翌日から、直彦は寂しい目をするようになった。
一人の時は遠くを見ているようで、どこも見ていない。
空虚な瞳でどこかを眺めている。
彼女さんを失った理由が、人の手によるものだったと悟ってしまったから。
疑念はあったというけれど、彼女さんの居た部隊の人達は皆、演技が上手かったのか全員が真摯な態度で、とても悔やんでいたらしく……疑いきれなかったらしい。
だから、迷宮の中に理由を、手掛かりを、証拠を、求めていたのかもしれない。
最下層で二日ほどを過ごした。
直彦は女王と少し話すと、「一週間ほど地上に行く」と言って、地上に戻してもらった。
そして数日で帰ってくると、大きな木から少し離れたところで、泣き腫らした目で立ち尽くしていた。
でも、その目は真っ直ぐに木を見ていた。
遠くでもなく、どこかでもなく、真っ直ぐに大きな木を見ていた。
とても話しかけられる様子ではなくて、私はそっとしておくしか出来なかった。
夜の間ずっと、彼は眠らずにただ、じっと木を見ていた。
その次の日。
直彦は私に、「仇を討ってきたんだ」と、ぽつりぽつりと話をしてくれた。
健在だった件の部隊を探し、都合よく迷宮に潜っていたところに、話をしに行ったのだと。
彼らは八人とも全員、その態度は下卑た笑みを浮かべたもので、とても同じ人間とは思えなかったと。
問い詰めるまでもなく、当時、何をしたのか丁寧に教えてくれたのだそうだ。そして、直彦を口止めに殺そうとした。
覚醒者でもない彼らに本気を出すまでもなかったというけれど、普段は瀕死にならなければ出て来ないはずの、守護天使たちが出て来たらしい。
直彦の意を汲んだかのように、相手を全員、逃げられないように動きを封じてくれた。
そこから一方的に、直彦自身が悪鬼になったのかと思うほど、残酷に殺したのだと。
包み隠さずに、話してくれた。
私は、その夜も、直彦を胸に抱いて眠った。
彼は抵抗せずに、おとなしく眠ってくれた。
そんなことがあってから、何年が過ぎただろう。
お互いに何か気持ちを伝えるでもなく、ずっと一緒に過ごしている。
直彦の別荘で、特に何の不自由もなく、ユカも一緒に。
世界も、私の目から見る分には、平和だ。
実家に居るお母さんもそう言っているし、お父さんもそう言っている。
友達も、前よりも暮らしやすくなったと、楽しそうに過ごしている。
だからきっと、世の中は平和になったのだと思う。
色々な人が死んでしまったけれど、世界からは意外と、もしくは必然と、殺し合うような争いが無くなった。
**
美しい女性が、人を殺したというニュースが世界中で飛び交った。
そのどれもが、身知らぬ女性に殺されたというものだった。
返り討ちにしようにも、異次元の強さで銃火器さえ効かない。
私兵を持つような人物でさえ、たった一人の若い女に手も足も出ずに殺されてしまう。
その時のニュースの文句は、いつも決まっていた――。
『ふらりと現れた美しい女性が、人々を殺し回っている』
美しくて誰もが見惚れるような、そういう美女が突然現れる。
そして、ターゲットが決まっているかのように、迷わずその人に近付き、殺してしまう。
ただ、近辺の人々は事件を恐れつつも、ホッとするのだという。
事件によるその死は、周囲に少なからず平和をもたらしていたから。
ゆえに、人々は薄々気付いていた。
これは天罰というやつなんだろう――と。
本当に、色々な人が殺された。
世界の大物と呼ばれる人。著名人。彼らの訃報と事件は一気に拡散されて、特に目立っていた。
だけどそれも最初の頃だけで、そのうちに、その日のまとめニュースとして『誰々が美しい魔物に殺されました』と、サッと読み上げるだけになってしまった。
