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#日常組
tagu2026226
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第10話「今夜だけは、離さない」
「やっ……殿下……」
ルカの声が、静かな寝室に小さく響いた。
その声を聞くたび、リンデンは自分の中にある余裕が、少しずつ失われていくのを感じていた。
普段なら、どんな状況でも冷静でいられる。
皇太子として感情を表に出すことなど、ほとんどなかった。
それなのに、目の前にいるルカのことになると、どうしてこうも調子が狂ってしまうのだろう。
困ったように揺れる淡い桃色の瞳も、自分の名前を呼ぶか細い声も。
そのすべてが、どうしようもなく愛おしかった。
「……ルカ」
リンデンは、彼の頬にそっと手を添えた。
「私を見てくれ」
そう告げると、ルカは少し迷ったあと、ゆっくりと顔を上げた。
視線が重なる。
近すぎる距離に、ルカの頬がみるみる赤く染まっていった。
「……そんなに見つめられると、困ります……」
「困らせたいわけではない」
リンデンは小さく息を吐いた。
「ただ、お前の顔を見ていたいのだ」
「……っ」
あまりにも真っ直ぐな言葉だった。
からかいでも、気まぐれでもない。
リンデンの青い瞳には、ルカだけが映っていた。
ルカは今まで、誰かにこんなふうに見つめられたことがなかった。
役に立つかどうか。
魔法が使えるかどうか。
そばに置く価値があるかどうか。
これまで向けられてきた視線には、いつだって何かしらの理由があった。
けれど、リンデンは違う。
何もできなくても。
失敗してしまっても。
自分に価値がないと思ってしまう日でさえ。
彼は、ルカ自身を見てくれる。
「……殿下は、ずるいです」
「何がだ?」
「そんなことを言われたら……もっと、そばにいたくなってしまいます」
言ってから、ルカははっと口元を押さえた。
自分からこんなことを言うつもりではなかった。
けれど、もう遅い。
リンデンは目を見開いたあと、ゆっくりと表情を和らげた。
「……そうか」
その声は、いつもよりもずっと優しかった。
「ならば、そばにいればいい」
「で、ですが……」
「私は、お前にいてほしいと言っている」
リンデンはルカの手を取った。
指先に、あの銀の指輪が光っている。
淡い青色の宝石が、寝室の明かりを受けて静かに輝いていた。
「この指輪を贈ったときにも言ったはずだ。お前が喜んでくれることが、私にとって何より大切なのだと」
「……はい」
「だから、遠慮するな。私の前では、無理に平気なふりをしなくてもいい」
その言葉に、ルカの胸がじんわりと温かくなった。
今までずっと、誰かに迷惑をかけないように生きてきた。
頼ることも、甘えることも、欲しいものを欲しいと言うことも。
自分には許されないことなのだと思っていた。
けれど。
「……では、ひとつだけ……お願いしても、いいですか?」
「もちろんだ」
ルカはためらいながらも、リンデンの服の袖をきゅっとつまんだ。
「……もう少しだけ、このままでいてください」
一瞬、リンデンは言葉を失った。
皇太子である自分に、そんな小さな願いを口にするルカ。
その姿が、胸の奥をどうしようもなく締めつけた。
「……それだけでいいのか?」
「……はい」
「欲のないことを言うな」
そう言いながらも、リンデンの声には、隠しきれない喜びが滲んでいた。
彼はルカを驚かせないように、ゆっくりと腕を伸ばした。
「……抱きしめてもいいか?」
ルカは一度目を瞬かせ、それから小さく頷いた。
「……お願いします」
その返事を聞いて、リンデンはそっとルカを抱き寄せた。
強く締めつけるのではなく、彼が望めばいつでも離れられるような、優しい抱擁だった。
ルカは最初こそ緊張していたものの、やがてリンデンの胸元に額を寄せた。
聞こえてくる鼓動は、思っていたよりも速い。
「……殿下?」
「何だ」
「……心臓、速いですね」
リンデンの腕が、ぴたりと止まった。
「……聞こえていたのか」
「は、はい……」
ルカが申し訳なさそうに顔を上げる。
するとリンデンは、困ったように眉を寄せた。
「……お前のせいだ」
「えっ……! ぼ、僕、何かしてしまいましたか……?」
「違う」
リンデンはすぐに言い直した。
「お前が、あまりにも愛おしいからだ」
