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プロローグ エヴァン・ヘレッセンは最後の手術を一通り終えると、手術室の前から名残惜しそうに立ち去った。鉱石のような尻尾を垂らし、翡翠の様な眸で睥睨する。これまで様々な動物紳士、淑女に出会ったが碌な奴が居ない。手術に難癖付けて喚き、竜なんて愚かで傲慢だと嫌そうな顔をする。なら、私の様な愚か者が教授になれるのにも理由があるだろうと問い詰めたくなる。此の医学部付属病院に対して良い印象などこれっぽっちも無い。然し、世間からは違った。縦にも横にも伸びた此の病院は世界最先端の技術だと賞賛を受けていたのだ。殆どの医師は申し分ない腕前であるが、大富豪の動物達は口を揃えて「極光色の竜に頼みたい」と頼み込む。その度に、エヴァンは名前も覚えていないのかと失望していた。
窓硝子から夜景を見下ろして、壁に触れると、嫌だった筈の記憶が妙に美化されて走馬灯のように蘇る。そして幼少期の記憶も同じく、エヴァンの瞼裏で明瞭に思い出された。今では極光しかと表現されないが、その艶を帯びた鱗はよく父から蝶のようだと褒められていた。あの空を飛び、花に止まる蝶を思い出すと胸が躍る。彼にとってはこの世で一番と言っても過言ではない褒め言葉だった。然し、唯一弟は褒め言葉を投げ掛けてはくれなかったのだ。その悪眼立ちする鱗が気に入らないとだけ文句を言われた。
記憶に鼻で笑いながら、もう歩くことのない長廊下を通り抜け、消毒液の匂いが染み付いた階段を下りる。眼立たない端の棚に置かれた賞状と金牌は、硝子窓から射す光に煌めく。生徒の幻が浮かんでは、花弁が散る様に消えた。何度も、背後に聳え立つ城のような病院を振り返っては、前へと伸びる道を見る。月光が濡れた土瀝青に反射していた。そして、視界の果てまで聳える構造建築物からは徹夜の光が漏れている。飛び立って、帰ってしまえば終わりだと翼を広げたその刹那、病院沿いの道から呼ぶ声がした。
「大先生、こんな夜遅くに会うなんて奇遇ですね。また執刀したんですか」
企鵝のような模様の黒い竜が、長外套姿で歩いている。エヴァンは眼を丸くして翼を畳んだ。くっきりとした濃淡のある皮膜が縮む。
「……オーランか。私はその通りだが、君は一体何をしている。土砂降りの中で散歩でもしていたのか」
ずぶ濡れのオーランを見下ろした。毛が濡れて細くなっているのは言うまでもない。長外套は絞れば水が出るのではないかと思う程、重々しい姿になっている。
「そうですよ。勉強三昧で眠くなるので少し眼を覚まそうと思い、此処を走っていました。だって、大先生の出す難問は格が違いますから。……矢張、今回の試験にも難しい問題が出てきますよね?」
ポタポタと水を垂らしながら、笑みを浮かべるオーランに寂しさを感じた。もう、離れなければならない。別れの時が迫っていたのだ。
「出る。私でも難しいと思う問題になったが、勉強すれば解けるだらう。素晴らしい医者になる為、今のうちに頑張れ。何処からでも応援している」
氷の様な冷えた声で言い放つと、再び翼を広げて、二度三度大きく羽ばたく。そして黒外套を揺らし、空へと溶け込んでいった。一方、オーランは冷酷な教授である筈のエヴァンから出てきた激励の言葉に愕然とする。夜の街を覆う驟雨の中、胸に引っ掛かる言葉の意味について頭を悩ませた。
♪♪♪
眼にも留まらぬ速さでエヴァンは荷物を纏めて、鞄に詰める。それを玄関に置いていると、上の階から転げ落ちる様なドンという重々しい音が響き渡る。蹄の音と荷物の崩れる音だろうと予想できた。エヴァンは腕組みして下りてくるのを待つが、先が見えない。そして、待たずに時計の針はチクタクと音を立てて進んでゆく。硝子窓から覗いて、まだ暗いと安心した。
