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SCENE 08 ファースト・ファイア
夕方の手前、
熱は地面に沈まず、
幹の表面にだけ残っていた。
高い枝のあいだを抜ける風が、
どこか張りつめている。
葉は揺れる。
だが、
ざわつかない。
根元の器具だけが、
人の手で決められた角度のまま、
そこに固く置かれている。
作業員は
支持具の最後の留めを締めていた。
肩が沈み、
腕の筋が浮き、
鉄具が短く鳴る。
その一つひとつの音に、
枝の上の群れが
少しずつ位置を変える。
逃げるための動きではない。
見るための動きだ。
高い枝に寄るもの。
幹沿いへ沈むもの。
外側へ回るもの。
そして低い枝には、
一羽が残る。
人間は
その一羽から目を離せないまま、
器具のそばへ戻っていた。
さっきまで、
手と羽の形だけで続いていた細い通路が、
まだどこかに残っている気がする。
残っているまま、
作業は進む。
そのことが、
朝よりもずっと重い。
記録係が
端末へ新しい数値を呼び出す。
裂け目の深さ。
根の反応。
採取可能域の再計算。
回収予測。
表示面の上では
全部が整っている。
整いすぎている。
数字は迷わない。
迷うのはいつも、
数字を読む側だけだ。
作業員が言う。
「これで行ける」
記録係は
すぐには返事をしない。
画面を見て、
指を一度止め、
それから短く答える。
「十分」
十分。
その二文字だけで、
場の空気が少し狭くなる。
人間は
根元の裂け目を見る。
昼に入った浅い切り口が、
いまは夕方の光を細く飲んでいる。
湿りがある。
奥に濃いものがある。
そこへ向けて
器具の先端が
もう一度角度を取り直している。
深く入る。
その意味を、
体のほうが先に理解する。
人間は一歩前へ出る。
作業員は
振り返らない。
記録係だけが
目の端で人間を見る。
「止めるのか」
その問いは
声の形をしていたが、
半分は確認で、
半分はたしかめだった。
人間はすぐに答えない。
低い枝の一羽を見上げる。
一羽は見ている。
いつもと同じ目。
だが、
今日はその静けさの奥に
引いた糸みたいな張りがある。
高い枝の群れも、
いまはほとんど動かない。
待っている。
待っているという言葉が、
これほど場へ似合うことが、
人間にはいやだった。
作業員が
器具の中心部へ
新しいカートリッジを差し込む。
留め具が沈み、
内部の機構が低くうなる。
人間はその音を知っている。
切るための音ではない。
割くための音でもない。
燃やすための準備の音だ。
人間は喉の奥で息を詰める。
この星へ来てから、
まだ見ていない光がある。
装置の中に閉じ込められた、
持ち込まれた側の光。
根へ落ちれば、
その場の意味を変えてしまう種類の光。
人間は低く言う。
「まだ早い」
作業員がようやく振り返る。
「何が」
「深さが足りない」
作業員は根を見、
器具を見、
また人間を見る。
反論のための顔ではない。
計算のし直しの顔だ。
記録係が端末を持ったまま言う。
「足りるぞ」
人間は答える。
「採れる。
でも焼ける」
記録係の指が止まる。
作業員は器具の縁に手を置いたまま、
少しだけ眉を寄せる。
「焼くための段階だろ」
人間は根を見る。
その言葉が正しいことを知っている。
正しいから苦しい。
低い枝の一羽が、
羽先をほんの少し下げる。
人間はその小さな動きを見る。
さっきまでなら、
ただの応答として取れたかもしれない。
今は違う。
意味があるかどうかではなく、
そこへ意味を置きたくなる自分がいる。
パーフェクトイルカが
台の上で静かに言う。
「ハネラ側は
この工程を
終息現象として観測しています」
終息。
作業員が鼻を鳴らす。
「炎を知らないからだろ」
記録係が小さく言う。
「知らないからで済むか」
人間は
枝の上を見上げる。
知らない。
見たことがない光。
それが、
いまここへ来る。
この樹の表面に、
この根の奥へ、