「…………っ!」
ルカの顔が、一瞬で真っ赤になった。
「で、殿下……!」
「何だ。事実を言っただけだが」
「そ、そういうことを、そんなに普通に言わないでください……!」
「普通に言っているつもりはない」
リンデンはルカの額に、自分の額をそっと寄せた。
「……本当は、もっと言いたいことがある」
「……もっと、ですか?」
「ああ。だが、今すべてを伝えようとすれば、お前を困らせてしまいそうだ」
そう言って、リンデンは小さく笑った。
「だから、少しずつ伝えていこうと思う」
ルカは、彼の言葉を胸の中で繰り返した。
少しずつ。
急がなくてもいい。
今すぐ、すべてを理解できなくてもいい。
この人は、自分の気持ちが追いつくまで待ってくれるのだ。
そう思うと、胸の奥にあった不安が、少しずつほどけていった。
「……僕も」
ルカは、リンデンの服をつまんでいた手に、そっと力を込めた。
「僕も、殿下のことを……もっと知りたいです」
「……ルカ」
「殿下が何を好きなのか、何を考えているのか。嬉しいときも、困ったときも……僕に教えてほしいです」
それは、ルカにとって精一杯の勇気だった。
いつも守られているだけではなく、自分もリンデンのそばにいたい。
彼が苦しいときには支えになりたい。
彼が寂しいときには、隣にいたい。
まだ、どうすればいいのかは分からない。
それでも、そう願う気持ちは本物だった。
リンデンはしばらく黙ってルカを見つめていたが、やがて彼の手を取り、指先にそっと口づけた。
「……約束しよう」
「……はい」
「これからは、私もお前に隠し事をしない。お前が知りたいと思うことを、ひとつずつ話していこう」
そして、少しだけ声を落とした。
「だから、お前も……私のそばにいてくれ」
ルカは、今度こそ迷わず頷いた。
「……はい。僕でよければ、ずっと」
「お前がいいのだ」
その言葉とともに、リンデンはルカの額に優しく口づけた。
ルカは目を閉じ、彼の肩にそっと手を添えた。
それから二人は、もう一度だけ、静かに口づけを交わした。
急ぐ必要などなかった。
互いの気持ちを確かめるように、そっと手を重ねる。
言葉にできない想いも、まだ知らない感情も。
これから二人で、少しずつ見つけていけばいい。
やがてリンデンは、ルカの肩に掛け布を整えてやった。
「今夜は、もう休もう。明日も仕事があるからな」
「……はい」
「それと」
「はい?」
「眠るまで、ここにいてもいいだろうか」
いつも堂々としている皇太子が、ほんの少しだけ不安そうに尋ねる。
その姿が嬉しくて、ルカは思わず微笑んだ。
「……もちろんです」
「そうか」
リンデンは安堵したように息をつき、ルカの隣に腰を下ろした。
二人の手は、自然とつながれたままだった。
窓の外では、夜風に揺れた木々が静かに音を立てている。
ルカは、つないだ手を見つめた。
この手が、いつか離れてしまうことを恐れていた。
自分には、隣にいる資格などないのだと思っていた。
けれど今は違う。
まだ不安はある。
まだ、自分に向けられる愛情のすべてを信じきれるわけではない。
それでも。
この温かな手を、自分から握り返していたいと思えた。
「……殿下」
「何だ?」
「……今日は、幸せです」
その言葉に、リンデンは目を細めた。
「……私もだ、ルカ」
彼はつないだ手を優しく握り返した。
皇太子としてではなく、一人の人間として。
誰よりも大切な存在の隣で過ごす、穏やかな夜。
それは、リンデンにとっても、ルカにとっても、忘れられない夜になるのだろう。
そしてリンデンは、胸の内で静かに誓った。
この手を、二度と不安にさせない。
ルカが自分の隣を、安心して居場所だと思えるように。
何度でも言葉にしよう。
何度でも愛情を伝えよう。
いつかルカが、自分は愛されていい人間なのだと、心から信じられる日まで。
夜は静かに更けていく。
二人の手は、朝が来るまで離れることはなかった。
コメント
2件

ハワァ!スゲー ……え、大好きです⭐︎
そう、このエピソード、すごく好きです…! リンデンが「心臓が速いのはお前のせいだ」って言いながらも、そっと額をつけるところ、あの距離感がたまらないですね。 見えない価値ばかり測られてきたルカが、ただ自分自身を見てくれる彼に「もっと知りたい」と言えたこと、その一歩が本当に愛しいです。 朝まで手を離さなかったラスト、静かに心が満たされました。