此の廃墟の様な豪邸から出奔する直前、エヴァンは年季の入った燕尾服を纏ったまま、眼の前にある姿見を一瞥した。そこには、有りの儘の姿、すなわち絹帽を被った竜の紳士が映し出されている。角は二本後ろに向かって伸び、その角に向かって両瞼の上から尖った鱗の突起が連なっている。そして、極光のように紅紫の艶を帯びた臙脂の鱗が、薄暗い部屋で燦然と煌めく。エヴァンはその容貌を見るなり眼を逸らした。唯でさえ眼立つ竜なのに、この鱗ときたら艶が付き纏ってくる。好きではないが、極光と呼ばれれば納得した。改めて、服の縒れが無いか確認して、服の先についていた砂埃をサッと払い落とした。準備を終えて、階段の向こうへ声を掛ける。
「クルル、寛いでいる暇は無い。早く支度しないと夜が明ける。紳士に会って『何処へ行く』と問い詰められるのは御免だ」
階段から、不似合いで皺のある燕尾服を着た麒麟が蹄を鳴らして駆けてきた。その麒麟は書にも綴られている通り、麕身、牛尾、馬蹄の通りである。髪は長く巻き毛で、顔は鹿と牛を合わせた様。額からは一本の角を生やし、黄蘗の毛だ。
クルルはエヴァンの冷淡を押し固めたような表情を見て、思わず眉を曇らす。威圧感のある眼に蹌踉めきそうになる。分厚い手紙のせいだと確信していた。
「……疚しいことも無いし、有りの儘に答えれば良いでしょう。『暫くの間は隣街の病院へ移るのだ』と」
「口の軽い生徒に出会したら大変だろう」
クルルは胸に罪悪感の入り混じった靄のようなものが掛かるのを感じた。もし、途中で会えたら幸運だと、心の何処かで思っていたのだろうか。言葉に表せない寂しさが込み上げ、俯いたまま頷く。今、喚けば止まらなくなる。クルルは下唇を強く噛んだ。そして、そのまま扉を内側に開く。冷え切った風が小麦色の巻き毛を揺らした。
「なら、行きましょう。私が貴方を背負って走りましょうか。此の脚なら何処まででも行ける気がします」
自慢するように蹄を見せる。然し、エヴァンは無表情に俯いたまま首を横に振った。そして、白鯱の革靴を履きながら少し顔を上げる。
「結構。いつか翼を怪我したら頼む」
「無論、頼まれなくても助けますよ」
苦笑して外へと踏み出す。先にエヴァンが重そうな鞄を両手に抱えて、隠していた翼を広げた。息を呑むほどに美しい、青みがかった皮膜をピンと張ったまま大きく羽ばたいて飛び立つ。徐々に青緑の艶を帯びて、紅紫と交ざりながら小さな影となり夜空へと溶け込んだ。クルルは恍惚としてそれを眺めていたが、直ぐに両腿を叩いて空へと駆けた。
この事の発端は、一通の分厚い手紙である。或日の朝方、呼鈴の音が鳴り響いた。突然の訪問にクルルが寝惚け眼を擦りながら扉を開けると、軍服を纏った虎毛の犬が立っていた。背後からは逆光が射し、ピンと立った耳や鍛え上げられた体の縁が淡い光を帯びている。袖が捲れ上がり、左手に上が欠けた三日月の刺青が覗く。烙印のようにも見えた。誰だと尋ねる前に、分厚い包を手渡される。只事ではないと思い、咄嗟に中身を開けてみると、達筆な字でボニファーツ・コリネリウスと記されていた。紙を広げ、一心不乱に読み進める。
最愛なるエヴァン・ヘレッセンへ。
ご承知の通り、此度の通達は國より直接の命に基づき、君の転属を速やかに伝えるために記すものである。
君は現在、マールム大学医学部にて教授職を務め、数々の功績と卓越した手術技術を以って、多大なる貢献を果たしている事は多方面から聞き及んでいる。それらの功績を讃え、國の上層部より、ヒラール・ポッセナ軍基地附属軍病院への転属が正式に選抜された。
当該施設は、陸・海・空軍の特殊部隊が集結する唯一の軍事拠点であり、軍医としての任務は軍事的対策、外交、及び機密任務の遂行に至るまで、多岐にわたる。かくなる事情につき、転属手続きは既に一部進行中であり、今更ながら抗議に駆けつけても受理は困難だ。何度か手紙は送った筈だが、忙しいのか家に影すら見当たらない。この様に強引な方法になり、申し訳なく思う。
