
まぶたを閉じるたび、浮かんでくるのは
――夏の夜。
酔って眠るすちの頬、触れた唇、震える指先。
ほんの一瞬のことだったのに、その感触が焼き付いて離れない。
「……どうして、あんなこと……」
自分でも、理由が分からなかった。
あのときただ、胸が苦しくて、息が詰まりそうで。
もう離れたくないと思ってしまった。
でも――もう、あの温もりを求めちゃいけない。
枕を抱きしめ、息を潜める。
胸の奥で何かが軋むように痛い。
気づけば、浅い呼吸の合間に小さく咳が漏れた。
「……はぁ……」
夜風がカーテンを揺らし、窓の外には月が浮かんでいた。
眠れない夜が続くのは、この日からだった。
朝になっても、眠気はこない。
学校へ行く支度をしながら、鏡を見ると目の下にうっすらとクマができていた。
「……バレないようにしなきゃ」
いつも通り笑顔を作り、髪を整える。
でも、心の奥はずっと、夏の夜に取り残されたままだった。
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みこちゃん……