この群れの目の前へ来る。
人間は掌を開きかけ、
止める。
一羽は見ている。
人間の手。
作業員の肩。
器具の中心。
裂け目の位置。
全部を見ている。
人間は
その目の前で、
まだ止めることができるのかどうか、
自分の中へ問いを落とす。
答えは遅い。
その遅さを、
きっとハネラたちは
ずっと危ういと呼んでいる。
作業員が口を開く。
「ここで引くと、
また最初からだ」
記録係が続ける。
「本部の時間もずれる」
人間は知っている。
時間。
回収量。
次の地点。
資源配分。
戻るための線。
全部が、
この一打の先へつながっている。
たった一つの火では終わらない。
だが、
最初の火はいつも一つだ。
そして最初の一つは、
あとから何度でも思い出される。
人間は低い枝の一羽を見る。
一羽も、
人間だけを見る。
その視線に
懇願はない。
命令もない。
それが余計に、
人間の胸を重くする。
言葉にされれば
反発できたかもしれない。
止めろと叫ばれれば
まだ何か言い返せたかもしれない。
だが、
叫ばない。
飛ばない。
襲わない。
ただ、
ここで何が起きるかを
見届ける位置を取っている。
人間は
その静けさの前で、
自分のほうが
ひどく雑に感じる。
作業員が
器具の先端をわずかに上げる。
調整は終わった。
いつでも行ける。
記録係が
確認の表示を開いたまま、
人間を見ている。
人間が何かを言えば、
記録係はまだ入力を止められる。
作業員も、
たぶん一拍くらいは待つ。
その一拍の長さが、
いまはやけに大きい。
人間は息を吸う。
この星の空気が胸へ入る。
慣れたはずの空気なのに、
いまだけは
外から押し込まれるみたいに重い。
目を閉じない。
閉じたら、
枝の上の目を失う。
「浅く」
やっと出た声は、
ひどく小さかった。
作業員が聞き返す。
「何だ」
「浅く入れろ」
記録係が眉を動かす。
「焼点だけ取るのか」
人間はうなずく。
作業員は少しのあいだ動かない。
それから、
器具の角度を
ほんのわずかに変える。
「浅いと回数が増える」
人間は答える。
「深いと返らない」
その言葉の返り方が、
自分でも思っていたより重かった。
作業員は何も言わない。
記録係が端末へ
修正欄を開く。
パーフェクトイルカは沈黙する。
沈黙したまま、
目を閉じもしない。
高い枝の群れが、
位置を変える。
一斉ではない。
だが、
全体が少しだけ高くなる。
見下ろすためではない。
巻き込まれないための高さに見えた。
低い枝の一羽だけが、
まだそのまま残っている。
人間の胸の高さに近い場所。
手が見える場所。
顔が見える場所。
逃げない。
人間はそれに耐えきれず、
一度だけ右手を上げる。
掌を見せる。
低い枝の一羽は
羽先を下げる。
さっきまでの
手と羽のやり取りと同じ動きだ。
同じなのに、
もうまったく違う意味へ見える。
人間は掌を閉じる。
一羽は
羽先を戻さない。
そのままの角度で、
見ている。
作業員が
装置の最終ロックを落とす。
低い振動。
器具の中心部に
熱が集まり始める。
まだ見えない。
だが、
来る。
未知の光が、
もうそこまで来ている。
記録係が
端末から視線を上げる。
「行く」
その一言で、
だれももう余計な言葉を足さない。
人間は一歩前へ出る。
作業員の横。
器具の影のきわ。
それ以上は行かない。
行けない。
低い枝の一羽が、
ほんの少しだけ
首を下げる。
人間には、
それが
見下ろしではなく、
見届けるための角度に見えた。
作業員の腕が動く。
器具の先端が
裂け目の奥へ向く。
内部で圧が高まる。
空気が変わる。
風が止まる。
葉の擦れる音も、
一瞬だけ消える。
その一拍の無音のあと、
光が生まれた。
線ではない。
塊でもない。
器具の先端から溢れたそれは、
緑や黄緑の大気とは
まるで噛み合わない色を持ち、
揺らぎながら
裂け目へ叩き込まれる。
人間は
思わず目を細める。
低い枝の一羽は飛ばない。
だが、
高い枝の群れが