二日後には、國より日程を記した通達が紙面にて届く予定だ。指定日にマールムを発ち、シュリーフェラまで赴いてもらいたい。到着次第、派遣された軍動物が君を基地まで安全含め搬送する手筈となっているので、移動に関し心配は無い。
尚、転属に際し、以下の条件が附される。
一、クルル助教を同行させる事
二、本件を生徒含め、周囲に一切漏らさない事
三、無謀な逃亡行為を試みない事
言うまでもない事だ。義務としての軍事訓練において僕や其の他軍の者が指導する話となっている。そして、これは後の話になるが、転属先にて配布される記入用紙は二十枚ある。殆どが同意書等々だ。此れらも軍動物と共に記入する欄がある為、直ぐに終わる。詳細な日時等は、後日に國本部から送られる正式文書にて明記される。
クルルは虎毛の犬を見た。上品で滑らかな紙を棚へ置くと、紅茶を飲まないかと部屋へ手招きする。然し、犬は眼を合わせたまま首を横に振った。
「私は手紙を届けるようにと頼まれただけです。何故、貴方から出された紅茶を飲まなければならないのですか?」
不遜な物言いだとクルルは舌打ちした。犬は朝露を踏みつけたまま長い口吻を撫でて見下ろしている。
「私が貴方の立場なら、同じ事を言って拒むでしょう。そう言えば、ボニファーツって誰ですか」
「青豹と呼ばれている方です。姿を見たことは一度もありませんが、染め上げたような青毛の豹だと伝えられています」
暫く聞いていると、どうやら青豹──すなわちボニファーツは華麗さと慈悲の心を携えた豹らしい。その説明で間違いないそうだが、その顔全体に皺を寄せたような表情から察するにこれは真っ赤な嘘である。クルルは思わず耳を垂らして、可哀想だと憐れんだ。
其時、階段の向こうから重々しい足音が響く。エヴァンが起きたに違いない。これは不味いなと追い出そうか逡巡した末、犬に深く頭を下げて追い出した。大急ぎで床に散らばった紙を片付けているうちに、包が風で吹き飛ぶ。包の裏には、上の欠けた三日月と、それを囲うように散りばめられた点のある印が押されていた。何事だと下りてきたエヴァンがヒラリと風に舞う紙を掴み取り、全てが明らかになったのだ。
パッラチエラの塔は暗闇を突き破るように、天へと聳え立っている。奥の道へと続く傾斜は一歩踏み出せば滑ってしまいそうだ。そんな静寂の街に甲高い女の声が響き渡る。エヴァンは気になって、周囲を注意深く見回した。途端に、隣の摩天楼から物を投げるような音がした。悲痛な女の叫び声と、子供の泣き声が交差して聞こえる。耳を澄ましてみると、彼女らは竜の家族だろうと勘づいた。クルルが「酷いですよね。本当に……」と顔を歪める。エヴァンは「私達に関係無いだろう」と突っ撥ねて、高性能携帯電話《スマートフォン》を取り出すと位置を確認してメールを送信した。早朝の冷えた風が二頭の頬を舐める。もう、空には紫雲が垂れ込めていた。
眼を瞑り、辛抱強く喧嘩の声を聞きながら待っていると、傾斜に一台の車が覗いた。運転手の顔は見えない。二頭の前で急に止まり、右後部座席の扉が開く。そして、抵抗もせずに乗った。クルルは物珍しそうに操舵輪を眺めて感嘆の声を漏らす。加工されているのか、硝子は墨のように黒く塗り潰されているらしい。座席でググッと欠伸していると、運転手が言った。
「噂に聞いた通り、艶が綺麗ですね。貴方の様な贅沢がこんな色の鱗を持つなんて、世界は不平等ですよ。私はこんなにも醜いのに」
嗄れ声の老耄が嫉妬か、とエヴァンは嘲笑う。明らかなその嫉妬の眼差しには妬みが込められていた。蚯蚓のような気持ち悪ささえ感じる。隣座席のクルルは苦笑で誤魔化していたが、エヴァンは顔に無理矢理な笑みを貼り付けて、口角を上げたままニコリとしている。顔面が痙攣でもするのではないかという余計な心配を与えた。