そのくらい、人々はその事件に関心を持たなくなった。
美しい魔物のお陰で、暮らしやすくなるのだから。
『世の中が回らなくなる』
そう危惧する声も最初こそ大きかったけれど、誰かが代わりを務めることが出来た。
殺された人のポジションは、また別の形で何とかなっていくのが、世の中だった。
無差別に殺されるわけではないと、人々がすぐに気付いたのも大きい。
美しい魔物に殺されるのは、人を害していた人だけであったから。
その基準は、正確にはどういうものか分からないけれども、周囲は納得していた。
「なるほど、そういう人が狙われるのか」
その納得通り、およそ普通に暮らしている人が狙われることは、無かったという。
逆に、「なぜあいつが狙われないのか」と、美しい魔物を望むことさえあるらしい。
つまるところ、戦々恐々としていたのは、『何か心当たり』のある人だけだった。
人々に対して、特に実害をもたらしていた人たちは真っ先に殺され、世界から居なくなっていた。
だからこそ、世界は落ち着いていた。
美しい魔物のお陰で、人同士で殺し合うことが無くなったのだった。
恐らくは。
いつしか、銃火器が市場に流通し始めた。
迷宮の魔物から、身を守るための。
迷宮に潜る人たちも、低コストで銃火器と弾薬を使えるようになった。
その用途が、最も正しく用いられるようになったのも、全て『美しい魔物』のお陰だった。
だがそのうち、それらも不要になっていくだろうと言われている。
魔物の数が激減し、潜る必要が無くなってきたからだ。
すると昔の、迷宮が生まれる前の時代のように、地上で田畑を耕す余裕が生まれた。
食料事情に良い変化が起き、流通も拡大した上に、安定するようになった。
『世界は、失われた文明を取り戻しつつある』
そう宣言する専門家も出始めた。
たったの数年で、世界は一気に色が変わった。
**
直彦は、最近よく笑うようになってきた。
私に微笑んでくれるようにもなった。
悲しい目をして、遠くを見ることも減った。
大切な人を無惨に失った傷は、癒えることが無いとしても……。空元気ではなくて、本心から笑ってくれることが増えているのが、嬉しい。
そしてユカは少し、背が伸びた。
女王を思わせる妖艶な美しさを、時折り醸し出している。
正確な年齢が分からないけれど、直彦と相談して、学校に入れてみることにした。
見た目が少し大人びてきたので、中学校に編入させた。
勉強は家でも見ていたけれど……それ以外の日常が心配で、最初は毎日付き添っていた。
だけどそれは杞憂で、いじめをするような子が一人も居なかった。
ケンカくらいはするし、あの子たちとは気が合わないだとかで、グループが分かれたりはしているけれど。そんなのはあって当然のことだ。
その程度で、ユカのスイッチが入ることはない。誰も殺したりはしないと、確信が持てた。それでももちろん、どんなに許せないと思っても、誰も傷付けてはいけないと言い聞かせているけれど。
ユカは落ち着いたグループに入れてもらうようになって、その友達と、お昼休みも楽しそうに微笑むようになってからは、徐々に付き添う日を減らしていった。
先生からも特に問題行動は無いと言われて、安心したのもひとつだった。
これからも、『力』を使わずに大人しく、そして何よりも、ユカが楽しい人生を送れるように。
不安と心配が織り交ざりつつも、ずっと見守っていきたい。
あと一年と少しが経って、高校に上がれば私よりも学力が付くことだし、今よりももっと、賢くて可愛い子になるだろう。
そうなったユカを見るのが、楽しみだ。
いつか、良い人も見つけたりして。
そしたら、私と直彦は何と言って紹介してもらおうか。
――兄と姉?