一気に持ち上がる。
散るのではない。
距離を取る。
光に対して、
初めて明確な距離を取る。
裂け目が鳴る。
乾いた音。
その下に、
濡れたような音。
さらに奥で、
何かが千切れる低いひびき。
熱が走る。
樹肌の一本の筋が、
根元から幹へ向けて
瞬間的にゆがむ。
人間は
反射的に一歩出る。
「止めろ」
声が出たのは、
光がもう入ったあとだった。
作業員が
器具を引く。
引いても遅い。
裂け目の奥で
熱が拡がり、
根の一部が
内側から押し上がる。
土が跳ねる。
湿りが飛ぶ。
匂いが一気に立つ。
草でもない。
土でもない。
切り口の匂いが、
焼けた熱をまとって
周囲へ広がる。
低い枝の一羽が、
そこで初めて飛んだ。
だが、
遠くへは行かない。
人間の頭上をかすめる高さで
幹沿いの枝へ移り、
そこからまた
裂け目を見る。
その移動の速さに、
人間の胸が詰まる。
見たいのではない。
離れられないのだと
分かる動きだった。
高い枝の群れが、
音のない大きな輪になって
樹の周囲を回る。
羽が一斉に光を返す。
緑。
黄緑。
紫。
夕方の手前の光と混ざり、
そこへ
未知の光だけが
まるで別の理屈で暴れている。
作業員が叫ぶ。
「倒れる!」
その声で、
記録係が端末を抱えて退く。
人間は足を動かす。
だが、
退く先より先に、
幹の傾きが来る。
大きい。
ゆっくりに見えた。
ゆっくりなのに、
どうしようもない。
裂け目のある側へ、
根元がわずかに沈む。
そのあと、
幹全体が
軋みながら一つに倒れ始める。
地面が鳴る。
空気が押される。
高い枝の群れが
さらに外へ散る。
低い枝から移った一羽も、
今度は人間の視界から離れ、
倒れる軌道の外へ
弧を描いて飛ぶ。
その飛び方に、
人間は手を伸ばしかける。
届かない。
届くはずもない。
幹が裂け、
枝がしなり、
葉が空を削る。
そして、
倒れた。
音が遅れてくる。
大きい。
だが、
ただ大きいだけではない。
根から千切れたものと、
枝で折れたものと、
土ごとめくれたものと、
全部の音が
ばらばらに来る。
地面が揺れる。
人間の膝が折れそうになる。
記録係が
片手を地面へつく。
作業員が
器具を引きずるように離す。
パーフェクトイルカの台が
わずかに傾き、
それでも倒れない。
倒れた幹の下で、
根が露出していた。
深い。
思っていたより
ずっと深く、
ずっと多い。
一本ではない。
幾重にも絡まり、
土と水気を抱えたまま、
断ち切られた箇所を晒している。
そこへ、
まだ熱が残っている。
未知の光は
もう見えない。
だが、
見えなくなったあとで
場の意味だけを変えていった。
人間は
露出した根を見たまま、
動けない。
作業員の口が動く。
記録係の端末が鳴る。
遠くで鳥のような影が回る。
それでも、
耳に入らない。
目の前の露出だけが
あまりにも大きい。
根の断面。
土の剥がれ。
ねじれた繊維。
熱を抱えた湿り。
樹の内側が、
いまここに出ている。
隠れていたものではない。
無理に引きずり出されたものだ。
高い枝の群れが、
倒れた幹の向こうへ
次々と降りる。
だが、
鳴かない。
一羽も鳴かない。
音がないことが、
かえって場を裂く。
パーフェクトイルカが
静かに言う。
「ハネラ側、
喪失認識」
その言葉は
淡々としていた。
淡々としているのに、
人間の骨へ刺さる。
喪失。
数字ではない。
工程でもない。
採取域でもない。
喪失。
人間はようやく顔を上げる。
低い枝の一羽を探す。
見つかる。
倒れた幹の先。
まだ残っている中層の枝。
そこへ止まり、
こちらを見ている。
近くはない。
だが、
目は切れない。
その視線に、
さっきまでの
手と羽の細い通路はもうない。
失われたわけではない。
ただ、
その上に
もっと大きなものが乗っている。
人間は一歩出る。
倒れた幹へ近づき、
露出した根のそばで止まる。
熱がまだある。
土が湿っている。
匂いが重い。
手を伸ばせば、
焼けた裂け目に触れられる。