「青玉でも食べてみたら、美しい毛が生えてくるのでは?」
「竜は青玉を食っているのですか」
遂に声が掠れて、風のような声になる。座席の隙間から虎毛覗くと、クルルは「あの虎犬だ! 紅茶を飲まないから喉が老けたんですよ。可哀想に」と騒いだ。犬は苦笑を浮かべる。
「強ち間違いとも言えませんね。親切を否定したのかと叱られた挙げ句、喉を切られて叫んでいたので腫れたのでしょう」
「喉を切られた? 深さは?」
途端にエヴァンは急に向きを変えて身を乗り出す。尻尾をゆっくりと畝らせ、洋紅の艶が鱗を撫でた。彼は医学に関する事だけ、眼の色を変える。犬は弱々しい笑みを浮かべた。
「気管を貫く寸前、ですかね。でも心配には及びません。専門のお医者様に治療していただいたので」
ケホケホと痛々しい咳をする。その時、車内が大きく揺れた。まるで車という玩具を赤ん坊に渡したかのようだ。エヴァンは体を揺らしながら、犬の頸を覗き込んだ。巻かれた包帯には血が滲んで赤黒く変色している。運転している最中にも痛みで顔を歪めていた。そしてエヴァンは突然、話し掛けた。
「君の名前は何だ」
「私? 彌猴桃ですよ」
果物の名前を答えられ、「彌猴桃〜?」とクルルが顔を顰める。本名だとしたら食い意地の張った親を持っているのだろう。エヴァンはへえと感心した振りをして腕を組んだ。
「組織内での名を名乗らなければならないのか」
「ええ、貴方もね。果実か石を名乗ると良いですよ。下っ端は草、真ん中は花、その少し上は酒や果実、上層部は宝石」
上層部じゃないのかと落胆する。考えてみればその筈である。態々上層部のお偉いさんが我々のような医者風情の為に出向くことなど無いのだろうと納得した。そして自分は何と名乗れば良いのか、俯いて考える。瞼裏には国旗が浮かび上がった。
「私は身分が高くないので、月桂樹と名乗る。どうせ覚えられない。此のエヴァンとかいう平凡な名前さえも覚えられないのだから、当然だろう」
風に翻る緑の国旗には月桂樹が描かれている。昔から多々見慣れていたからか、あっさりと決まった。それを聞いた犬は困ったように笑う。道は滑らかになったのか、上り坂を徐々に登っている。
「駄目ですよ。大抵の医者は直ぐ上層部になるし、蓋世之才を持つ貴方達なんだから明日には手の届かない所に居ます」少し恨めしそうだ。
「なら先生、金剛石と名乗っても許されるのでは?」
クルルが眼を輝かせて、嬉々として言った。牛の様な尻尾を忙しくバタバタとさせている。日々の生活が楽しそうで羨ましいと心底思う。エヴァンは眼を瞑って金剛石を思い浮かべた。幾何学的な形に削り取られ、四方八方に燦々と光を撒き散らしている。その一粒でも輝きを凝縮した様な姿をしていた。魅力を感じるかと問われたら、全く感じない。寧ろ贅沢で高級だという偏見がその美を邪魔していた。
「──金剛石はお前が名乗れ。瑪瑙にしておく」
瑪瑙の曲がった縞模様が記憶から覗く。あの断面を超える石など無い。思い出すだけで胸に感動が染み込んだ。
「いやいや、私が名乗ったら鼻で笑われますよ。辞めます。……この毛色だし、黄玉と名乗りましょうかね。閃亜鉛鉱も綺麗だから悩みます」
「黄玉先生の方が呼び易い」
「まぁ、確かに。でも二頭で一つなんだから関係のある名前が良いなあ。後で考えましょ」
二頭で熟考して相談している内に、車内に電話の音が鳴り響いた。犬が電話を取ると、座席に乗せたまま話し始める。向こうの声も加工も無く有りの儘響き渡る。瞬く間に、エヴァンは怒りを煮詰め続けたような眼をして、凍ったのかと思うほど冷ややかな顔をした。
「此方、自動車番号二〇二二。本拠地到着」
『了解。基地裏一四駐車場へ駐車せよ』
