テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#お仕事
#秘密
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
その夜、翼は旧校舎の沼へと走った。泥の中に両腕を突っ込んで、過去に沈めた自分の記憶を掻き探した。
「返してくれ! 冬真のことも、僕が言った嘘も、全部……! 僕が間違ってたんだ!」
泥の底から引き揚げられたのは、記憶の残骸ではない。ノートの最後に残された、冬真の巨大な想いの固まりだった。
耳の奥で、冬真の声が直接響いた気がした。
『お前が嘘をついて俺を拒絶したことも、本当は全部知ってる。その醜い保身も含めて、俺はお前の全部が欲しいんだ』
翼は激しい後悔とともに、泥まみれの地面に涙を流した。自分は冬真に支えられていたのではない。最初から、あの歪んだ想いに縛られていたかったのだと、今ようやく気づいた。
翌朝、鏡に映った自分の顔は酷くやつれていたが、その瞳から怯えは消えていた。
学校へ行くと、新しくクラスのボスに収まった男が、気に入らない生徒の陰口を叩き、翼に同意を求めてきた。
「なぁ、翼もそう思うだろ?」
翼はもう微笑まなかった。完璧な優等生の仮面を自ら剥ぎ取り、冷ややかに言い放つ。
「いや、俺はそうは思わない。最低だと思うよ」
当然、カーストから瞬時に弾き出され、無視と嫌がらせが始まった。だが、翼の心には微塵の傷もつかない。冬真がくれたあの歪で巨大な想いが心にある以上、学校の評価などどうでもよくなっていた。自分の罪も、ずるさも、すべてこの身で背負って生きていく。
青葉台高校の卒業式。式典が終わると同時に、翼は誰とも言葉を交わさずに校門を飛び出した。ポケットには、復元したノートの切れ端に書かれた行き先が眠っている。
東京を出た電車は、隣の県へ進むにつれて窓の外の緑を濃くしていった。ローカル線へと乗り継ぎ、たどり着いたのは、山々に囲まれたのどかな駅だった。
改札を出ると、澄んだ涼しい風が頬を撫でた。駅から目的の場所までは、緩やかな坂道を歩いて1時間ほどだった。
視界の先、なだらかな丘の上に、それはあった。今は使われていない、白いドーム屋根の小さな天文台跡。周囲には静かな草地が広がり、どこか時間の流れが止まったかのような静けさに満ちている。翼は深く息を吸い込み、木製の古い扉に手をかけた。
カチャリ、と静かな音を立てて扉が開いた。
大きな天体望遠鏡の影、窓から差し込む柔らかな光の中に、その男は椅子に座っていた。振り返った顔。かつてよりも少し痩せ、影を帯びた輪郭。だが、まぎれもなく、翼が求め続けた、あの切れ長の瞳だった。
冬真は、驚いたようにわずかに目を見開いた。その指先が、膝の上で微かに震える。
「……翼」
その低い声を聞いた瞬間、翼の視界は涙で滲んだ。
今度は仮面も、嘘も、自己保身もない。自分の人生のすべてを投げ打ち、この場所まで、この男の元へ来たのだ。
翼は一歩、強く踏み出し、冬真の元へと駆け寄った。その身体を、力いっぱい抱きしめる。冬真の大きな手が翼の背中に回され、強く迎え入れた。その確かな体温が、震えていた翼の全身にじわじわと伝わってくる。
「待たせてごめん、冬真。……今度は、僕の全部を君に渡しに来たよ」
もう二人の間に、偽りの記憶を貪る沼は必要ない。
この静かな世界の片隅で、お互いの醜さも、執着も、すべてを分かち合いながら、二人は本当の呼吸を始めていた。