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「……佐藤さん。聞こえていますか?いつまで寝ているつもりですか。このままでは午後のプレゼンに間に合いませんよ」
鼓膜を叩くのは、低くて冷ややか、それでいて無駄に響きの良いバリトンボイス。
氷点下の冷徹さと、わずかな苛立ちを含んだその声の主を、私の本能が瞬時に識別する。
(やばい、一ノ瀬部長だ……!)
精鋭揃いの広告代理店で「鬼の進捗管理」と恐れられる男の声。
そのプレッシャーを察知した瞬間、私の脳内アラームが最大音量で鳴り響いた。
「ひゃいっ! 申し訳ありません一ノ瀬部長! すぐに、すぐに修正しますっ!」
跳ね起きると同時に、脊髄反射で謝罪の言葉が口をついて出る。
たとえ寝起きでも、どれだけ深い眠りについていても、上司への謝罪だけは忘れない。
それが社畜……じゃなかった、立派な社会人としての私の生存本能だった。
けれど。
勢いよく目を開けた私の視界に飛び込んできたのは
いつもの殺風景なオフィスでも、ブルーライトを放つPCのモニターでも
積み上がった修正依頼の山でもなかった。
「……え?」
そこは、見上げるほど高い天井が広がる大広間だった。
頭上には贅を尽くしたクリスタルのシャンデリアが輝き、壁一面には神話を描いたであろう巨大なタペストリーが揺れている。
そして何より、目の前に立つ人物の姿が───あまりにも「おかしい」。
「ぶ、部長……? その格好、何かのプロモーション用のコスプレですか……?」
そこにいたのは、我が社の誇る最年少営業部長、一ノ瀬。
鉄壁の三ピーススーツを完璧に着こなしているはずの彼が、今は金糸の刺繍がびっしりと施された濃紺の軍服を纏っていた。
マントを翻し、腰には鈍い光を放つ本物の「剣」まで下げている。
一ノ瀬部長は、銀縁眼鏡の奥の鋭い瞳で私を射抜くと、ふぅ、と深く重いため息をついた。
「コスプレ? 正気ですか。貴女のその……おめでたい頭を冷やすために、まずは現状をロジカルに整理しましょう」
「え?」
「佐藤さん、鏡を見なさい。今すぐに」
「鏡……?」
言われるがまま、近くにあった豪奢な装飾の姿見を覗き込む。
そこに映っていたのは、使い古したリクルートスーツにボサボサ髪の私ではなく
ふわふわの茶髪を真珠の髪飾りで整え、レースとフリルが幾重にも重なった純白のドレスに身を包んだ、見知らぬ美少女だった。
「だ、誰!? これ、私!? 徹夜続きで死んでたはずの肌にツヤが……!」
「注目すべきはそこではありません」
部長は淡々と、まるで月次報告を読み上げるような冷静なトーンで続けた。
「我々は……どうやら、会社ビルの階段から同時に転落した衝撃で、異世界という名の未知のセクションに『配置転換』されたようです」
「い、異世界……? 配置転換ってレベルじゃないですよ部長! 物理的に世界を跨いでます!」
「パニックは時間の無駄です。私が先ほど、この部屋のメイドから聞き取った一次情報を共有します」
「状況から推測するに、貴女はこの国の没落寸前の男爵令嬢。そして私は、貴女の家の不正を暴きに来た王宮直属の騎士団長……という設定のようです」
「対応早すぎませんか部長!? 起きて数分でヒアリング完了してるんですか!?」
パニックで頭をかき乱す私を余所に、部長は私の膝の上にあった一冊の古びた本を指差した。
「混乱する暇があったら、その資料……いえ、『本』を読みなさい。そこには、貴女がこれから辿る『バッドエンド』までのスケジュールが、詳細なタスクリストのように記載されています」
恐る恐る本を開くと、そこには私の───
いや、この令嬢の、救いようのない未来が綴られていた。
一週間後に借金で家財を差し押さえられ、十日後には国外追放。
一ヶ月後には路頭に迷って野垂れ死ぬ。
……まさに、破滅へのエスカレーター。
「嫌っ! 異世界に来てまでブラックな人生なんてお断りです! 現代に戻らせてください!」
「……不可能です。現状、帰還ルートに関するエビデンスが見つかりません」
「そ、そんな!!」
「しかし、私の辞書に『敗北』や『倒産』の文字はありません。異世界であろうと、私は常にトップを走り、最短ルートで『完遂』させる主義ですので」
部長は、白い手袋を嵌めた手で私の肩をぐいと引き寄せ、強引に抱きとめた。
至近距離で見つめ合う。
部長の頬が、わずかに熱を帯びたように赤らんでいるのが分かった。
しかし、その声はどこまでも事務的で、冷徹な敬語のままだ。
「我々は今この瞬間から、協力して『ハッピーエンド』をもぎ取りに行きます。そのためには───」
部長の顔がさらに近づく。吐息が触れるほどの距離で、彼は断定した。
「佐藤さん、これは業務命令です。私と『偽装結婚』をし、この国での強固なバックボーンを構築しましょう」
「は、はいぃい……っ!?」
拒否権など微塵も感じさせない、圧倒的な上司の「契約交渉」。
こうして、私の異世界での生活が強制的に始まったのだった。