「了解」
プツリと電話が切れる。窓を開けると、軍隊の狼に顔写真を見せて門を通り裏へと進んだ。既に軍服を纏った動物が並び待ち構えている。両手に軍用銃を抱えて真っ直ぐ前を向いている。海豚の旗が風に揺れて、車はキィと音を立てて止まった。そして扉が開き、冷たい風が二頭を包み込む。其処には視野一面を覆う基地があった。そして基地を囲い込むように塀がある。刑務所なのではないかと錯覚する程、頑丈だ。
数頭の兵隊に連れられ、玄関横の殺風景な個室で服を丸々脱がされた。翼を出している二重の布にある釦を外し、尻尾の釦も外して両手を広げる。クルルもそれを見て真似ると、二頭の服は回収され、鱗や毛の一つ一つを観察する様に検査された。
「おい、飴があるぞ」
「あっ、舐め忘れてました!」
クルルが頬を染める。兵隊はハァと溜息をついた。
「身分証明書を」
「はい」
二頭して紙を取り出す。機械を触っているもう一頭の動物にその紙を渡すと、数字を確認して頷いた。暫く裸のまま待機していると、色を混ぜ合わせた様なゴチャゴチャした迷彩服を渡された。エヴァンは空軍、クルルは陸軍の物だ。
「ねえ、兵隊さん。私達って将校なんですか?」
「そうだ」
「へ、へえ」
はあ、そうか。最初から階級が上なのかと納得して服を纏う。エヴァンは扉と壁を交互に見て、不信感を抱いた。そして囲まれたまま部屋を後にする。湿った灰色の床を歩き、食堂や会議室の前を通る。起床時間や任務の日程、持ち物の説明も受けながらの徘徊は一瞬であった。そして兵隊はようやく足を止めて、ふと二頭の前で振り返る。
「時間だ。至急地上四階作戦本部室へ同行願う」
「分かった」
苛立ちと無を掻き混ぜた、冷めた顔をする。クルルは怪訝そうに兵隊の背を見た。
「地下があるんですかね」小声で囁く。
「此の規模だとあっても不自然じゃない」
爬虫らしい瞼を動かして、サッと前を見た。また油のような液で汚染された階段を上り続ける。古びて、手摺は錆びている。脚が痛いとも言えず、耐えている内に「此の階だ」と背後から言われた。死刑部屋へ案内されるような気分で廊下を歩き、部屋の前に立つと扉を二度叩く。
「入りなさい」
穏やかな返事が聞こえたと思えば、今まで居た筈の兵隊が消えている。二頭は顔を見合わせて、その部屋へ足を踏み入れた。すると、青毛の豹が椅子に座り、煙草を吸っている。紫の煙を濛々とさせて、眼を金剛石の様に輝かせていた。二頭は途方に暮れる思いで立ち竦んで、じっとその様子を只管見ていた。青豹、すなわちボニファーツはニヤニヤと笑みを浮かべて近寄ると、一頭ずつに力強く握手する。引き寄せて上下に振った。
「其の助教はとても良い顔をしているね。いつも手術で第一助手をさせられていると噂を聞く。可哀想に」
同情を含んだ哀れみの眼を向けて、眉根に皺を刻んだ。鼻の髭を震わせて瞳孔を満月のように丸くする。クルルは耳を垂らした。
「可哀想じゃありません。私は先生を敬愛しています。だからこそ、医者を眼指したのです。今も、此れからも変わりません」
嘘一つない潔白の言葉だ。陽の光を満遍なく浴びて、黄金の艶を帯びた毛が巻き毛の隙間から覗く。麒麟特有の美にボニファーツは驚きの色を残したが、嘘のように消え失せる。そして微笑った。
「こんな子が居たらきっと、毎日が幸せなんだろうね。会えて凄く嬉しいよ」
愛おしいものを撫でるような恍惚とした表情に、胃液が込み上げるような感覚に至る。而も、瑠璃の様に美しい青毛が生気を感じさせない。俯いたままクルルは尻尾をダランと下げた。巻いた髪が視界で揺れている。エヴァンは冷然としていた。
「何の用事だ。クルルに同情したいのなら、私は扉の外で待っておくことにしよう」
