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遥は動けなかった。ドアが閉まってから、どれくらい時間が経ったのかもわからない。
目を閉じることすらできず、天井の白さをただ見上げるしかなかった。
呼吸が浅い。
心臓が打つたびに、指先の皮膚がじんと痛んだ。
重くなった制服の感触が肌に貼りついて、不快だった。
けれど脱ぐことも、着直すこともできなかった。
──なぜ、あいつがここにいる。
考えたくなくても、頭の中がそれでいっぱいだった。
日下部。名前を思い出すだけで胃の奥が冷たくなる。
あいつは、もう過去の人間だったはずだ。
忘れたわけじゃない。
ただ、遠くに追いやってきた記憶だった。
それが、今。
この学校にいる。
保健室の、この、遥の真上に、さっきまで。
「……くそ……」
喉の奥で、低く呟いた。
声がかすれて、自分のものとは思えなかった。
怒りじゃない。怖さでもない。
ただ、わからなさの混濁。
遥はベッドの縁に手をかけて、ゆっくりと上体を起こした。
体が軋む。
痛みがある。特定の箇所ではなく、内側すべてが熱を持っているようだった。
そのとき、廊下の向こうからチャイムが鳴った。
授業が終わったのか、始まったのか、もうわからなかった。
扉の向こうで誰かが笑っている。
小さな、けれどよく知っている、からかうような笑い声だった。
──いつからこうなってた。
毎日が、いつの間にか「何をされるか」で進むようになった。
今日が終われば、明日は何をされるのか。
笑い声、目線、背中越しの指差し、命令、黙認、録音、記録、評価。
日下部の声が、頭の奥で繰り返された。
「まだ、壊れてないかどうか」
遥は、歯を食いしばった。
壊れてなんかいない。
ただ……ただ、動き方がわからないだけだ。
深く息を吐き、ぐらつく身体を支えながら、立ち上がる。
制服の裾を引き下ろし、襟をかき寄せ、鏡を見ずに髪を手ぐしで整えた。
──教室に戻るしかない。
どこへ行っても、逃げ場なんて最初からなかった。
ドアに手をかけた瞬間、遥は一度だけ立ち止まった。
日下部がこの学校に来た理由。
それを考えるのは、まだ怖かった。
けれど、きっともうすぐ、考えなくてもわかるようになる。
「……ああ、まただよ」
呟いたその声だけが、今の遥の本音だった。