それとも、姉夫婦……。
そんな風に、私と直彦の関係が進展するとか、あるのだろうか。
「……あるといいのにな」
梅雨が終わり、快晴の突き抜ける青空を見上げて、ひとりつぶやいた。
ユカに「もう来ないで」と、一年以上続けた付き添いを断られた、中学校からの帰り道。
広い一本坂を下りながら、大きくなった街を見下ろしてから、その際立つ青の深さに目を奪われた。
――一人、押し帰されて見る雲一つない空は、大き過ぎるよ。
数日おきの、私の楽しみにさえなっていた、ユカとの登校。
学校まで来たのに、何も、その門の前で言わなくても。
ずっと言いたかったのを、どうやら今日この日に、思い切ったらしい。
突然、寂しいじゃない。
それが思いきり表情に出たみたいで、慌ててユカの方から、ギュッとハグしてくれたけど。
でもそんな、親離れというか姉離れというか、あの子の成長を感じられたことは嬉しい。
だから余計に、その先の先まで、急に考えてしまったのだ。
ユカが良い人を連れて来た時に、私と直彦はどんな関係になっているだろうかと。
「――何があるといいんだ? 優香」
不意に後ろから、直彦の声が聞こえた。
「えっ?」
「ちょっと仕事のついででさ。ユカの学校の前を通ってみたんだ。まさか優香が一人で歩いてるから」
振り返るとやっぱり、直彦だった。
寂しい時にパッと現れるなんて、憎い人だ。鈍いくせに。
「フラれちゃったぁ。もう、一緒に来なくていいって」
「ハハハ。やっと言えたのか。ユカも悩んでいたよ」
なんでこの人に、先に相談するのよ。
「ふぅん? そうなんだ?」
「お、おい。僕に怒らないでくれよ」
たじろいで見せても、大して怖いと思ってないくせに。
「じゃ、お姫様抱っこして帰ってよ」
「え。目立つよ? いいけどさ」
この人の感覚が、よく分からない。
「うそ。いらない。いいから帰りましょ。帰ったらお酒飲む」
「あぁ……そうだね。とびきりのやつを開けよう」
「おなかも減ったから、スーパーでお惣菜も買う」
「今日は僕が、何でも驕るよ」
「じゃあ一番高いやつにする」
「ハハハ。スーパーでいいのか?」
いつの頃からか見せてくれる、直彦のからかうような、本心からの笑顔。
こんな風に笑ってくれているなら、いつか私も――。
「こんど、直彦に相談があるんだけど」
そう言ったら、直彦に急に立ち止まられて、左手を掴まれた。
直彦に腕を掴まれるなんて、一緒に暮らしてから一度も無かったのに。
その目はいつになく真剣で、少し怖い気がした。
でも、顔を真っ赤にしていて、照れているようにも見える。
「僕も、君に伝えたい事があるんだ――」
夏の始まりに、最もありえないと思っていた、意外なことが起きた。
ユカが私離れしたことよりも、思いがけない出来事が。
私はたぶん、直彦を見つめ返して、泣いていたと思う。
よく覚えていない。
嬉しいはずなのに、思考も体も固まってしまって。
たぶん、ショックだったのかもしれない。
そんなことはまず起こり得ないと、本気で思っていたから。
ただ、一言、「ありがとう」と言った。
たぶん、そう言ったはず。
せっかくの思い出なのに、自分が何と言ったのか、全く覚えていない。
頭の中が真っ白になって、直彦しか見えなくなってしまったから。
だけど、彼の言った言葉は一言一句覚えている。
その声、眼差し、少し震えた手と、その体温も、全て。
伝えてくれた気持ちの全部を――。
「――優香。君を愛してしまったんだ。僕と結婚してくれないか」
格好をつけるような、そういう人じゃない。
亡くなった彼女さんへの想いも、消えたわけじゃないだろうから。分かる気がする。
何でそのタイミングだったのか、それは本人も分かっていなかったかもしれない。
一番驚いた顔をしていたのが、彼だったのが今になると可笑しくてたまらない。
鈍いくせに、その気持ちに気が付いた時の、真っ直ぐな想い。
色んなものが込められていて、伝えてくれた言葉の全てが愛おしかった。
それは今でもずっと変わらないし、心の光となっている。
変わらずに側で、私たちの行く末を照らし続けている。
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