ボニファーツが何歩か下がった。重なった無数の勲章を揺らして、後ろで手を組む。気持ちが萎えたように、鼻をヒクヒクと動かしていた。顎を引いて、ただ淡青の眸を煌めかせる。頬は紅を差したように染まり、涼し気な青毛でも興奮の熱が伝わった。
「僕は久々に君と話したかったんだよ。エヴァン君は揶揄うと拗ねるから──」
「私は君の顔すら見たくない。内容は」
遮って言う。常に眼すら合わせず、窓から見える景色ばかり眺めていた。ボニファーツはムッとした顔をして近寄る。
「数年振りに会って、抱擁すら交わさないのかい。酷いなあ。そういえば、名医って呼ばれてるんだろう。専門は?」
「脳神経外科だ」
爬虫類、両生類、哺乳類、鳥類……それぞれの脳、脊髄、神経を専門として手術をしている。鳥類専門の脳神経外科医と限れば多いが、エヴァンの様に全ての脳神経を手術出来る医者は少数だ。この全てを勉強する為に、どれだけの経験と書が要るか計り知れない。巨大な脳から繊細な神経まで、手で紡ぐ。眼の前の豹は嘲笑うように口を開いた。黄色い牙が上下に出ている。
「へえ、たった脳だけか。君からすれば物足りないだろう。僕は優しいから全種族の全身を手術出来る様にしてあげる。君なら出来て当然だろう?」
正気の沙汰とは思えない言葉に息が詰まる。エヴァンは眸の奥にジワジワと焔を揺らして、ただ睨みつけていた。言われたことに対してではなく、過去の事なのかは分からない。然し、怒りでも無く軽蔑の眼をしているとすぐに分かった。
「何も成長していないな」
全ての期待を捨てた、諦めた声。哀れみを含んだ表情を向けていると、視界が青毛で覆われた。肩に優しく置かれた手は、妙に体温が無い。屍体の様に凍っていた。
「お互い様さ。でも嬉しいでしょう?」
優しい、そして甘ったるい言い方。此の話し方を蜂蜜と喩えた鯱《シャチ》が脳裏を過ぎる。彼は酷く胸焼けした。
「君は、何年も掛かることを一年で終わらせるんだ。今だって天才として世間に崇められている君は、これから全知全能の神になれるよ」
全知全能、という言葉に初めてエヴァンが笑った。艶が角まで満遍なく広がる。顔を上げることが少ないからか、クルルは驚いて滑りそうになった。
「君は常に期待だけして、少しでも期待を裏切れば軽蔑していたな。また、繰り返すのか」
「悪かった。でも、今は昔話をしたいわけじゃないんだ。仕事のお話」
手をちょいちょいと動かす。二頭は古びた肘掛け椅子に腰掛けた。尻尾が深く沈む。低い机には資料が重ねられていた。
「簡潔に願いたい」
「そんなに嫌うんなら仕方無いね。まぁ、簡潔に説明すると、君達はヨルガンの首都ラディヌマに向かう。そこは今紛争が激化し、一般市民含め兵隊らは負傷。ヒラール別基地や戦場に居る軍医の援護をする」
エヴァンは頷いたまま何も言わない。その場に重苦しい静寂に包まれた。演習場からの音だけで無く、足音さえも聞こえる。幾つかの蹄の音と、軍靴の鳴る音が交互に響いた。其の恐ろしい静寂を破ったのはクルルの呟いた独り言だった。
「……そもそも、ヨルガンって何処だろう」
二頭の眸が、ジロリと忘れっぽい麒麟に向く。クルルは恥ずかしさに震えて顔を覆い隠した。エヴァンは説明を促す様に、その場で硬直している青豹の顔を覗き込む。彼はそれに気がつくと、資料に挟まった地図を広げ始めた。山岳から細かい川や地方の名前が書かれており、攻撃された部分には小さな点が無数に打たれている。エヴァンは無言でそれを凝視した。
「北にある峡湾で有名な島国だよ。付近にある國と仲が悪くて、貿易摩擦は勿論だし、学校教育で相手國を悪者に仕立て上げた教育をする徹底振り。それにヨルガンは兵器を作ってるから面倒な事になっててね」
此処だ、と地図の海沿い部分を指す。そして閉鎖地域の山沿いにも印が付けられていた。水爆と他国語で綴られている。
「医薬品の在庫と状況は」
