テラーノベル
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「……あの、部長?一つ、いえ、火急の案件として確認させていただきたいのですが」
私は、目の前の光景に引きつった笑いを浮かべながら、震える声で問いかけた。
そこは、没落寸前とはいえ由緒ある男爵邸の、最も豪華なしつらえが施された主寝室。
部屋の中央には
高級なシルクのカーテンが垂れ下がる天蓋付きの巨大なキングサイズベッドが
傲然と鎮座している。……たった、一つだけ。
「なぜ、ベッドが一つしかないのですか?私のベッドはどこに割り振られているのですかね…?」
一ノ瀬部長は、飾り帯のついた重厚な軍服のボタンを
長い指先で一つ、また一つと外し始めながら、至極冷静なトーンで答えた。
「佐藤さん。先ほど第1回定例会議で説明した通り、我々は現在『熱愛の末に電撃結婚した新婚夫婦』という極秘プロジェクトを遂行中です」
「騎士団長という公的な立場にある私が、愛する新妻を別室に追いやるなど、対外的なリスク管理が全くなっていません」
「えっと…すみません、言っている意味がよく分かりらないのでもっと詳しく教えてください」
「分からないではなく、現状を認めたくないのでしょう」
「う…っ、仰る通りで……」
「……いいですか?不自然な別居は、周囲に余計な疑念という名のノイズを生むだけです。よって、同室・同ベッドでの就寝は、この世界で生き抜くための不可避な必要経費です」
「必要経費!?私の精神的リソースの削り方がエグすぎませんか……!」
「パニックは工数の無駄です。そんな暇があるなら、まずはこの『婚姻契約書兼・業務提携書』に目を通し、サインを。これも業務の一環、必須タスクです」
差し出された羊皮紙には、部長らしい無駄のない、しかし美しい達筆な文字が並んでいた。
『条項一:不実な行為の禁止』
『条項二:公の場における親密な接触の義務化』『条項三:ハッピーエンド完遂後の成功報酬について』…
それはビジネスマナー顔負けの緻密さで構成された
世界で一番ロマンチックじゃない結婚契約書だった。
(この人、異世界に来て数時間で契約書をドラフトしてる……!仕事の鬼どころか、もはや仕事の神か悪魔だよ……!)
私は震える手で羽根ペンを握り、半ばヤケクソでサインを書き込んだ。
これで私は、名実ともに(偽装だけど)部長の妻として、この異世界という名のオフィスに配属されてしまったのだ。
「よろしい。契約は締結されました。では、第1回目の『夫婦演習』を開始します。佐藤さん、こちらへ」
「ひゃいっ!」
部長がベッドの端に腰掛け、トントンと隣のスペースを叩く。
恐る恐る隣に座ると、ふわりと香りが鼻をくすぐった。
高級な石鹸の清涼感と、その奥に潜む微かな鉄の匂い。
騎士団長という役割がもたらしたのか
現代の部長からは決して漂わなかった、本能を揺さぶるような「戦う男」の匂いだ。
「佐藤さん。貴女の最大の弱点は何だと思いますか?」
「えっ、えーと……、エクセルのマクロを組もうとするとフリーズすることと、あと……極度の方向音痴なことと、プレゼンで噛み倒すことです」
「違います。貴女の課題は、感情がすぐに顔に出すぎる点です。今の貴女は、まるで『誘拐された子供』のような、悲壮感溢れる顔をしていますよ」
言うが早いか、部長は銀縁の眼鏡を外し、私の頬を大きな両手で挟み込んだ。
視界が急激に近くなる。
眼鏡のない部長の瞳は、いつもよりずっと深くて
射抜くような鋭さと、何処か熱っぽい力強さを秘めていた。
「いいですか。明日から繰り出す社交界という名の戦場では、隙を見せれば一瞬でハイエナたちに食われます」
「こ、怖いこと言わないでくださいよ!」
「言いますとも。もし私が公衆の面前で貴女を抱き寄せたとき貴女が今のように赤面してフリーズしていては、偽装だと疑われ、即座にゲームオーバーです」
部長の手が、吸い寄せられるように私の腰へと回された。
ぐい、と力強く引き寄せられ、私の鼻先が部長の硬い胸板に当たる。
トクン、トクン、と、規則正しく
けれど私の心臓よりはずっと深く早い鼓動が、厚い軍服越しに伝わってくる。
「ぶ、部長……!さすがにこれ、物理的距離が近すぎます!コンプライアンス的にも…!」
「……生憎ですが、この異世界には、我が社のコンプライアンス規程は届きません。ここでのルールは、私が策定します。佐藤さん、目を閉じなさい」
「えっ、え!!キ、キスとかしないですよね?!」
「……これは研修です。夫に不意に触れられても、動揺せずに『愛の微笑み』で返せるようになるための、耐性訓練です」
「だ、だって心の準備が!しかも上司となんて……!」
「……いいから、早く。これは上司命令です」
至近距離で聞く部長の声が、少しだけ、掠れている。
私は抗う術もなく、ギュッと目を閉じた。自分の心臓の音がうるさすぎて
静まり返った公爵邸の夜をぶち壊してしまいそうだった。
数秒の沈黙の後
おでこに、熱くて柔らかい何かが
ほんの一瞬だけ、羽が触れるような優しさで押し当てられた。
「……本日の演習は、ここまでです。明朝は5時起床。騎士団の朝練に同行し、内助の功をアピールしてもらいます。速やかに就寝するように」
パッと身体を離した部長は
一度もこちらを見ることなく、ガバッと掛け布団を被って背を向けた。
しかし、カーテンの隙間から差し込む月の光が、無情にも暴き出す。
いつも冷徹な部長の、耳の付け根が、驚くほど真っ赤に染まっているのを。
(…部長、もしかしてこれ、本気で照れてる……?)
恐怖の鬼上司が
異世界で「不器用な過保護夫」へとジョブチェンジしていく予感に
私の胸はさらに激しく騒ぎ立てるばかりだった。
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