テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#パワハラ上司
537
13
ガチャリ、と背後で冷たく重い錠が下りる音。
ついに、私は聖域、サヤの部屋へと足を踏み入れた。
「……あ」
スマホの画面越しに、何百回
何千回と指でなぞり、憧憬の眼差しで眺め続けたあのリビング。
白を基調とした大理石調のローテーブル
素足に心地よさそうな純白のシャギーラグ
そして窓際に凛と飾られた、彼女のトレードマークである大輪のピンクのバラ。
けれど、何かが決定的に違っていた。
画面の中ではあんなに無機質で美しく、神々しいほどに輝いて見えた場所なのに
一歩踏み出すたびに足の裏から伝わってくるのは、ねっとりとした不快な拒絶感だった。
ラグの毛足の隙間には、いつのものかもわからない食べ残しのカスが詰まり
高級ブランドのソファの隅には、どす黒いシミがいくつも、まるで呪詛のようにこびりついている。
「おい、サヤ。……いつまで突っ立ってんだよ。さっさと酒持ってこいよ」
背後から、男の低く濁った声が鼓膜を打つ。
男はドカッとソファに深々と腰掛け、泥に汚れた靴を履いたまま
あの大理石のテーブルに無造作に足を投げ出した。
サヤが、世界で一番幸せな朝食を並べていた、あのテーブルに。
(……汚さないで。サヤの場所を、その汚い足で汚さないで!)
内側から噴き上がるような激しい怒りに、視界が真っ赤に染まる。
けれど私は、震える喉の奥から必死にサヤの残響を絞り出した。
「……うん。今、持ってくるね」
逃げるようにキッチンへ向かうと、そこはリビング以上に凄惨な光景が広がっていた。
狭い洗い桶には、カビの生え散らかした食器が地層のように積み重なり
冷蔵庫の扉には、何枚もの「督促状」や「催告書」が、可愛いキャラクターのマグネットで雑に留められている。
(……サヤ。あなた、こんな地獄のような場所で、あんなに綺麗に笑っていたの?…私たちを、騙してたってこと?)
毎日、何千円もするディナーの写真をアップして、フォロワーに慈愛に満ちたコメントを返して。
その完璧な虚像の裏側で、こんな汚物と暴力の臭いが染み付いた生活を、一人で耐え忍んでいたなんて。
私は冷蔵庫を開け、指先の感覚がないままビールを取り出した。
その時、冷蔵庫の脇に置かれた一冊の薄汚れたノートが目に留まる。
表紙には、見覚えのある───
サヤがサイン会で書くのと全く同じ筆跡で、こう記されていた。
『サヤ・運用マニュアル』
吸い寄せられるようにページを捲ると、そこには私の脳を掻き乱すような
おぞましい戦略が書き殴られていた。
『10月11日:いつものカフェで撮影。衣装は────。幸福感を120%演出すること』
『フォロワーの反応が悪い時は、不幸なエピソードを小出しにして同情を誘う』
『彼氏への支払いが遅れると、顔を殴られるので注意。撮影時はコンシーラーで隠すこと』
(……マニュアル? 幸せも、微笑みも、全部……全部マニュアル通りなの?)
ガタッ、と椅子が激しく引かれる音が、静寂を切り裂いた。
「……おい。何見てんだよ」
振り返ると、すぐ背後に男が立っていた。
男の濁った瞳の中に、サヤになりきり
彼女の人生を奪おうとしている「偽物の私」が歪んで映っている。
「……お前、やっぱりサヤじゃないだろ」
男の節くれ立った大きな手が、ゆっくりと、獲物を追い詰めるように私の首筋へと伸びてきた。
その指先には、玄関の靴の裏に付着していたのと同じ
湿った「黒い土」がべっとりと、乾かぬまま付着していた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!