テラーノベル
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桜庭省吾がこの部屋へやって来てから二日が過ぎた。 思っていたより静かな人だった。
配信もしない。
悲鳴も上げない。
夜中に肝試しを始めたりもしない。
その代わり、ちゃぶ台やノートパソコンに向かって何かを書き続け、時々本を開いては考え込んでいる。
事故物件へやって来た人間とは思えなかった。
この部屋の使い方を盛大に間違えている気がする。
そんな昼だった。
玄関がノックされる。
「はーい」
彼が扉を開ける。
立っていたのはハルさんだった。
手には古びた段ボール箱を抱えている。
「こんにちは」
「こんにちは」
彼は箱へ目を向けた。
「それは?」
「澪ちゃんの荷物よ」
思わず顔を上げる──私の荷物。
「色々手続きとかがあってね」
ハルさんは部屋へ上がった。
「ずっと預かってたの」
箱はちゃぶ台の近くに置かれた。
「見てもいいですか?」
「もちろん!そのために持ってきたんだから」
彼は慎重に段ボール箱を開いた。
その瞬間、ほんの少し懐かしい気分になった。
もちろん匂いなんて分からない。
幽霊になった私にそんな感覚は残っていない。
それでも昔の記憶だけは残っていた。
一番上に見えたのは青い筆箱だった。
懐かしい。
高校へ入学した時に母と買いに行ったものだ。
本当は赤が欲しかった。
でも売り切れていて、仕方なく選んだ青だった。
当時は少し不満だったのに、結局ずっと使っていた。
彼は筆箱を手に取る。
気になって少し近付く。
少し眺めてから、そっと元の場所へ戻した。
次に取り出したのは文庫本だった。
それを見た瞬間、思わず声が漏れる。
「あ──」
途中までしか読んでいない本だ。
ちゃんとしおりまで挟まったままになっている。
最後がどうなったのか、私は知らない。
読み終わったら友達に貸す約束もしていた気がする。
結局、何もかも途中のままだった。
五年前に閉じた時間が、そのまま箱の中へ詰め込まれているみたいだった。
写真も出てくる。
友達と撮ったものだった。
文化祭の日だ。
みんな笑っている。
私も笑っている。
少し恥ずかしくなるくらい楽しそうだった。
何年も思い出していなかった。
そんな顔で笑っていたことすら。
それから箱の隅に隠れるように置かれていた生徒手帳へ彼が手を伸ばした。
「朝倉澪……」
彼が名前を読む。
少しだけ落ち着かない気分になった。
都築七美
360
#初心者だからつまんないかも....
海夏
33
浪霧(らむ)
213
ピデピー
1,156
自分の名前なのに、自分のことじゃないみたいだ。
手帳を開く。
そこには見慣れた顔写真が貼られていた。
今より、少しだけ幼い私がいる。
「高校二年生の十七歳ですか」
「そうね」
ハルさんが小さく笑う。
「今なら二十二歳になってるはずだけど」
二十二歳。
その数字が妙に遠く感じた。
想像もできない。
そこまで生きた自分を知らないからだ。
「五年か──」
彼が呟く。
「長いですね」
「ええ」
ハルさんは静かに頷いた。
「本当に長いわ」
部屋に少しだけ沈黙が落ちる。
彼は箱の中を見下ろした。
「あとの荷物は後でゆっくり見ます」
「そうしてあげて」
ハルさんは立ち上がる。
「澪ちゃんも喜ぶと思うから」
ありがとう──思わず呟いた。
もちろん聞こえない。
それでも言いたかった。
しばらくしてハルさんは帰っていった。
扉が閉まると、部屋には私と彼だけが残った。
彼はもう一度、生徒手帳を手に取る。
ぱらりとページをめくった。
気付けば隣まで寄っていた。
見えるはずもないから、彼は何も気にしない。
肩越しから覗き込む。
生年月日や住所、学校名。
どれも見慣れた情報だ。
けれど、こうして他人の手で眺められていると妙に落ち着かない。
彼はしばらく顔写真を見つめていた。
どんな表情で見ているんだろう。
気になって反対側へ回る。
事故物件を見る顔じゃない。
幽霊を探す顔でもない。
不思議な気分だった。
「──朝倉澪」
また、小さく呟いた。
「ネットだと色々書かれてるけど」
写真へ視線を落とす。
「普通の女の子じゃないか」
むっとした。
「普通って何よ、失礼ね!」
反射的に返す。
もちろん聞こえない。
「被害者になる前はただの高校生だったんだな」
みんな事件の話や幽霊の話しかしない。
行方不明者、被害者、事故物件の少女。
そういう話ばかりだ。
誰も私の話をしなかった。
朝倉澪という人間じゃなく、事件の中の一人としてしか見ていなかった。
いつからだろう。
私自身もそう思うようになっていた。
自分は被害者なんだと、幽霊なんだと。
友達と笑ったことも、好きなお菓子のことも、読みかけの本のことも。
朝倉澪だった時間ごと、全部どこかへ置き去りにしてしまった気がする。
私だって──もう忘れていた。
彼はしばらく写真を見つめていた。
「ちゃんと生きてたんだな」
そうだ。
私は朝倉澪だった。
そして今、彼がその話をしている。
五年間、そんな話をする人はいなかった。
みんな事件のことを語り、幽霊の噂を面白がった。
そして私自身も、いつの間にか同じように考えていた。
気付けば自分のことを、被害者とか地縛霊とか、そんな言葉でしか見られなくなっていた。
朝倉澪の話なんて、もうずっとしていなかった。
胸の奥がじんわりと熱くなる。
そんなはずないのに。
私はもう死んでいるのに。
その時だった。
胸の奥で何かが揺れた。
びくりと身体が強張る。
視線を落とす──白い紐。
胸の奥から伸びる何本もの紐。
そのうちの一本が、今にも切れそうなくらい張り詰めていた。
「え……?」
思わず息を呑む。
何もしていない。
事件だって解決していない。
なのに──ぷつり──
白い紐が一本、小さな音を立てて切れた。
「あ……」
目の前で、確かに、一本だけ。
信じられなくて何度も見直した。
間違いない──減っている。
どうしてだろう。
事件は何も解決していないし、私の遺体だって見つかっていない。
それなのに紐が切れた。
私は呆然と立ち尽くす。
彼は何も気付いていない。ただ静かにノートパソコンを開いている。
けれど私の中では確かに何かが変わっていた。
一本だけ。
ほんの少しだけ。
だけど、確かに。
コメント
1件
うわあ、第4話、すごく良かったです……。特に「ちゃんと生きてたんだな」のところ、胸がぎゅっとなりました。澪さんが自分自身を「被害者」や「地縛霊」でしか見られなくなっていたところに、省吾さんのその一言が刺さって。日常の記憶をしまい込んだ段ボール箱の描写もリアルで、読みかけの文庫本や文化祭の写真に、澪さん自身が「こんな顔で笑ってたんだ」と気づく流れが切なくて。そして白い紐が一本切れた——何が起きたのか、続きがすごく気になります。