ある休日の午後。
外はしとしととした秋の雨が、窓ガラスを曇らせていた。冷たい空気が少しずつ部屋に入り込み、どこか寂しげな音を立てていた。
玄関のチャイムが鳴る。
「やっほー! 遊びに来たよー!」
勢いよくドアを開けたこさめが、笑顔でゲーム機を掲げた。その後ろには、いつものように少し面倒そうな顔をしたいるまが立っている。
「いらっしゃい」
らんがタオルで髪を拭きながら出迎えると、こさめはすぐに飛びついた。
「らんにぃ、今日は勝負ね! 前のリベンジ!」
「おいおい、またかよ……負けたの忘れてないの?」
楽しげな声が部屋に響く。だが、みことだけはその輪に入れずにいた。
ソファに座るみことは、手元のマグカップを見つめながら、浅い息を繰り返していた。
喉の奥が熱く、乾いた咳が止まらない。
「……っ、けほっ……」
「…みこと、咳してんのか?」
いるまが近づく。
「…平気。季節の変わり目だから、ちょっとね」
みことは笑ってみせたが、その顔には血の気がなかった。
いるまは眉をひそめ、みことの手首を軽く掴んだ。
「お前、熱あるだろ。寝とけって」
「ほんとに大丈夫だよ」
「嘘つけ。顔、真っ青だぞ」
みことは一瞬目を逸らし、俯いた。
心臓が、嫌なリズムで跳ねる。
――“すち”のことを考えた瞬間、胸の奥がぎゅっと痛んだ。
あの日のキスの感触。唇の温度。息が触れた瞬間の鼓動。
思い出すたびに眠れなくなる。夜が怖くなった。
「……いるまくん」
みことは小さな声で言った。
「……心配してくれてありがとう。でも本当に大丈夫。だから」
その言葉の裏にある“もうこれ以上踏み込まないで”という意思を、いるまはすぐに感じ取った。
だからこそ、あえて踏み込んだ。
「すちのこと、だろ」
静かな声。だが刃のように鋭い。
みことの肩がびくりと揺れる。
「……え?」
「最近……お前、明らかに変だぞ。顔色悪いし。すち兄のこと、まだ引きずってんだろ」
図星だった。
けれど、認めたくなかった。
みことは無理やり笑顔を作る。
「なにそれ……関係ないよ。いるまくんには」
その笑みは、笑っているようで泣きそうでもあった。
いるまは深く息を吸い、ゆっくり吐き出した。
「……お前、そうやってなんでも我慢して、昔から変わんねぇな」
「っ…!うるさいな……!」
みことの声が震えた。
握った拳が小さく震え、テーブルの上でカップがかすかに鳴った。
その時、ゲームで盛り上がっていたこさめとらんが顔を出した。
「どうしたの? なんか声大きくない?」
「けんか?」
らんが眉をひそめる。
みことは二人を見ないようにして、息を荒げた。
「いるまくんは……なつ兄とうまくいってるからって、なに? マウントでも取ってるの? 今更なんで俺に構うの?」
「は…?」
思いもよらない言葉に、いるまの表情が一瞬だけ曇る。
その一瞬を、みことは見た。
自分の言葉が刺さったと気づいた。けれどもう止められなかった。
「放っといてよ! 俺のことなんか!」
その叫びは、部屋の空気を一瞬で張りつめさせた。
こさめもらんも言葉を失う。
みことは震える手で玄関のドアを掴み、勢いよく外へ出た。
――大粒の雨が、冷たく頬を打った。
傘も上着もない。
裸足のまま、ただ無我夢中で走った。
頭の中は真っ白で、呼吸も苦しい。
胸の奥が焼けるように痛かった。
息を吸うたびに、すちの声が頭の中で響く。
『大丈夫。俺がいるからね』
『みこと』
――やめて。もう思い出したくない。
だが、涙と雨の境目がわからなくなるほどに、みことの頬は濡れていた。
無我夢中で走り続けた。
視界は滲み、何が前にあるのかもわからなかった。
雨が容赦なく降り注ぎ、髪も服もぐしゃぐしゃに濡れて、肌に張り付くたびに冷たさが身に染みた。
アスファルトの上を裸足で走り続け、何か尖った破片を踏んだ。
痛みが鋭く突き抜け、足の裏に生温かい感触が広がる。
それでも止まれなかった。
