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一か月ぶりのユビスの背中は相変わらず柔らかく、それでいて乗り心地が悪かった。巨体も速度も人間には向いていない。ユビスにとってはどうなのだろう、とレモニカはふと考える。出会った時にユビス自身に変身できて、少し話したことを思い出す。あの時印象深かったのはその誇り高さだが、人間を乗せることに思うところはないのだろうか。とはいえ普段のユカリとの会話から察するに、その誇りを卑小なる人間どもに知らしめることを好むようではある。
ユビスはいつでも、そして今も全力で走る。太陽の輝く南へと長閑ながら古い時代の死と破滅の気配を覗かせる草原をひた走る。寂れた遺構に隠れ潜むような邪悪な輩や魔性の者どもはユビスの蹄の大地を打ち鳴らす鼓の如き響きを聞いて震え上がった。それは大軍団の行進を思わせ、心の内に邪を潜ませる者を苛ませる死の駆る馬、《焦慮》の蹄の音に似ているからだ。
レモニカは大男の姿で、ベルニージュの腰に太い腕をまわしている。ベルニージュから緊張感のようなものは伝わってこない。まるで男嫌いなど全て克服してしまった、かのようだ。
「シャリーなる者はなぜユカリさまを連れ去ったのでしょう?」とレモニカはベルニージュの背中に声をかけた。「魔導書を奪うだけでは飽き足らず」
「攫ったからには何かユカリの使い道があるんだと思う」とベルニージュが風に負けない声で返す。「魔法少女の悪名を彼女たちの作戦に利用するとかじゃないかな」
「なるほど。あり得そうな話ですわね。人心を乱して救済機構の注意を引くのかもしれません」とレモニカは同意する。「だとすればユカリさまを使ってどこかの街で何かをする、と」
「できる限り大きな街で、できる限り大きなことを、ね」
数日後、二人と一頭は、馬具をつけたままのはぐれ馬に出会う。ユビスに比べれば仔馬のようなものだが、立派な体躯の若駒だ。ユビスを前におっかなびっくりした態度で、しかし果敢に鼻先を向けて交流をはかっている、ように見える。おかしなことにその黒馬は手綱が垂れ下がらないように革紐で結びつけてある。
「いま気づいたけど馬の特徴を聞きそびれたね。どう思う?」とベルニージュに尋ねられる。
「ユカリさまでしょうか? 確か革紐を持っていたはずです。私たちに気づいてもらうために北に向かって、ビンガの港町に向かうよう、馬に命じたとか」
「うん。この革紐ではなかったような気がするけどちょっと自信ないな。でもワタシもユカリが送り出した馬だと思う」ベルニージュははぐれ馬を点検しながら言う。「手紙の一つでもつければ確実なのに、気づかない詰めの甘さがユカリっぽい」
「……そのようなことはないですわ」レモニカは自信なさげに反論する。「そのような余裕のある状況ではなかったか、あるいはこれで十分伝わる、ということ、かも」
レモニカは心の中でユカリに謝る。ベルニージュの言ったことには頷けるところがあった。
ふと、ユビスがレモニカの方に長い毛の間から訴えかけるような眼差しを向けていることに気づく。
「ユビス。どうしました? この黒馬と何か会話でもしたのかしら。ユカリさまのように会話ができたならどれほど良かったか」
ベルニージュもユビスに注目する。ユビスは落ち着きなく、二人を見、地平線の向こうに目をやる。
「もしかしたらユカリさまのことを黒馬に教えてもらったのかもしれません」とレモニカは希望を交えて言った。
「かもね」と言って、ベルニージュは背嚢を開き、その内から不思議と驚異を香り立たせる。
ベルニージュは黒馬の手綱を縛っていた革紐を使って、その元の持ち主をたどろうとする。前に使った魔術を応用し、革紐の切れ端を蝋燭で焙る。煙は風もなしに南へと棚引いた。ユビスが目線を向けた方向だ。
「これは賭け、ですわよね?」とレモニカは言う。
「まあね。全然別の誰かにたどりつくかも。でも他に頼れるものもないし、ユビスの訴えと、この革紐にすがってみよう」
さらに数日をかけて、煙の棚引く先である南へ、いくつかの町を継いで、いくつかの川を越えて進む。
まず最初に西高地の稜線が地平線からのそりと顔を出し、天にも挑まんとする威容を露わにして、ゴルトローの街の座す斜面が東西に広がる。最後にメルコーという街が見えた。ガミルトン行政区の最南端の街だ。少なくともこの数日間に見たどの町よりも発展している、人工大地の街ゴルトローは別として。ここからさらに南、ゴルトローの街の下に穿たれた大隧道を抜ければ、フォルビア行政区へと至る。
道中の町々ではユカリやシャリーの情報は得られなかった。人目を避けて野宿をしながら南へ向かっていたのだろうか。
レモニカとベルニージュは街の見えるところでユビスを降り、もう一度魔術の煙を棚引かせる。煙はやはり南を、メルコーを指さす。
