凪は客の後ろ姿が見えなくなると、暫く歩いて路地裏に入った。人通りが一気に少なくなったところでしゃがみ込む。
それから一気にはぁーっと大きく息を吐いた。
やばぁ……。なんか、無理だった。
心の中でそう呟いた。朝はあんなにもスッキリとした気持ちになり、仕事も頑張れそうだと思った。
今まで何度もリピートしてくれている客で、客の中では苦痛は少ない方だった。寧ろお泊まりをすればちゃんと睡眠時間を与えてくれるし、ロングコースで予約して食事も摂らせてくれる。
デートでは似合いそうな服を見つけるとプレゼントしてくれたり、オススメの美容コスメも教えてくれる。
会話も普通にできるし、笑顔で話せる時間もある。スタイルだって普通体型でとても無理だなんて思ったことはない。
良客の部類に入るのは間違いないはずなのに、性感を始めて暫くするとなんとなく気が重くなった。
キスをして舌を絡めると、今まで気にならなかった相手の口臭が気になった。近くで目を見つめると、目尻のシワが細かく入ってるのが目に止まった。
とにかく今まで何とも思わなかった些細な部分が見えて、知らず知らずの内に自分で粗探ししているように思えた。
何とか性感を終えて、早めに風呂に入った。風呂場でまったりイチャイチャするふりをして、ベッドから距離をおいた。
終了時間が待ち遠しかった。
身支度をしてホテルを出る準備をする。
「ねぇ快、この後予約入ってるんだっけ?」
そう聞かれてドキッとした。まさか延長されるかも……。そう思ってゾッとした。しかし、彼女は良客だ。この客でこんなにも無理だと感じたなら、他の苦手客はもっと無理かもしれない。
延長くらいとっておかないと、今月の売上が厳しくなるかも……そんな考えが頭を過った。
「いや、キャンセルされちゃってこの後予定ない」
凪はそう言って笑顔を作った。本当は、立て続けに接客するのが苦痛で入れなかっただけだ。
「じゃあ、延長するからご飯いかない?」
客は楽しそうに言う。前の凪ならこんなに嬉しい延長はなかった。一緒に食事をするだけで金が手に入るのだから。
しかし、彼女からもたくさんキスを求められ、応えたからか未だに彼女の口臭が鼻先についてるような気がして吐き気すらした。
「いいの? 俺、お腹ペコペコ」
そう言って凪は演じながら延長を受け入れた。
ようやく解放された今、疲労感がどっと押し寄せてきて立っていられそうになかった。
暫くすると凪は立ち上がって事務所へと戻った。内勤と金のやり取りをして、次のスケジュールを確認した。
あとロングの客が1件。今延長されたから、シャワーを浴びて直ぐに支度をして向かわなければならなくなった。360分+お泊まりコース。
ずっと同じ客と長時間過ごすのは苦痛だが、色んな客に短時間で入るよりは全然マシだった。
とりあえず仕事はこなさないと。そう思いながら、次の客と会った。昔は考え事をしていたって勝手に笑顔が作れたし、嘘もつけた。けれど今は集中しないと難しいようだった。
なるべく性感に入りたくなくて映画を観たり、アロママッサージ時間を長めにとった。
「快なんか今日元気ない?」
「ん? そんなことないよ。そう見える?」
「うん。だって、いつもならもう我慢できなくなっちゃったって言ってすぐエッチなことするのに」
恥ずかしそうに言いながらも女性はどことなく不満そうだった。我慢ができないと言って迫ることも、凪の営業方法の1つだ。
あなたには女性としての魅力が十分にあって、普段女性の体なんて見慣れているけどあなたにだけは興奮するんです。なんて思わせることができるから。
事実、その営業方法は喜ばれたしリピートも増えた。この客にも毎回のようにそうしていた。当然今回もそうだと思いながら期待してきたに違いない。
さっさとエロいことしろよ、なんて目で凪を見るが女のプライドが邪魔をしてそんなことなど言えやしない。
凪は一瞬ヤバい……と息を飲んだが、直ぐに機転をきかせる。
「真美は可愛いしエロいから俺すぐ興奮するしいつも我慢できないから、マッサージとばしちゃったりするじゃん? なんかそれで手ぇ抜いてるって思われたらヤダなって思って、今日は真面目にマッサージやってみた」
「なにそれー! そんなこと気にしてたの? 別に手抜きなんて思わないけど」
きゃははと笑う客は、自分の魅力のせいじゃないと知って安心したようだった。凪も同じように安堵の息をつき、「本当はちゃんとマッサージした方が感度が上がるからいいんだよ」と囁いた。
普段と同じルーティンでも飽きられるが、本当の手抜きは違和感を抱かれやすいのだと改めて思い知らされ、凪は淡々と自分のマニュアルに沿って仕事をするしかなかった。
今までだったら、お泊まりで数時間眠ればそのまま仕事に行くのはなんてことはなかった。
自宅でだって数時間しか眠れないし、2時間程度で目が覚めることもあった。1人でいたって熟睡できないのだから、客と一緒に寝たって同じ。そう思っていたし、実際にそうだった。
しかし、今回は違った。今までとは比べ物にならないほどとてつもない睡魔に襲われた。恐らく疲労が溜まっているのだ。
客と一緒に寝ていても、数時間どころか数十分単位で目が開いた。仕事の為にも眠らないと。そう思うのに、相手の寝息が気になって眠れない。
いびきなんてかこうものなら、その隣で舌打ちをした。いびきも歯ぎしりも慣れたものだと思っていた。
この仕事を始めてから意外と女性にもいびきや寝言が激しい人が多いと知った。時には寝相が悪い客もいて、よく大して知らない人間の隣でそんなに豪快に眠れるもんだと幻滅した。
セラピストになってから女性に対するイメージはかなり変わった気がする。それが当たり前になりつつあったのに、その当たり前に嫌悪するようになってきてしまった。
仕事だからそんなことを気にしても仕方がないし、金さえ貰えればいいと思っていたのに。
凪は次の予約まで一旦帰ることにした。とりあえず1人になりたかった。もう誰とも一緒にはいたくなかった。
体調が悪い気もしてきて、予約を断ろうかとも思った。しかし、当日に急に断るわけにもいかない。次の予約さえこなせば今日はお泊まりはない。
千紘の家に行く約束はしたが、それ以外の予定は入れていない。あと1件くらいは頑張れる。そう自分に言い聞かせながら、たった1人の空間で睡眠をとった。
凪が目を覚ますと、眠りについてから2時間後だった。カーテンの隙間から差し込む光が眩しくて目が覚めた。
眠る前と光の加減はそう変わらないはずなのに、目が開かないほど明るく思えた。それでもいくらか体調はマシだった。あと1件行けそう。
そう思いながらのそのそとベッドから出て支度をした。
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