止まったら、涙があふれてしまう気がした。
息が切れ、もう足が動かなくなった頃、みことは路地裏の片隅に身を沈めた。
小さなコンビニの裏、ゴミ置き場の横。
ひんやりとしたコンクリートの壁に背を預け、雨に打たれながら、ようやく座り込む。
冷たい。
体の芯まで冷えて、指先の感覚がなくなっていく。
けれどそれ以上に、胸の奥が痛かった。
「……っ、なんで、あんなこと言っちゃったんだろ……」
嗚咽が雨音に溶けて消えていく。
声を出した瞬間、涙が堰を切ったようにこぼれ落ちた。
酷いことを言った。
あんなに心配してくれていたのに、刺すような言葉をぶつけて。
顔を歪めたいるまの表情が、何度も脳裏に浮かんでは消えた。
「……俺が悪いのに……全部、自分で選んだのに……」
あの日、すちとキスした瞬間の心の揺れ。
嬉しさと、同時に押し寄せた恐怖。
そのどちらも抱えたまま、みことは何もできなかった。
だから苦しくて、誰かに助けてほしくて、でも誰にも頼れなかった。
「……なんで、俺は……」
雨が降り続く。
傷ついた足から、赤いものが水に溶けて滲んでいく。
雨水と血が混ざり、足元を赤黒く染めていった。
小さく咳をするたびに、胸の奥が焼けるように痛い。
寒さで体が震え、歯の根が合わなくなる。
それでも、涙は止まらなかった。
「ごめん……いるまくん……」
その声は、雨の中に吸い込まれて消えていった。
雨脚はますます強くなっていた。
路地裏の奥、みことが肩を震わせていたその場所に、ぬるりと影が差す。
「……ねぇ、君、大丈夫?こんなとこで……」
湿った息が近い。
ふと顔を上げると、そこには傘も差さずに立つ男がいた。
髪はぼさぼさで、目の焦点は合っていない。
みことは本能的に「怖い」と思った。
「風邪ひいちゃうよ、うち来る?」
男の声は笑っているのに、どこか息が荒い。
その手が伸びてきた瞬間、みことの背筋を冷たい電流が走った。
息が詰まる。心臓が暴れだす。
「やめてっ……!」
みことは立ち上がり、足を引きずりながら走り出した。
濡れたアスファルトを踏みしめるたび、傷口が裂けるように痛む。
背後から男の呼吸音と足音が追いかけてくる。
どこをどう走ったのか分からない。
気づけば駅前を過ぎ、人の気配が遠のいていた。
振り返っても、もう誰もいない。
不審者を撒いたのだと分かって、みことは力が抜けたようにその場に座り込んだ。
「……はぁ、はぁ……怖かった……」
息が白く曇る。
喉が焼けるように痛い。
咳が止まらず、視界が滲んでいく。
帰らなきゃ。
そう思い、ポケットに手を突っ込んでスマホを取り出す。
けれど、画面は真っ暗なままだった。
電池が切れている。
「……なんで、今……」
力なく笑ったその時、スマホに揺れる小さなキーホルダーが目に入った。
すちがくれた、防犯ブザー。あの日のままの形。
みことはそっとそれを握りしめた。
どうしても捨てられなかった。
寂しい夜も、不安な日も、ずっとポケットの奥で一緒だった。
「……すち兄……」
声を出した途端、胸がぎゅっと締めつけられた。
呼吸が浅くなり、咳が止まらない。
頭が熱く、体がぐらぐら揺れる。
もう、どうでもいい。
誰でもいい、誰か、助けて。
そんな思いで、みことは防犯ブザーのボタンを押した。
──カチ。
小さな音だけが、雨の中にかき消された。
ブザーは鳴らなかった。
みことは苦笑した。
「……やっぱ、濡れたし壊れてるよね……」
視界が暗くなっていく。
雨が頬を打ち、誰かの手のように冷たい。
みことは最後の力で、胸元にブザーを握りしめたまま、ゆっくりと横たわった。
「……すち兄、迎えに来てよ……」
その声は雨に溶け、夜の街に消えていった。
次の瞬間、みことの意識はふっと闇の中へ沈んでいった。
コメント
1件
ずっとブザー持ってたんだよね…もうみこちゃん疲れたんじゃないかな、だからそろそろすっちーに頼っても良いと思うよ…