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水槽の中で沈んでいく金魚のように死にたいと佐野怜花はそう思った。
だけど現実は重たい水の中をさまよっていた。
もがいてももがいても水上には出れず、もがくのをやめたら体は沈んでいったけれど、水底を見ることもなかった。
私が死ぬ時はごぼごぼと汚い音をたてて口から泡を吐いて醜い姿で死ぬんだろう。
重だるい空気を吸い込みながら佐野怜花はただひたすらに自身の死を想像した。
春、新年度が始まり入学式やお花見なとで世間が盛り上がっている中、私は僧侶の読経を聞いていた。
高校一年生になった四月十日は母親の三回忌だった。
新学期には相応しい晴天の空が鬱陶しく思えた。
隣には父親、そして祖母、祖父、従兄弟、伯父、伯母、他にもたくさんの人が椅子に座っていて息苦しかった。
真っ白な壁紙で質素なこの空間がすごく窮屈だ。
数珠を握った自分の手の指先は乾燥でひび割れていて痛い。
僧侶の読経はとにかく退屈で、早くこの空間から逃げたいと思った。
椅子からぶら下がった足を揺らしていると左に座っていた祖母がこちらを強い目付きで睨んでいるのが一瞬見えた。
怜花は足を止めて祖母を睨んだ。
祖母は昔から厳しかった。
母親の生前にもしょっちゅう家に来ては母にも私にも厳しい言葉を投げつけて帰って行った。
「怜花は幼稚園の頃からなにも育ってない。」
祖母の言葉を盗み聞きてしまった時のことを今でも鮮明に思い出せる。
鋭利なナイフが胸に突き刺さるような感覚…。
「あんたがちゃんと教育しないから怜花の育ちが遅れてるんじゃない?」
祖母はずっと母のことを「あんた」と呼んできたらしい。
母は私の事を中学生になってからも「怜花ちゃん」と呼び続けてきた。
中学生になっても母親にちゃん付けで呼ばれる子なんて友達に少なかったから少し恥ずかしかったけれど、今では「怜花ちゃん」と自分のことを呼んでくれる人が居ないためたまに寂しさを感じる。
「怜花、怜花、もう終わったよ」
父の声が聞こえて周りを見ると、どうやらもう読経は終わった様子だった。
昼食はあまり喉を通らなかった。
黒い服を着た人達がが私を囲むようにして座った。
まるで星のない夜を見ているかのような気分だ。
白ご飯がやけに重く感じて、飲み込む度に胃から吐き戻しそうになった。
ここで私がご飯を嘔吐したら父や祖母、親族たちはどう思うだろう。
心配してくれる方もいるだろうけど、きっと祖母には嫌な目を向けられる。
それに一番は母の遺影の前でだけは嘔吐したくなかった。
「御手洗行ってくるわ。」
父にそう言って部屋を出た。
トイレの個室に入って蓋を開けるなり真っ先に嘔吐してしまった。
自分でも驚いた。
「どうせ吐くなら食べなければよかった…。」
そう呟いてから更に二度嘔吐した。
胃が空っぽになった感覚が気持ち悪かったけれど、もう吐くものはなにもないので少し安心した。
室内に戻ると父が
「長かったけどお腹痛いの?」
と聞いてきたから「吐いた」と言いたかったけれど、たくさんの人がいる中ではさすがにはばかられて「いや大丈夫」と平気なフリをした。
ご飯はもう残そうと思ったけれど案外ほんの少ししか残っていなかったので全部食べることにした。
また嘔吐してしまったらどうしようと一瞬不安になったものの、もう大丈夫そうだった。
母は天国から私の事を見ているだろうか。
見ているとしたら私の事を心配してくれているだろうか。
お母さんごめんなさい。今日はお母さんの三回忌なのに、私はこの場所が大嫌いです。
早く家に帰りたい。このご飯も全然美味しくない。この黒いワンピースも早く脱ぎたい。
こういう時は一番母に会いたくなる。
母なら私が今気分が悪い事だって、ご飯を無理して食べていることだって、トイレで吐いてしまったことだって、全てお見通しなのだ。
母なら気づいてくれる。
息を吸うと同時に涙がこぼれた。
祖母にも父にも気づかれたくない。
誰にも泣いていることを気づかれたくない。
でも心配はして欲しい。
なんて図々しいだろうか。
近くに座っていた伯母がハンカチを差し出してくれた。
周りの人が「大丈夫大丈夫」と声をかけてくれて、初めて黒い影にしか見えていなかった人達が人間に見えた。
その温かさが、母の生前なら日常にあるものだったのにな、と思うと余計に涙が止まらなくなって抑えていた手からも涙が零れて雫が腕を伝っていく感触がした。
静かな空間に私の嗚咽だけが響いていた。