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一歩一歩、地面を踏みしめながら学校へと向かう。
昨夜の出来事を思い出しながら。
パッツンさんは確かに言っていた。名乗ってきた。心野雫、と。
『心野』というのは珍しい苗字だし、しかも名前まで同じときた。同姓同名という線は消してしまって問題ないだろう。それに、この他にももうひとつ気になることがあった。いや、気になったどころの話ではない。
あの『心野雫』さんが――便宜的にこれからもパッツンさんと呼ばせてもらおう――帰ったあと、ふと公園に設置されている大きな時計台を確認したのだけれど、動いていなかったのだ。パッツンさんが僕の前に現れた二十二時から。
ただの故障だろうと思ったけれど、違った。僕が公園を出てからやはり気になって振り返り、もう一度その時計台に目をやった。我が目を疑った。針が進んでいたのだ。故障でもなんでもなかった。
そう、時が止まっていた。パッツンさんと会ったその時から。
一体、僕は何を体験したのだろうか。目撃したのだろうか。もしくは『巻き込まれた』のだろうか。いくら考えても最適解らしきものを思い浮かべることができない。
そんなもやもやとしたものを感じながら、僕は学校へと到着した。
* * *
教室の引き戸をがらがらと開け、確認する。良かった、ちゃんと心野さんがいてくれた。まだ、相変わらずの机に突っ伏しモードだけれど。
僕は自分の席に座り、彼女に向けて「おはよう」と声をかけた。すると、心野さんも「……おはようございます」と、ちゃんと挨拶を返してくれた。弱々しい声ではあったけれど。でも、もしかしたらこのまま、音有さんから以前聞いた中学校の頃のように、僕とももう喋ってくれなくなるんじゃないかと心配していたから。だから少し安心した。
昨夜のことは変わらず気になっているけど、でも、今は考えるのをやめておこう。それよりも、まずは心野さんとコミュニケーションを取ることに集中しよう。この前、友野に言われた通りに、心野さんとしっかり向き合って。
それに――。
「ねえ、心野さん? もしかして怒ってる?」
「……怒ってなんかないです」
「じゃあ、どうして顔を上げてくれないの? この間までのように、僕の顔を見てくれなくなっちゃったの?」
「…………」
それには答えてくれない、か。でも、焦る必要はない。むしろ、ゆっくりで良いと思っている。スローペースではなく、いきなりトップスピードに入ったとしても、恐らくどこがで何かが乖離する。綻びが出る。でも、気にはなるからちょっとだけ訊いてみた。
「ねえ、心野さん?」
「……なんでしょうか?」
「もしかしてさ、心野さん。何かに嫉妬してる?」
あえてぼやかした。僕に対してではなく、あくまでも『何かに』と。
しかし、『嫉妬』という単語を耳にした途端、心野さんの耳がカーッと赤くなった。机に突っ伏しても耳は見ることができるから気付くことができた。
これってやっぱり、音有さんの言ってた通り僕に対して嫉妬しているのかもしれない。その上、もしかしたら僕と凜花さんのことを何か誤解してるのでは、と僕は思った。
「し、し、嫉妬なんかしてません!」
心野さんは勢いよくガバッと起き上がり、今日一大きな声でそう答えてくれた。やっぱり分かりやすいな、心野さんの反応は。嘘をつくのが本当に下手すぎる。
とは言っても、以前と同じように心野さんと話せるようになるには、まだまだ時間はかかるかもしれない。でも、それでもいい。ちゃんと自分の感情を言葉にしてくれただけで、今の僕には十分だ。
「良かった。ちゃんと僕の顔を見てくれて」
自然と顔がほころんでしまう。でも心野さんはハッとしたように、また机に突っ伏してしまった。そして小さな声で「嫉妬なんかしてないもん」と、小さな子供の言い訳のように呟いた。意外と意地っぱりなんだなあ。
「嫉妬してないって言う割には、さっきはすごい反応だったけどね」
「……し、してません」
「ちなみにさ、僕はさっき『何かに』って言ったんだけど、心野さんは一体『何』に嫉妬してるのかな?」
「う……」
我ながら、意地悪なことを言っているなと思う。でも、意地悪でもなんでも良い。心野さんの心を少しでも動かすことができるのであれば。
「そっか。うん、分かった。じゃあ、ちょっと話しを変えるね。心野さん。今日の放課後、少しでいいから時間もらえないかな? 色々話したいことがあってさ」
「…………」
無言。沈黙。
うーん、もしかしたらオーケーしてくれるんじゃないかと期待していたけれど、まあ無理か。とにかく僕は、昨日、友野が言っていたように心野さんのことを第一に考えないと。だから無理強いはしない。焦っても意味がない。それでは心野さんに少なからずの負担をかけてしまう。
だけど、昨夜のことだけは話しておきたかった。あのパッツンさんが、どうして『心野雫』を名乗ったのか。もしかしたら、心野さんから何かヒントをもらうことができるんじゃないかと思って。
あのメッセージを送ってきたのが心野さんではないということはハッキリしている。ちょっと思い出したんだ。初めてのデート――と、呼んでいいのか分からないけれど――の時に道に迷ってラブホ街に迷い込んでしまった際のことを。
『私、スマホ持ってないんです……』
彼女は確かにそう言っていた。
心野さんが嘘をついている訳ではないことも確信している。あの時はそんな嘘をつく必要性なんて全くなかったし。恥ずかしがったり照れたりした時はバレバレの嘘をつくけどね。
まあ、話したいことはたくさんあるんだけれど、でも、心野さんが話したくなるまで僕は待つ。待ち続ける。それこそ、いくらでも。
と、思っていた矢先だった。
「……ど、ドリンクバーを奢ってくれるなら」
「え?」
まさか、そんな返事をくれるだなんて思いもしなかった。それにしても、ドリンクバーか。きっと、心野さんにとって、あのファミリーレストランで僕と一緒に過ごした時間を大切に思ってくれているんだ。
断る理由も選択肢もあるわけがない。
「うん、もちろん大丈夫だよ。いくらでも奢らせて」
「あ、あと、アイスも」
「あははっ。うん、了解。アイスね。でも食べすぎないでね? またあの時みたいに体を冷やしちゃうからさ」
「じゃ、じゃあ、ほ、放課後に」
「うん、楽しみにしているね」
こくりと、彼女は頷いてくれた。
これまで、僕が心野さんと共有してきた時間を思い出す。僕にとっては何でもないことでも、彼女にとっては大切な思い出なのだと改めて思わされた。
それだけではない。友野に言われた言葉を再度、思い出す。
『ちゃんと整理しておけよ』
そう。僕は僕で心の中の感情を整理しなければならない。いくら恋愛をしたことがないとはいえ、整理できるのは僕自身しかいないのだ。他の誰かが勝手に解決してくれるわけではない。もしそんな人がいたとしても、そんな他力本願では、僕はいつまでも変わることはできない。
心野さんは変わろうとしていた。頑張った。
だったら、今度は僕の番だ。
そろそろホームルームが始まる時間だ。だから短い言葉で、今の僕が抱いている気持ちの全てを込めて言葉にした。
ありがとうね――と。
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