「都市部には十分にある。でもヘリコフやワンブルクとかの田舎には行き届いてない。それも、生存者が居るかも不明で、空には爆撃機が多く侵入も困難連絡の途絶えた兵も多いから、此の後に会議をして小型無獣航空機で調べるつもり」
派遣した基地に赤い点を書き出す。数えると合計で八頭。そして、参考にと本を渡された。そこには派遣された動物の顔写真と履歴、階級がきめ細かく綴られている。エヴァンは重要な部分だけを読み上げて、クルルが影で備忘録に書き留めた。
「……上の欠けた三日月、階級によって周囲を覆う点の数が変わるんですね。上下に一つずつと、二つずつが多いようですけど、ボニファーツさんは幾つですか?」
「上下、合計で三〇だね」
「ええっ」
思わず驚きで青褪める。エヴァンは眼を細めて、嘲笑の声を漏らして外方を向く。パタリと本を閉じた。布が張り付けられているからか手触りが良く、繊細に花の刺繍が施されている。もう一度開き直すと、布が剥がれている部分があった。少し広げて覗くと写真が挟まっている。褪せた深緑の軍服を纏い、真っ直ぐな眸を正面に向けた狼が居る。身を覆う黒毛に、耳や頬の毛には柿色の毛が混ざっていた。眼や口吻周りには白毛が薄らとある。それを凝視していると、手が滑り、はらりと地面に写真が落ちた。クルルが屈んで拾う。
「凛とした方ですね。誰ですか?」
ボニファーツは瑠璃のような毛を黝くして、深く溜息をつく。カツカツと革靴の音を鳴らして近寄り、クルルの手から写真を抜いた。
「陸軍の隊員なんだ。尊敬していた先輩だけど、若くして……戦死した」
明らかに曇った表情に首を傾げた。真夜中の霧のような不気味さ、不可解さに疑惑の眼差しを向けずには居られない。然し、問い詰めるのは無鉄砲だと断念した。
「じゃあ、今日はお話終わり。これから二頭の部屋を外の軍動物に案内してもらって、今日はもう休んで貰う。狭いし古いけど、寝台はあるから生活に困ることはない。小さな冷蔵庫もある」
「分かった。なら、もう話す必要は無い」
クルルの腕を引いて部屋から出ていくと、扉を閉めた。その扉の隣に立っている軍動物に連れられ、次は階段を下がる。その途中にある大きな硝子窓からは航空機や訓練をしている若い軍動物が見えた。遠眼でも竜が数頭見え、狙撃練習をしているのか銃声が絶え間なく聞こえてくる。乾いているが、眼的を必ず始末するという強い意志を感じた。下手すれば自分の命を失う為、本気だ。クルルは尻尾を振って学生を褒めていたが、エヴァンはただ寂しいような薄闇の表情で歩いている。重りでも伸し掛かっている様にも見え、また酷い悲しみを浴びせられている様にも見えた。そして、突然、廊下を歩いて手前の部屋で止まる。たった数時間前に雑巾で拭かれたような金属の扉を開く。
「別に狭くないですよね。全然広い」
尻尾を振り回して蹄を鳴らしながら冷蔵庫に近づき、恐る恐る開ける。そこには冷えた飲み物と、昆虫肉が詰められていた。部屋の端には古びた寝台があり、本棚と机まで置かれている。擬態するように置かれた衣桁は木の枝の様だ。エヴァンは部屋の隅々を見渡して、何も言わずに寝台へ横たわった。暫く、寝転がって天井を見上げる。混凝土の褪せた色が、ただそこにあった。ふと、眼を閉じて横向きになる。軈て、死んだのかと勘違いする位動かなくなった。
「……先生、寝ましたか」
肩に触れて何度か揺らすが、特に反応は無い。ただ、胸だけがゆっくりと上下に動いていた。クルルは物置きから引っ張り出した布のような毛布を掛け、腕の隙間へと身を寄せた。鱗が鎧に似て頑丈な理由もあり、筋骨隆々な体躯に思える。羨ましさを感じながら伸びをしていると、服の間から古い火傷が覗いていた。然し、火山地方出身の竜は焔に耐性がある。だから焔は有り得ない。きっと、薬剤だろうとクルルは眠たい自分を納得させる。そして明日の不安を抱え、眠った。