「ユビスはどういたしますか? やはり目立ってしまいますわよね。まあ、わたくしもユビスのことは言えませんが」と大男姿のレモニカは懸念を明かす。
「別に構わないよ」ベルニージュは言う。「シャリーはワタシたちのことを知らないんだから。それより見て。あの街から先には行ってないはず」
メルコーの街の向こうの大隧道の巨大な門は完全に閉じている。
「関所でもあるとはいえ、破ったり、でなくても忍び抜けている可能性はありますわよね? 何よりいつ閉じたのか分かりませんわ。閉じる前に通り過ぎたのかもしれません。『至上の魔鏡』でしたかしら。姿を消す魔法を使えば他愛無いことですもの」
「少女を後ろ手に縛って? それに銀冠はかぶってる本人にしか効果ないって話だからね。ユカリを置いていってくれてるなら願ったり叶ったりだけど」
二人は再びユビスに跨って、メルコーの街へと入ろうとした。
シグニカの他の多くの街と同じく草屋根の家々が立ち並んでいるが、他の街と違って妙に地面が泥濘んでいる。元は西高地からフォーリオン海へとなだらかに蛇行しながら流れる川、静か川の畔の街だったのだが、いつの頃からかゴルトローの街が頭上に座してから水の流れは変化し、メルコーの街を侵食した。とはいえ湿地の広がりに合わせて街を移すことはできても大隧道を動かすことはできない。シグニカの商いの血流は大隧道に依存しており、街もまたそうだ。そうしてメルコーの街は泥濘と共に生きることを決めたのだった。泥水を啜る多くの魔性が人の愚かさを嘲り、霧と星明りを好む少なくない妖精が湿地の誕生を寿いだものだ。
メルコーの街において、道とは僅かに乾いた地面から地面へ架けられた橋板を意味した。ユビスの巨体で街を彷徨うのは目立つを通り越して迷惑をかける。大きな体に硬い蹄で橋を打ち付けると、戦の前に打ち鳴らされる陣太鼓の如く響き渡る。目の前の山々から切り出された木の橋はその重みに軋む。
「さて、どうしましょう」レモニカはドボルグの言葉を思い出す。「銀の髪に紺碧の瞳、精悍で、表情のない顔、鹿の重ね毛皮の羽織。そして剣。ドボルグは確かにそう言っていました」
「特別目立つ見た目ではないって話だったけど」ベルニージュは探るように言う。「何か気づいたことでもあるの?」
「いえ、何か、というわけではありません。……ただただこうして街を練り歩いて探すほかないのでしょうか?」
「シャリーが現れるとしたら寺院だね」ベルニージュは何気なく視線を方々に向けながら言った。「ユカリをどう利用するにせよ、救済機構と関わらなければ話は進まないはず。それに魔法少女を拘束していると信じさせるにも時間と手間がかかるはず」
「言われてみれば、いきなりそのようなことを言われても流言だとしか思えませんわよね。どうやって信じさせるのでしょう」
「ワタシたちと救済機構だけが知っていて他の誰も知らないはずの情報をシャリーが示せるかどうか、じゃないかな。そんなものがあるのか分からないけど」
「では寺院へ向かうのですわね」レモニカは周囲を見渡し、屋根の向こうに寺院の篝火台を見つける。「あちらですわ」
「いや、ワタシたちの向かうべきところはまた別だよ。初めは篝火台だろうと思ってたけど、あの街はずれの古い監視塔の方が高いね」
ベルニージュの指さす先、屋根の草原のずっと向こうに古びた石積みの塔がそびえている。
「高い? 上からシャリーを探すのですか?」疑問に思いつつもレモニカはユビスの鼻先を監視塔に向ける。
「シャリーは寺院に出向けるかもしれないけど、その間ユカリを隠す必要があるでしょう? 街のどこかかとも思ったんだけど、野原には沢山の廃墟があるからね。どれかにいるんじゃないかと思う。ワタシならそうする」
「わたくしたちはユカリさまの近くを通り過ぎたのかもしれないのですわね」その説明には多分に頷けるが、レモニカは疑問点を指摘する。「例の、人探しの煙の魔法を使えば良いだけではないのですか?」
「もちろん使うよ。でも人探ししている姿は誰にも見られない方が良い。それにユカリの居場所が分かれば容易く助け出せるとも限らない。レモニカ。ワタシたちがこれから相手するのは三冊の魔導書と二つの魔導書の力を秘めた魔法道具の持ち主だよ?」
それ自体は分かっているつもりだったが、その恐ろしさにレモニカは今になって気づいてしまった。
「こちらにも一冊あります」とレモニカは強がるようなことを言う。
「まあね。シャリーが魔術師としてどの程度か知らないけど、一冊に満たない魔導書がクオルをあのクオルに仕立て上げたこと、忘れないで」
その全ての所作が魔法となり、歌と笑みで天地を狂わせたあのクオルだ。三人分のクオルを想像してレモニカは少しだけ身震いする。