触れない。
さっきと同じように、
寸前で止まる。
だが、
さっきとはもう違う。
止めたから何だ。
止められなかったあとで、
触れない手に何の意味がある。
人間の指が震える。
低い枝の一羽は
それを見ている。
責めない。
叫ばない。
ただ、
見ている。
その静けさが、
さっきまでより
ずっと苦しい。
作業員が近づいてくる。
「回収できる」
その声は
低く押し殺されている。
記録係も来る。
「反応値、跳ねてる」
跳ねている。
回収できる。
採れる。
正しい。
正しいのに、
人間は振り向かない。
露出した根の奥へ、
まだ薄い熱が残る。
そこから
人の目的が生まれる。
その同じ場所から、
ハネラの世界が一つ失われている。
二つが、
同じ断面に同時にある。
人間はそれを見ている。
パーフェクトイルカが
また静かに言う。
「ハネラ側は
この樹を居住域としていました」
居住域。
人間の胸の奥で、
何かが一段沈む。
住んでいた。
記録係が
息を止める気配を見せる。
作業員は
一瞬だけ口を閉じ、
すぐに根へ目を戻す。
目を戻さないと、
たぶん動けなくなるのだろう。
人間は
低い枝の一羽を見る。
いや、
もう低い枝ではない。
倒れた枝だ。
位置が変わっただけで、
同じ個体のはずなのに、
世界の傾きまで変わったように見える。
一羽は
翼をたたみ、
首を高く保っている。
近寄らない。
離れない。
そのあり方が、
喪失の輪郭をいっそうはっきりさせる。
もし散ってくれていたら、
まだ自然現象に近く見えたかもしれない。
だが散らない。
見ている。
残っている。
だから、
これは事故ではなく
起こしてしまったこととして
場に立つ。
人間は
掌を上げる。
習慣みたいに。
祈りでもなく。
謝罪でもなく。
ただ、
さっきまで繋がっていた形の記憶として。
一羽は
羽先を下げない。
その代わり、
首をほんの少しだけ傾ける。
その角度は、
拒絶でも受容でもない。
ただ、
いまの手には
さっきの意味が通らないことを
示す角度に見えた。
人間は手を下ろす。
胸が痛いわけではない。
喉が焼けるわけでもない。
それでも、
内側のどこかが
ひどく居心地の悪い位置へずれている。
作業員が器具を確かめる。
記録係が数値を読む。
パーフェクトイルカが静かに待つ。
倒れた樹の向こうでは、
群れが新しい位置取りを始めている。
喪失した場所を囲むように。
残った場所を守るように。
その配置の速さが、
人間にはまた痛かった。
こちらはまだ
何が起きたかを
言葉にできないでいるのに、
向こうはもう
失ったものの輪郭を
置き直し始めている。
高い知性。
自然重視。
そういう語では足りない。
ただ、
世界を壊されたあとでの動きが
あまりにも速い。
人間は露出した根を見る。
確かに価値がある。
燃料のもとが濃い。
回収すれば計画は進む。
それも全部、
見れば分かる。
分かるのに、
根の断面が
傷口にしか見えない。
最初の火は、
もう終わった。
だが、
終わったあとで
すべてが始まってしまっている。
人間はゆっくりと
一歩下がる。
土が鳴る。
倒れた枝の一羽が
その音にだけ
目を細くする。
飛ばない。
そこを離れない。
人間はもう一歩下がる。
それでも視線は切れない。
その視線の中で、
人間は初めてはっきり知る。
世界を一つ失わせた。
それが、
回収可能域より先に
胸へ来てしまった。
夕方の光がさらに傾く。
倒れた幹の上を、
緑と黄緑の羽が
静かに移動していく。
その中にあって、
未知の光だけが
もうどこにもない。
ないのに、
場の中には
まだその余熱が残っている。
火は終わった。
だが、
終わったのは火だけだ。
露出した根。
倒れた樹。
移り直す群れ。
返らない手と羽。
人間はその全部を見たまま、
何も言えない。
言葉が来ないあいだ、
低い枝だった場所の一羽だけが
変わらずこちらを見ている。
その目の前で、
人間の側の世界は
もう元の形に戻れなくなっていた。